joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

これであたいもblogger

2006年04月30日 | 日記

昨日寝たのは夜(朝?)の4時過ぎだったのに、8時半ぐらいには目が覚めてしまいました。こういう時って、僕の場合は、寝れないのに眠たくて活動もできないという状態に陥ります。仕方なく、というか惰性に引きづられてネットサーフィンに耽っています。

今日は、アメリカの会社のブログサーヴィスでアカウントを取得しました。もちろん無料のサービス。

内容はこのブログの本や映画の記事をそのまま英語にしていきたいと思っています。思ってはいるのですが、それらを全部英語にするのは大変です。試しに一つの記事を自動翻訳機にかけてみたのですが、それでも長ーくなって手直しに大変です。

どれだけ翻訳機の技術が発達しようと、さすがに適当に書いた日本語をまともな英語にはしてくれません。そこで全文見直す必要があるのですが、その量をみて一気にヤル気が失せてしまいました。

翻訳機を使わずに全部自分で一から英作するのも大変ですが、翻訳機を使っても大して労力を省いてくれないような気もする。そこまでして英語版のブログを作る必要があるだろうか。

しかしせっかくウェブは世界に開かれているのだから、やらないともったいない気がします。

ところで、アメリカの人のブログってみんな自分の顔写真を載せるんですね。恥ずかしくないのかな?その顔を他人が見たいとでも思っているの?

僕も旅の恥というわけじゃないけど、英語版のブログには自分の顔をのせちゃおうかな。

とりあえず私の英語ブログはまだエントリーのないままです。


涼風

『あの頃ペニー・レインと』

2006年04月30日 | 映画・ドラマ

昨日の夜に『あの頃ペニー・レインと』が放映されていました。

3年ぶりぐらいに観たけど、今までで一番感動したかもしれない。こんなに素敵な映画はホント珍しい。映画の中にまったく無駄がなく、一つ一つのシーンがまるで大切な思い出のようだ。

舞台は1974年で、新人バンドのツアーに同行する少年ジャーナリストの体験を描いたもの。十分にコンテンポラリーでありながら十分に当時の雰囲気を表現している。

今回見て、監督のキャメロン・クロウは女の子の趣味が僕にはいい感じ。主人公の男の子の姉、当時新人のケイト・ハドソン(すでにオーラと貫禄がたっぷり)、アンナ・パキン(『ピアノ・レッスン』の女の子)、みんなかわいい。個人的にはアンナ・パキンをもっと観たかった。

ビリー・クラダップが演じたバンドで一番人気があるギタリストの役は、はじめはブラッド・ピットにオファーされていて、ピットが断わったそうです。でもこれはビリー・クラダップで正解だったのでしょう。

監督の少年時代を思い入れたっぷりに回顧したようなこの小品(2時間あるけど)には、ブラッド・ピットのような「スター」は似合わなかったと思う。一つ一つのセットや小道具、楽曲にとても凝っているこのパーソナルな映画には、ビリー・クラダップのような文学的な(?)香りのする俳優でよかったと思う。

ケイト・ハドソンは文句のつけようのない可愛らしさ。やっぱりこのデビュー作がいまだに彼女のベストなのかな。その後は彼女はハリウッドを代表するコメディエンヌだけれど、やや類型的なコメディ作の役柄ばかりを与えられている。

それに比べればこの映画は、コメディと悲哀と可笑しみが同居していて、だから彼女も単なるコメディエンヌ以外の側面が出てよけいに魅力を発揮している。

原題の“Almost Famous”って、「ブレイク直前」って意味だったんですね。知らなかったなぁ。


涼風

中立か支配か 『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』ジョン・バッテル (著)

2006年04月29日 | Book
話題のグーグル本が次々と出て本屋に平積みされていますね。その一冊を読んで見ました(本屋で買ったわけではないですが)。題名は『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』(ジョン・バッテル 著)。

グーグルと言っても僕は何がすごいのか全く知らず、まわり(というか色んなブログ)が騒ぐので気になっていた程度でした。たかが検索に何を騒ぐのだろう?という感じで。これを読み終わってもどこかで「でもたかが検索だし、期待しないほうがいいんじゃない」という想いがどこかであります。

しかし同時に、グーグルがなぜこんなに話題になるのか?ということもなんとなく分かった気がします。

僕は新技術・流行・時代の新しい流れというものに疎いと自分で思っていて、その新しいものが定着して初めてその重要性に気づくタイプの人間だと思っています。

この本はそういう僕のようなタイプにもグーグルの重要性をとりあえず教えてくれる本です。ただ、技術の話が(僕にとっては)少し細かくなるとついていけませんでした。

著者がグーグルという検索で強調する点(の中で僕が理解できた)のは、

・(開発成功当時の)グーグル検索はあらゆる検索の中でもっとも網羅的にウェブ上のデータをカバーし、打ち込まれたキーワードの文字を拾い出してくること。

ただ、この文字を拾い出す過程で、グーグルはそこになるべく検索機の解釈を込めないこと。

これは他の、例えばアマゾンの検索などとは違うらしく、他のポータルサイトの検索では、打ち込まれた文字から使用者の意図を解釈し、より使用者にあった情報を提供しようとする方向に開発が行われています。

ただその際に行われる他の検索機の開発方向は、広告主が払ってくれるお金に応じて、その広告主のページに誘導するような結果が打ち出されます。

ヤフーなどはこのモデルを、立派なビジネスモデルだとして追及しているそうです。

それに対してグーグルの方向性は、あくまで“中立”を保持すること。

打ち込まれたキーワードと関連するページを網羅的に紹介するスケールが革新的だったグーグルですが、またグーグルがそのページを提供する仕方は、商業的な要請に縛られないことをポリシーとしてします。

このあたりが30前後のエリート技術者が作った一風変わった傾向として強調されます。

グーグルが提供する検索結果は、あくまでキーワードに関連するページの中で、閲覧数の多いページを先に表示し、その閲覧数の多さも、どのようなリンクの経路でクリック数が多くなったかを緻密にサーチすることで、より“有意味”なクリックの数を弾き出します(ランク方式)。

