8才・小学3年生の孫娘が読書感想文を書くと言う
宿題なんだと
本は学校の図書室で借りて来たそうな
でも
「どう書いたらいいのか分らへん」・・と
「自分の想ったことを書いたら いいんやで」
と、言ってはみたものの
8才の孫娘には、とうてい理解し難い訓えであらう
分ろう筈もなからうに
・・・
想えば、20数年前
吾娘(孫娘の母)にも、同じ訓えをした
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読書感想文
よだかの星を読んで
宮沢賢治 「よだかの星」 を読んで僕は、
この文が人間の世界のきたなく悪い所を、鳥の世界にしたのだと思った。
よだかが身にくく、弱いために他の鳥からきらわれ、ばかにされる。
もしよだかが強かったらどうだろう。
ここを人間世界にたとえてみると、一人の貧しい家の子が遊ぼうと思って外に出た。
でも家が貧しいだけに他の子どもに相手にされない。
それどころか悪口をいわれたりする。
もし子どもが遊ぼうとしてもその子の親がとめて遊ばせないこれと同じだと思う。
よだかがみにくく生まれたために、その子が貧しい家に生まれたためにああなるのだろう。
鳥達はたかにはぺこぺこして名を聞くだけでもおそれたそれはたかが強いからであったのだ。
ちょうど、たかが会社の社長で鳥達が社員、よだかがその下ではたらくといったようだ。
よだかが自殺する、もし他の鳥がと僕は思う。
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昭和42年(1967年)
中学一年生(13才)少年の、なんと幼稚なる読書感想文である
然し、これが
昭和38年(1963年)片田舎から大都会に移住して来て
居住地域に於いても、学校のクラスに於いても
なかなか、仲間に入れて貰えない
そんな境遇から、少年の心懐に宿った コンプレツクス
そうした背景の少年が読んだもの・・・そう理解すると
上記の少年の感想文への評価も少しは変ろう
読書とは
読書感想は、あくまで一個のオリジナルな想いであって
セオリーなぞ、あり得ない
敢えて言う
著者が何を言いたいかを読むものではなく
読みし者が、著書を通して如何に己が想いを読み取るかである
読書とは、斯の如きもの
それでいい・・と
私はそう想う
今や
ペットはペットに非ず
彼等も亦、我家族の一員なるぞ
・・・と
夕暮時の淀川堤
ペットを連れ散歩する人影
何とも贅沢なる光景である (ゼイタク)
而し
私はペットを持たないし
ペットで心を癒したりはしない
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家族が食うて行くだけで精一杯だった頃の、昭和36年(1961年)
7才・小学校1年生の私は、犬を飼いたくて、飼いたくて、犬を貰ってきたものの
飼いきれずに、とうとう、頼んで以て貰って呉れると言う親戚に手放した
更に、翌年
道端で偶々 捨て猫 を見つけ、その鳴き声に つい不憫と想い 家に持ち帰った (フビン)
やはり
母は反対した
「捨ててきなさい」・・と
母がそう言うのも無理はない
小犬もろくに飼えなかった私、子猫なぞ飼える筈もない
私は母に言われたとおり、子猫を捨てた
後ろ髪を引かれる想いで立去ったのである
ミャーミャー・・と、その鳴声は耳を離れなかった
そんな苦い体験をしたのである
・・・
なんとも、切ない話である
夕暮時の淀川河川敷公園
今や
斯のような光景
全国の何処にでも普段に見られよう
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