それによりグーグルは、「中立」により使用者の側に立った検索結果を出すことを可能にしました。

しかしこの「中立」性とは、もちろんグーグルのアルゴリズムが作り出すものです(「アルゴリズム」という言葉の意味は僕は正確には知りません)。

したがって、世の中はウェブのページを網羅する能力の点で秀でるグーグルを使うように強いられる一方で、グーグルが弾き出す「中立」的な検索結果がキーワードと結果との有意的関連であるという結論を一方的に押し付けられることになります。

グーグルのもつこの「中立」的なポリシーと圧倒的な技術力が、こうして、世界・社会に対して、何が重要であり何が重要でないかを決める基準として作用します。

このことがもたらすネガティブな作用も例えば著者のジョン・バッテルは紹介します。

例えば、今やネットを用いない商売は消え行く運命にあると言われるほどネットの影響力は大きいものです。しかしネットが実際に消費者に市民に影響力をもつのは、検索を通じてネットに接するからです。

そこで、ある商店主が自分の商店名をグーグルで検索すると第一位に自分の名前が来ました。グーグルのアルゴリズムがその名前を選んだのです。

あるいは、今私が思いついたのですが、検索して上位に来るワードを使ってネット上のお店を作りビジネスを始めるというアイデアもあるでしょう。

そのようにして資金を借りビジネスを始めます。順調にお客はグーグルを辿ってネットのお店に来ます。グーグル様様です。

しかしこのお店は、お客が来る案内を完全にグーグルに依存しています。たとえグーグルにお金を払っていなくても。

ある日突然グーグルが、検索結果の表示方法を変えると、このお店はあっという間に結果順位が下がり、100ページ目に来てしまいました。100ページも後方の順位までクリックする人はおらず、そのお店は倒産の危機に迫られました。

これは本書で紹介されている実例です。グーグルは、その都合でアルゴリズムを変えるだけで、多大な影響を市民の生活にもたらします。

そのお店は仕方なくグーグル独自の広告方式アドワーズの権利を買うことを強いられました。

アドワーズはそれまでのバナー広告と違い、打ち込まれたキーワードに基づいて関連性のある広告をグーグルが選び出し表示するもので、皆さんのほうがよくご存知だと思います。

この広告も、グーグルの「中立性」というスタイルに固執する理想主義的な創業者の青年たちが採用したスタイルで、あくまで検索欄に打ち込まれたキーワードと関連する広告を、けばけばしいデザインを省いた文字だけの広告で検索結果とは別に表示するものですね。

(今「大足」という文字をグーグルに打ち込んだら、検索結果とは別に、「大足行きのツアーなら エイビーロード海外旅行予約サイト ツアー、航空券、ホテル情報満載! www.ab-road.net/」という広告が出てきました)

この事例は、「中立」であることを標榜しながら(グーグルの社是は“Do no evil”)、その圧倒的な技術力で個人の生活を完全にグーグルに依存させる危険性を示しています。

インターネットの時代だとよく言われますが、インターネットの影響力を左右するのが検索機であることを、グーグルは教えてくれました。それはヤフーもマイクロソフトも気づかなかったことだそうです。

つまり、ネットが影響を及ぼすのは、どういう情報を使用者が見るかで決まり、どの情報を見るかは検索機が決めるということ。検索機のアルゴリズムが私達の生活を決定することになります。グーグルの社是が“Do no evil”とわざわざ言うことは、いつでも彼らは“evil”になることができることを示しています。

その危険性を示した事例の一つが、中国政府の圧力に屈して、政府が指定する有害サイトを検索結果から排除する決定でした。中国ビジネスでの展開か「中立性」かの選択を突きつけられたとき、彼らはビジネスの展開を選びました。

このことは、検索の圧倒的な技術力が生活の隅々まで影響力を及ぼす一歩となりうると考えられます。中国政府との交渉やアメリカ政府の愛国法などによって、グーグルはいつでも検索機能を使用者に無断で変更することができ、そのような検索機能を私たちは「中立」と信じて使用します。

これはグーグルの問題というより、ウェブという技術の問題ですね。今までも新技術が生活を支配する事例はいくらでもありましたが、検索はそれとは比べようもないくらい個々人の生活を誘導する可能性をもっています。

おそらくケータイにコンピュータの機能が埋め込まれ、私たちは生活のあらゆる情報をネットで得るようになるのですが、そのときに検索機会社の意向に操られないという保証はないわけですね。

これは、グーグルを越える検索機が現れても消えない問題です。“no evil”という言葉を無条件に信じられるほど、私たちはナイーブにはなれません。


グーグルという会社が本格的に大きくなり始めてから、まだ6、7年ほどで、オン・ジ・エッジと変わりません。圧倒的な技術力をもっていると言っても、それは全く揺らぎようのない優位なのか技術に疎い僕には分かりませんが、彼らがマイクロソフトのようになれるかどうかはまだわかりません(もうなっている?)。

ただ、その「中立性」という看板とビジネスとのつながりをどう結び付けていくかで、グーグルはつねに自己矛盾を検証しながら解決策を導き出すよう強いられていく気もしました。

アドワーズは一つの解決策でしょうが、それでもウェブメールでメールの文章と関連するアドワーズの広告をメールに添付する機能は大いに不評だったそうです(その文章を機械が“読んだ”わけではないとしても)。

どこまでグーグルは「中立」であるのか。創業者でスタンフォード出身のインテリ青年である二人は、そもそもビジネスというものに興味があるのか。ビル・ゲイツほどビジネスに興味がないとき、彼らの「中立」にこだわる理想主義は、ルソーの「一般意思」のように、グーグルによるウェブと市民生活の支配にならないのか、等等いろんなことを思わされます。

この本はおそらく、「初期グーグル」に関するレポートということになるのでしょうが、なぜグーグルが話題になるのか、そのことを一般の人にも教えてくれる本だと思います。

参考:

同書を紹介したものとしては、「The Search -Webの進化をSerachという観点から俯瞰する-」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

ネットで話題のグーグル・アドセンスをめぐるトラブルの事例報告については、「【驚】Google AdSenseからの契約破棄通知」「【業務連絡】Google AdSenseのリンクを停止」『たけくもメモ』 この不正クリックの問題も『ザ・サーチ』で取り上げられていて、グーグルも対策に追われているみたいです。

この不正クリック疑惑の問題を通してグーグルの業務方針の問題点を述べたものとしては、「梅田望夫さんのブログで」『たけくまメモ』、「例外処理=プロとアマの違い」“404 Blog Not Found”

また、グーグルの技術力、グーグルという会社の成長度について冷めた目で分析しているものとして、「グーグルの価値」「『国家の品格』と『ウェブ進化論』」『池田信夫 blog』

逆にグーグルのビジネスとしての可能性を指摘したものとして、「Googleは広告会社か?」“404 Blog Not Found”

などがあります。


『母が教えてくれなかったゲーム』 ベティ・L. ハラガン (著)

2006年04月28日 | Book
以前、ムギ(勝間和代)さんの『インディでいこう!』という本を紹介しました。それは女性がビジネス社会で生きていく中で、気をつけていくべきことをコンパクトにまとめている本ですが、その中で証券アナリストの著者が参考にした本として『母が教えてくれなかったゲーム』(ベティ・L. ハラガン 著)という本を挙げていました。

『インディでいこう!』でも、会社の中で女性が男性とディスコミュニケーションに陥ることで昇格していくチャンスを失っていく危険が指摘されていましたけど、この『母が教えてくれなかったゲーム』は、“会社”という組織の中でなぜ女性が概して出世できないのか?どうすれば今からでも出世できるのかをこと細かに説明した本です。

女性が出世する秘訣を述べているのですが、当然それは男性にも当てはまります。ただ、ハラガンの観察では、男性は企業という男性文化の中で意識せずにその秘訣を身につけるのに対し、女性はそれまで育った環境の違いや企業での女性排除の風潮の中で、出世するノウハウを身につけることができず、さらに問題なのは女性自身が「なぜ女性は出世できないのか?」という問題の原因をちゃんと認識できていないことにあります。

ハラガンによれば、多くの女性は、出世できないのは自分の能力に問題があるからだと考えるのですが、実際は能力以前に、出世ゲームのルールについて女性が無知であることに由来すると著者は指摘します。

かなり具体的に細かいことを書いていて、実際に企業で働いたことのない私には、興味深い点もあり、しかし同時に読んでいて途中から退屈もしてきました。しかしそれは私が男でありかつ働いていないので、著者の問題を切実に共有していないことに由来するのであって、この本自体はワーキング・ウーマンにとってかなり面白い本なのではと思います。

また、最近はキャリア教育が盛んで、しかし実際どういうことを教えているか私は知りませんが、新人社員やこれから働こうとする学生の方たちが読んでも、かなり面白いのではないかと思います。

実に細かいことが多く述べられていますが、その中で著者が比較的強調するのは、

“企業”という組織体における男性優位の文化

企業は女性に対して巧妙に補助的な役割のみを与える

ということだと思います。


“企業”という組織体における男性優位の文化

“企業”という組織体には未だに男性優位の文化があります。おそらくその観念は純粋に経済領域だけを分析してもわからないでしょう。それは、経済だけではなく、経済も含めて、“闘う”という文化を男性社会がもち、男性は子供の頃からその闘いの文化で生きていることです。

女性の競争意識が比較的抑圧がちになり、そのため陰湿さを帯びやすいのに対し、男性は子供の頃から闘争意識を全面に押し出します。遊び仲間の間で男の子は一種のギャング集団を形成し、多くの子は殴る蹴るという行為を互いに行います。

またその中で強い者と弱い者との間の序列を男の子は学びます。

この序列意識は強烈で、多くの男性は子供の頃に、その闘争の中で挫折・屈辱を覚えます。

それは幼児の頃の遊び集団でも見られるし、リトルリーグ、中学校での部活、学校での不良グループとの関わりなどで、多くの男の子は闘いと暴力を直接的に経験します。

そうしたつねに闘う環境にいる中で、男の子は、グループ内での序列の中で、自分を守るために、自分をどう抑制し、自己表現すべきタイミングを学びます。著者のハラガンは、多くの男性は子供の頃からのこうした経験で、挫折を経験していると述べます。

日本人のわたしたちから見れば欧米の人間は自己主張が強いように感じるし、著者もそう感じると述べますが、にもかかわらず実際はアメリカの男性はグループ内で自分を抑制することを学んでいると述べます。

これは、男性は挫折を通じて闘わなくなるという意味ではもちろんなく、闘う時はより巧妙に立ち回らなければならないことを男性は知っているという意味です。

強い者が弱いものを支配するヒエラルヒーの中で、どうすれば男性は自分を守ることができるか本能的に知っているということです。

それに対し、こういう“闘い”と“闘う組織”の文化について女性は無知だそうです。子供の頃から闘う経験をもたない女性は、まるでルールをも知らずフィールドに投げ出された新人選手のように、ナイーブに自分のやりたいことをやろうとし、闘争の姿勢を全面に出してしまうことがあること。

こうしたナイーブさにより、女性は、“戦う組織・文化”の中では男達が闘いの本能を押し隠し巧妙に振舞っていることに気づかず、周りに容易に敵を作ってしまうこと。例えば、上司の上司に直接話して自分の上司のプライドを傷つけてしまうことなど。

“自立する女性”というと、イメージ的に男性以上に余裕がなく闘争意識全面で働く女性という感じがあるけれど、それもこうした事情に由来しているのかもしれません。多くの女性は子供の頃に露骨闘ってきた経験がないため、大人になって急に闘おうとし、あからさまなファイティングポーズを取ってしまいがちなのかもしれません。それで余計に周りから陰口を叩かれたりすることもあるかもしれません。

企業は女性に対して巧妙に補助的な役割のみを与える

ハラガンが強調することは、このように闘うことに慣れていない女性は、男性にとってエイリアンであり、“闘いの文化”にそぐわない異質者であり、本来はそこにいてはならない人たちです。

にもかかわらず男女雇用均等法がある中で女性も雇っていくためにどうすればいいか。そこで考え出されたのが、名前は“マネージャー”など管理職的な肩書きを与えながら、組織の主要業務から外していくこと。より専門的な職種(ストア・マネージャー、秘書)などに押し込めること。

何が主要な業務かは組織によって違うでしょうが、例えば多くの企業では生産と販売で計画・アイデア・指示を立案していく部署が中枢なのでしょう。

そうした中枢は、上まで続く階段の過程にあり、それに対し階段から枝葉にある部門があります。中枢とは収益を上げる計画を練る場所であり、枝葉とはその計画を練る人たちをサポートする場所です。女性は、管理職的な肩書きを与えられながら、この枝葉の部門に押し込められていきます。

この中枢と枝葉が、自分の会社ではどの部門に当るのか、それをちゃんと見極めて行動することを著者は説きます。


他にも、服装で気をつけるべき点、協力者を作る方法、転職をキャリアアップにする作戦、などなどこの本では実に具体的なことが色々と述べられています。

ただその中でも強調されていることは、上に上げたように、

・企業の中で中心的な、つまり出世につながる部門は何なのか?

を考えて、

・男性は女性を中心的な部門からどのようにして(巧妙に)外そうとしていているのか?

ということを絶えず知っておくべきだということです。

女性が出世できないのは、能力がないからではなく、こうした企業の暗黙のルールを知らないからです。


この本を読んでいると、私はだんだん憂鬱になってきました。

それは著者が、働くという問題を、とにかく企業の中で出世することというのみにフォーカスしているので、息がつまりそうになるからです。

これは著者への論難ではなく、著者が既存の企業文化を正確に描写しているからです。この現状の中で、女性というハンディを背負った存在がサバイバルしていくための方法を100パーセント性格に描き出しているからこそ、読んでいて憂鬱になるのです。

能力があり、20世紀的な軍隊組織のマネジメントに順応できる女性にとっては、そしてそのような男性にとっても、この本を読んでいてためになる本に違いありません。

また実態としてこの軍隊組織で女性が不遇だった以上、それを克服する処方箋を、多くの女性はサバイバルするために、生きていくために切実に求めていたし、今も求めているに違いありません。

ただ、この前時代的なマネジメントに勝ち残ることだけを目標とするなら、それはバリバリのキャリアウーマンにとっては薔薇色の世界になっても、そうした軍隊組織に馴染めない人たち(男と女に関わらず)には、相変わらずビジネス社会はそれに馴染めないものを排除していくことになります。

そうすると、この本はエリートサラリーマンやキャリアウーマンの垣根を低くすることはできても、軍隊組織に馴染めるものと馴染めない者との垣根は残したままになります。

そこには、「女性差別」は消えても、経済力による差別は残ったままになります。

そこが、こういう本を読んで僕が憂鬱になる原因です。



参考:「読書は人生を変える???」『日々の生活から起きていることを観察しよう!! by ムギ』 この記事で紹介されている『ビジネスゲーム(会社の掟)』と『母が教えてくれなかったゲーム』は、著者も訳者も出版社も同じなので、同じ書籍を違う題名と装丁で出したものかもしれません。

『美ら歌よ~沖縄ベスト・ソング・コレクション~』

2006年04月27日 | Music



2、3日前に母親が『美ら歌よ~沖縄ベスト・ソング・コレクション~』というCDを買ってきました。

もともとはBEGINの「島人(しまんちゅ)ぬ宝」が目当てでした。一体どこでそんな曲を知ったのだろう?

彼女はここ何年か詩吟をしているので、声がすごく響く。鼻歌でも響く。

それはともかく、僕のとりあえずの驚きは、夏川りみという人の声。以前テレビでカラオケ大会みたいな番組に出ていたときに、「なんてきれいな声なんだろう」と思ったけれど、あらためてCDで彼女の「涙そうそう」を聴いていると、その圧倒的な声に圧倒される。まるで黄金色の声だ。響き渡る声から金の粉が飛び散っていくみたい。

まだ聴き始めたばかりだけど、この代表的な沖縄ソングを聴いて分かったのは、ほとんどの曲をどこかで聴いたことがあるということ。僕はラジオもテレビも歌番組を見ないし聴かないけど、それでも知らず知らずのうちにこれらの歌の多くを知っていました。

宣伝文句に「クセになります」と書いてあるけど、そうかもしれない。朝、気持ちをゆっくりさせたい時に、このCDならすっと聴けて行きます。


涼風

図書館への購入希望

2006年04月27日 | 日記



今日、兵庫県立図書館で「ここでは購入希望を出したら検討してもらえますか?」と聞いたら、「はい、検討します」と応えてくれました。今まで神戸市立図書館には購入希望を出して本を買ってもらっていたのですが、県立図書館にはそういうシステムがあるとは思っていなかったのでちょっとうれしい驚きでした。

兵庫県立図書館は明石公園の中にあり、明石市立図書館と並立しています。ただ雰囲気はかなり違います。

明石図書館は絵本も沢山置いてあり、普通の本も置いてあり、パソコンもあり、とかなり普通の図書館だと思います。利用者はわりと多いんじゃないかと思います。

県立図書館は、かなり専門書に特化している印象があります。蔵書数はかなり多いのですが、市立図書館にあるようなエッセイとか評論とか、軽い読み物は置いていません。

図書館の建物自体もかなり大きく、大学の図書館並みに広いんじゃないかと思います。子供は全然いないし、市民が気軽に立ち寄るような雰囲気じゃありません。どちらかと言うと、専門的な調べものをしたい人のためにあるような図書館ですね。調べたことはないですが、これで洋書がたくさん置いてあれば、本当に大学の図書館みたいです。館内でおしゃべりの声が聞こえることもありません。とても静かです。

ともかく、一応購入希望を出してみました。1万円近くする本だし、資料集付きのmp3なので買ってもらえるかどうかわかりませんが、期待して待ってみたいと思います。

今は図書館は蔵書点検の時期なのかな?神戸市の図書館も各館で蔵書点検が行われていますが、県立図書館もこれから蔵書点検に入るので、購入できるかどうかは当分わからないみたい。いい返事があればいいのですが。

涼風

『産業人の未来』 P.F.ドラッカー(著) 2

2006年04月25日 | Book
『産業人の未来』 P.F.ドラッカー(著) 1からの続き)

「自由」をもたらす真理の不可知性

興味深いのは(or当然なことに?)、ドラッカーにとって、この「自由」は真理の不可知性を前提する必要があるということ。ここから彼は、ルソーならびにフランス革命の理念への批判へと向います。

選択の自由とは、例えばAを選ぶ可能性と同時に選ばない可能性が存在するということ。この「選ばない=選ばなくてよい可能性」とは、つまり、人間には真理を理解できない権利が存在すること、人間には間違える権利が存在することを意味します。自分も含めてすべての人間が間違う可能性を前提することを、「自由」の概念は要請します。私たちは絶対の真理を知りえないからこそ、他人に従わず自分で選択する「自由」を確保できます。もし絶対の真理を知りえると想定すると、その時点で人間に自由は存在しなくなります。

論理的な推論で絶対の真理が存在するかどうかは、「自由」の存在にとって重要ではありません。どれほど論理的推論で真理に到達しようと、その真理は間違いであると「懐疑」すること、その態度によって初めてそこに「自由」は存在します。

「自由」とは知識・論理・言葉によって証明するものではありません。むしろ、どのような知識・論理・言葉が発せられようと、それをつねに疑うこと、そこに初めて「自由」が生まれます。そこで疑うことで、私たちは初めて「別の可能性」を探求する余地を確保でき、個人の意思を可能にすることができます。

ドラッカーはこの「自由」とキリスト教との結びつきを次のように述べます。

「自由の基盤となりうるものは、西洋ではキリスト教の人間観しかない。不完全で弱く、罪深いもの、塵より出でて塵に帰すべきものでありながら、神のかたちにつくられ、自らの行為に責任をもつものとしての人間である」(127頁)。

私たちは、自分が間違える可能性を前提にして初めて、自分の行為の根拠は「真理」ではなく自分にあることを示すことができ、それによって初めて自分の言動に責任をもつことができます。

この真理の不可知性は、真理は存在しないとする相対主義とは異なります。真理は存在しないとみなす相対主義では、個人は自分の行為に「責任」をもつことができません。「責任」とは、自らの行為の正しさ・適切さを検証する態度であって、そこではなんらかの基準が想定されています。それが「絶対的な基準」であるかどうかは個人には分かりません。しかし、同時にそれが「絶対的な基準」であると暫定的に思わなければ、それに照らして自分の行為の適切さ・正しさを検証することは行いえません。

「責任」は、自分は「真理」を知りえないこと、しかし「真理」はたしかに存在すること、したがって人間に出来ることはその「真理」に絶えず近づくために熟慮を重ねることで発生します。

「責任」とは客観的に存在するものではありません。私たちは他人に「責任」を押し付けることはできません。「責任」とは、その人がその時点で「真理」と思える基準で自分の行為を検証することで、その人が意識できるものです。

このように真理の追求と懐疑をつねに繰り返していくこと、それによって初めて「自由」「責任」は発生することが出来ます。

この精神に照らすと、社会の成員の間に「一般意思」が存在し、それは把握できるとみなすルソーとフランス革命の理念、ならびにそこから生じた民主主義・自由主義が、「自由」をもたらしえないことがドラッカーにとってはっきりします。

例えば投票による多数決における多数派に成員の意思が現れるという民主主義の思想は、「多数派」というものを動かしえない絶対的な立場におき、そこでは自由に備わるべき懐疑の精神が働きません。投票による数の調査によって成員の一般意思に到達できるとする考えは、必然的に、懐疑によって自らの責任を検証するという態度を生みません。多数派が一般意思であるという想定により、私たちは自らの選択が間違いであるという自覚を失います。ドラッカーは次のように述べます。

「近代の多数派支配の原理からは、一人ひとりの人間の権利や自由も、昔ながらの因襲に対する意味なき敬意の一つとして扱われるのが、関の山である。しかも、遅かれ早かれ、それらの権利や自由は、大衆の意思に対する反動的な障害とみなされるときがくる。少数派の利益のための、正当化されざる特権と見られるようになる。大衆と進歩の名のもとに攻撃の的とされるのは、つねに、それらの権利と自由である。なぜならば、それらの権利と自由こそ、多数派の意に反するからである」(151頁)。

ドラッカーによれば、多数派の意思を抑制するために、自発的に個々人の自由を尊重するという態度をとったとしても、それは少数派の自由というものを上から与えるものとしている限りで、市民個々人に自由と責任を与えることができないため不十分であるということです。

しかし、民主主義の欠陥が明らかになったからといって、君主政体や寡頭制の正しさが証明されるわけではありません。民主主義の欠陥は、多数派を一般意思とみなす精神にありますが、君主制や寡頭制はその代わりに「優秀な個人」「優秀な遺伝子」「高貴な貴族」こそ真理に到達できるとみなす点で同じ欠陥を共有しているからです。

この民主主義の欠陥を思い起こすと、西欧で発生した自由主義思想の限界が分かります。それは投票という理性的なコントロールによって真理に到達できるという思想であり、その点で「懐疑」という「自由」と「責任」に不可欠な契機を失ったものでした。知識人・良識派の多くがそのため、絶対真理を想定するという非合理な態度と理性的であろうとする意欲との間で引き裂かれ、実際的に有効な政治行動を起こせず、美辞麗句を述べるに止まるのはそのためです。

たとえば、それは戦後の日本を支配した朝日新聞的・左翼的な言辞などに端的に現れたものなのでしょう。実際に正統性ある権力を握ることに怯え、そのため言葉で「理性的」な絶対真理を述べて批判することしかできない状態に陥っていたのだと思います。

またこのような理性派が権力を握ると、フランス革命後で明らかになったように、多数派の絶対真理をもつという思い込みから、懐疑の精神を失い、自分の意見を反対する者を抹殺するという態度に陥ります。それはフランス革命のロべスピエールから、現代のアメリカ政府によるイラク・アフガニスタンへの攻撃、または昨年の自民党総裁による反対派の党追放にまで見られる現象なのだと思います。

ジャーナリストの田中字さんによれば、次期大統領候補の一人と目されるヒラリー・クリントンはアメリカのイラク侵攻を積極的に支持し、中東戦略を継続させる意思をもっているそうです(「ネオコンと多極化の本質」『田中宇の国際ニュース解説』)。もしそれが事実であるとすれば、彼女の著作“It Takes A Village”(『村中みんなで』)のあまりにも理路整然とした文章と自身の語り口、その良識的で弱者を助けることの大切さを訴えていく姿勢と、アメリカの民主主義に合わないものを攻撃する姿勢とは、矛盾なく一緒になっているのかもしれません(参考: “It Takes A Village” joy

私はヒラリー・クリントンの“It Takes A Village”を素晴らしい著作だと今でも思うけど、その素晴らしさは同時に、著者である彼女が「私は素晴らしい真理を知っている」という思い込みに由来するのだとするなら、その彼女が中東への攻撃を支持するのも必然なのかもしれません。

変革の理念としての保守主義

ドラッカーは、このような理性万能主義に陥った“リベラル”・フランス革命・ルソーの理念に対し、バークなどに代表される保守主義の原理を、より「自由」と「責任」を生む思想として対置します。

ドラッカーによればこの保守主義は、アメリカの独立の成功をきっかけにしてアメリカとイギリスで発展したものでした。それは、理性によって“一般意思”を見出しうるという啓蒙専制的な精神が支配したヨーロッパとイギリス・アメリカを分かつものです。例えば彼はアメリカの政治を次のように説明します。

「アメリカの政党は、国家権力の増大やその地方自治への侵食に対し、つねに敏感であって、つねに対抗してきた。地方に基盤をおくアメリカの政党は、その綱領も地方間の妥協たらざるをえず、白黒のはっきりしたプログラムに参画することができない。反面、反イデオロギーであるがゆえに、過激なものも含め、ほとんどあらゆる政治信条を受け入れる余地をもつ。その結果、政党の枠外において、過激な政治運動を起こす必要をなくし、事実上それをほとんど不可能にしている。しかも、いかなるイデオロギーからも自由であるがゆえに、いかなる政策も、それが人気のあるものであれば、いつでも取り入れる用意があり、事実取り入れている。当然、政治の急激な変化は未然に防がれ、あるいは少なくとも緩和されている。人気のある政策は、およそ何でも取り入れている。
要するにアメリカの政党は、反中央、反権威、地域志向、反教条主義という意味において保守的な機関であるだけではない。それは、政府の絶対主義化を阻む最も有効な機関となっている」(207-8頁)。

ドラッカーが、このような政治文化の性格をどこまでアメリカが引き続きこの本の執筆当時まで保持し続けているかとみなしているのかは、よくわかりません。アメリカとイギリスの政治文化をストレートに礼賛しているような箇所もあれば、現在ではアメリカ建国当初の良質な政治精神が失われているように記す箇所もあります。しかし、それでも彼がアメリカとイギリスの政治のあり方に対して基本的に肯定的な評価を与えているのは確かなようです。

とくにその実践的で現実的なアメリカ文化の特徴をドラッカーは肯定しているのでしょう。良識と理性によって真理に到達できるとする欧州大陸の理念は、ドラッカーから見れば、フランス革命の恐怖政治、マルクス主義運動、ソビエトの一党支配、そして啓蒙理性の末路であるナチスを生んだからです。それらの専制的な体制に特徴的なことは、人間が永遠不変の真理に到達できると見なす傲慢さとそれに由来する他者への残虐性でした。ドイツ生まれのドラッカーにとって、このような歴史を生んだ啓蒙の理念は否定されるべきであり、そのためにもフランス革命に対されるべき保守主義の理念が見直されなければならず、その事例としてのアメリカ独立がフランス革命とははっきり異なることも強調されなければならなかったのでしょう。

例えばドラッカーは、アメリカの政治文化の特色としてコミュニティのボランティア組織と二大政党制を挙げます。

コミュニティとは教会、商業会議所、ロータリークラブ、PTAなどであり、「彼らは事実上、それらアメリカに特有の機関を通じて、コミュニティの一員としての機能を果たし、コミュニティの世論をつくり、行動を起こしている」(211頁)。
またアメリカ、そしてイギリスの二大政党制は、一党独裁の危険を抑止する機能を備えているとドラッカーは見ています。二大政党制により、野党はつねに存在感を保ち、与党は自分達の意見をごり押しすることができません。「二大政党制」という体制が、たとえ条文で規定されなくとも、実質的にそういう体制が成立することで、野党であってもつねに「国民の委任を受けた議員集団である」という観念が生まれ、より多くの国民の意思が議会に反映されやすくなる(とドラッカーは見ている)からです。彼は次のように述べます。

「イギリスの政治においては、野党たる少数派の意思もまた、与党たる多数派の意思と同じように、国民の意思とされた。それゆえに多数派の意思は、最終的意思でも絶対的意思でもなかった」「この多数派による絶対支配の阻止こそ、イギリスの二大政党制の役割であり、かつ目的だった。それこそまさに、絶対支配の阻止によって、自由を守るものだった」(214-5頁)。

こうした「絶対意思」「国家的意思」という前提を拒否する精神、それこそドラッカーが重視した保守主義の理念であり、それによってこそ政治の専制は防がれ、政治以外の領域で社会にとって重要な領域・すなわち経済の自由が確保される、そう彼は考えます。こうした精神によって初めて、ロックが基礎づけた「財産権」にもとづく自由の権利が根づき、国家に支配されない市民的自由が確保されます。

ドラッカーの見る保守主義とは、決して復古主義ではなく、現実の変革はその時点での環境を受け入れ、その環境を前提条件とするときにのみ有効であるとする考えに基づきます。理念に奉仕することを目的とせず、今ある現実を前提として、そこから変革できるものを見出していく現実的・実践的な志向です。

保守主義とは、伝統や現状を肯定することを意味するのではなく、その時点で変革できるもの、変革できる程度を絶えず検証していく精神です。そこには、神の啓示により一般意思が与えられるという傲慢な発想はなく、つねに自らの判断を懐疑に照らしながら、道を進めていきます。彼は次のように述べます。

「人間は自らの未来を知りえない。人間が知り、理解することができるのは、年月をかけた今日ここにある現実の社会だけである。したがって人間は、理想の社会ではなく、現実の社会と政治を、自らの社会的、政治的行動の基盤としなければならない。
 人間は完全な制度を発明することはできない、理想的な仕事のための理想的な道具を発明しようとしても無駄である。なじみの道具を使ったほうがはるかに賢明である。なじみのある道具ならば、それがどのように使えるか、何ができるか、できないか、いかに使うべきか、どこまで頼りになるかがわかっている」(230頁)。

こうして人間は不完全であり真理は知り得ないとするキリスト教の理念と保守主義の理念がドラッカーの中で溶け合います。彼によれば、この理念をもっとも実践したのが、アメリカ建国の父であるジェファーソンたちでした。

問題は、このような保守主義の理念は前時代の「商業社会」に生まれたもので、産業化が進展する過程で、そのもたらした影響がまりにも巨大だったため、どのように応用すればよいのか分からなくなったことなのでしょう。

産業化がもたらしてきた社会の機械化と物質の増大という19・20世紀の現実の中では、経済環境の変化があまりにも速く大きかったため、その産業化された経済体制の中で、人間の自由を確保するためには、何を変えるべきかがわからなくなってしまいました。

冒頭に指摘したように、ナチスの出現は、ドラッカーから見れば、この問いの答えがわからなくなったヨーロッパの人が苦し紛れに選んだ答えでした。あるいはヴェーバーのように、この問いに正面から答えることを放棄するしか道はありませんでした。

ドラッカーも具体的な処方箋は何も書いていません。書けなかったのでしょう。組織化・産業化が問題であり、しかし理性による全面的な解決はナチズムが共産主義にしか至らないことを理解している彼にとっては、保守主義が答えを導く手掛かりでしたが、ではそれを産業社会にどう適用すればよいのか分からなかったのだと思います。




参考:『「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか』 P.F. ドラッカー (著)“joy”

『産業人の未来』 P.F.ドラッカー(著) 1

2006年04月25日 | Book
以前、P.F.ドラッカーの処女作『経済人の終わり』(1939)についてエントリーしました。このドイツ生まれの世界的ベストセラー作家・経営学者について私はあまり知らないのですが、そのイメージに反して処女作はナチスと全体主義国家に関する簡潔で鋭い政治経済的分析で、彼が社会全体のあるべき状態について非常に強烈な問題関心を持つこと、それゆえ第二次大戦とナチスの侵攻は彼にとって急迫の問題だったことが分かります。

ありふれたコンサルタントとも現代のテクノクラート的な社会科学者とも違い、ドラッカーは社会・人類のあるべき方法を模索する偉大な思想家なのではないか、そういう予想を抱かせる処女作でした。

『産業人の未来―改革の原理としての保守主義』は、その彼が『経済人の終わり』の次に1942年に出版した著作で、内容的に『経済人の終わり』の続編と言えるものです。

『経済人の終わり』では、ナチスの社会体制はヨーロッパの産業・経済発展の挫折、恐慌の激化により無感覚に陥った大衆が、既存の体制に拒否反応を示すために採られた体制であることを告発した著作でした。ドラッカーにとってナチス体制は、決してヒトラーという気まぐれな悪魔が作ったものではなく、工業主体の経済体制が陥った停滞の必然物でした。

ドイツのナチス体制では、それまでの産業社会を否定するように、“経済発展”というビジョンをもたず、国民生活の豊かさというビジョンももたない社会が出来上がりました。そこではただ国民の倹約によってのみ成り立ち、対外侵攻以外に目標をもたない社会体制が生まれました。

したがって、このナチス体制を連合軍が打ち破ることができるかどうかは、これからの西欧の産業社会がその恐慌・停滞を乗り越えて発展していくことができるかを意味することをドラッカーは指摘します

『産業人の未来』は、そうした問題意識を引き続きもち続け考察をより深めた著作です。1942年に書かれたこの本は、今では時代遅れになっている部分があるように一見見えますが、この本の問い自体はそのまま現代に通用するものです。この本を読んで私は、ますます、このドラッカーという人の大きさを感じました。

この本でもドラッカーは、ナチスという問題は決して(戦後のドイツ人たちが考えたような)ドイツ固有の問題ではなく、ヨーロッパが作りアメリカが発展させている“産業社会”がここで終わるか変革できるかの瀬戸際に立っていることを意味することを指摘します。

社会における「位置」と「役割」の必要性

産業社会が作り出した経営組織の官僚制が支配する社会体制・国民生活を破壊する(当時の)恐慌という状況の中で、その産業社会への大衆的な拒否反応がナチズムとして現れたのですが、そこで人々に魅力的な生き方・働き方・生活を提示できるかいなか、そこに産業社会の未来がかかっているとドラッカーは述べます。ドラッカーはそれを、個人がその社会の中で“位置”と“役割”を持てる社会かどうか、と表現します。彼は次のように述べます。

「社会というものは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、重要な社会権力が「正統性」をもちえなければ機能しない。前者、すなわち個人に対する位置と役割の付与は、社会の基本的枠組みを規定し、社会の目的と意味を規定する。後者、すなわち権力の正統性は、その枠組みのなかの空間を規定し、社会を制度化し、諸々の機関を生み出す。
 一人ひとりの人間が社会的な位置と役割を与えられなければ、社会は成立せず、大量の分子が、目的も目標もなく、飛び回るばかりである。他方、権力に正統性がなければ、絆としての社会はありえない。すなわち、奴隷制あるいはたんに惰性の支配する真空が存在するだけである」(22-3頁)。

大衆一人一人に社会における位置と役割をもてなくさせたのが、産業社会のもたらす恐慌であり、官僚制的な社会だったと彼は言いたいのだと思います。

恐慌による失業が個人にとってもたらすのは、決して物理的な欠乏だけではなく、それ以上に個人の生きる意味の喪失です。その「個人の生きる意味の喪失」は、失業により社会へのアクセスする道が絶たれていることに由来します。ドラッカーは次のように述べます。

「失業した者は社会から疎外される。気力を失い、技能を失う。無関心となり、無感覚となる。
 初めは腹をたてる。しかし、たとえ反抗というかたちしかとりえないとしても、腹をたてることは社会参加の一形態である。ところが、まもなく彼らは、社会が、反抗すべき相手としてさえ、あまりに非合理かつ理解不能なものであることを知る。途方に暮れ、怯え、絶望する。そしてついには、屍同様の無感覚に陥る。・・・
事実、彼らは異人種である。彼らの周りには、彼らを見捨てた社会に属する人々と、彼らを分ける目に見えない壁が出来ている。しかも、彼らだけでなく、社会のほうもこの壁の存在を意識する。こうして、失業者と就業者の間の社会的な絆は徐々に消えていく。失業者と就業者は、別の酒場、別の玉突き場に出入りする。互いに結婚することはほとんどない」(91-2頁)。
 

大恐慌が西欧社会と世界に教えたのは、産業社会ではこの失業が常態化する可能性でした。ドラッカーによれば、それ以前の社会ではいかなる恐慌においても慢性的な失業は存在しませんでした。19世紀最大の不況である1873年の恐慌においてさえ、失業は発生しませんでした。「しかも失業はたとえ発生したとしても、恐慌の最後に現れ、最初に消える現象だった。失業は、株価や物価の上昇、企業収益の改善がもたらされるはるか前になくなっていた。 しかし前回の大恐慌では、雇用が増加したのは、他のあらゆるものが回復した後のことだった。それどころか、この20年間における失業問題の最も怖しい点は、景気が回復しても、さらには好況となっても、失業が執拗に続いたことだった」(90-91頁)。

またたとえ失業しなくとも、20世紀的な組織で働くことは、機械の歯車となることを意味するため、必然的に生きる意味を感じることができない労働に陥いってきました。

この傾向は現代でも引き継がれており、事務的部門が組織でいまだに不可欠なものとされ、派遣労働によって補われていることに現れています。“工場労働者”的な労働とは、必ずしも肉体労働を意味するのではなく、熟練した技能を発達させるチャンスを与えられず、時間と指令によって創造性より機械としての正確さのみが求められる労働です。そこでは労働が単に個人的な生計の資を得る手段に成り下がり、労働者はその労働を通して組織と社会に参画しているという意識をもちえません。

「組み立てラインの技術は、社会的な位置や役割、個性をもたない労働力、標準化された交換可能な分子としての労働力を必要とする」(94頁)。

現代の“知識労働化”、すなわち差異をもつサーヴィスの重要性の高まりという状況は、労働者が一部の“知識労働者”と上記のような歯車に別れる事態を指すのであって、工場労働的な労働がなくなることを意味しません。むしろ二つの格差を固定化する危険を孕んだ社会です。

ドラッカーはブレイヴァマン(『労働と独占資本』)より30年も前に、次のように述べます。「本物の労働者とは、技術者や職人としての誇り、仕事の中身、必要とされる技能、そして社会的なしかるべき位置と役割をもつ人びとだった。昔の印刷工、鉄道技師、機械工ほど、誇りや自尊心をもち、自らの仕事と社会とのかかわりを意識していた人々はいなかった」(95頁)。

経済組織の正統性の危機

個々人の産業社会における「位置」と「役割」の喪失は、権力の正当性の危機と結びつきます。なぜなら、その喪失は、主に産業社会全体の組織化・機械化・官僚制化によって、個々人の権利が実質を失いながら、権力はピラミッドの頂点に集中し、組織はたしかに権力を発揮できるのですが、もはやその権力に大衆の支持という意味での正統性は存在しないからです。

ドラッカーはそのことを示す主な例として株式会社の存在を挙げます。株式会社の巨大化により、株を個々人がもつことによって経営権に影響力を発揮するという本来の株主の権利は失われ、株は単なる売買のための紙となり、株主にとっては金銭との結びつきしかもちえません。そこでは株式会社が本来持っていた成員の自治という機能は失われ、実質的な権限は経営者にのみ集中します。

またアメリカの大企業に顕著なように、経営者自身が大株主であり、また日本企業では株式の相互持合いで実質的に経営者に企業の権限が集中するような体制が産業社会では採られていました。

これにより、個々人の労働が社会構成体への権利を作り出すというロックの市民社会の理念は通用しなくなり、企業の権力は株主の支持をもたない巨大権力へと変貌しました。これにより株主は企業との結びつきがなくなり、企業への参画意識は芽生えなくなりました。そこには「権力」は存在しますが、成員の支持という権力の正統性は存在しません。

「経営陣の権力は、いかなる観点から見ても、社会が権力の基盤として正統なものと認めてきた基本的な理念にもとづいていない。そのような理念によって制約されてもいなければ、制約を課されてもいない。そのうえ、なにものに対しても責任を負っていない」(83頁)。

(この問題は、80年代以降のアメリカや現代の日本では一見通用しないように見えます。株主主権という概念が持ち上がり、株の買占めにより経営への影響力を発揮させる株主の出現です。

しかし、それは決して株主個々人の権利の復権という意味はもたないでしょう。個人株主は相変わらず市場の取引に翻弄されるだけで、一部上場企業に影響力を発揮できる「個人」は存在しません。現在株主として経営者に影響力を行使しているのは「機関投資家」であって、それは市場・法律知識を駆使する一種の専門家集団です。

M&Aなどを用いるその手法は一つのビジネスの発明でしたが、それは大衆「株主」の権利を取り戻しているわけではありません)

社会保障の限界

こうした危機的状況に対して、(戦後の西欧とアメリカが追求した)「社会保障」というものの効果をドラッカーは疑問視します。それは、80年代以降になってあらためて西欧が直面した問題を指摘する視点です。

すなわち、「経済的満足は社会的にも政治的にも消極的な意味しかもちえない」という洞察です。すでに19世紀の終わりから実施されていた西欧諸国の社会保障政策がドラッカーに教えたことは、社会保障が実現する経済的な満足というものは、それがなければ深刻な社会的・政治的亀裂をもたらすが、しかしそれだけでは「機能する社会」をもたらすことができないという教訓でした。社会保障は「機能する社会のための前向きな基盤」とはなりえない。「いかなる社会保障といえども、社会の構成員に対して、社会的な位置と役割を与えることはできない」(98-9頁)。

「位置と役割」をもたらす「自由と責任」

では、この「社会的な位置と役割」を産業社会にもたらす手段とは何なのか?ドラッカーはこの書ではその問いに具体的な答えを与えません。むしろ「社会的な位置と役割」をすべての社会成員にもたらすための思想的基盤を理論的・歴史的に考察することで、この書を終えようとします。その点で、この本はドラッカーにとって、何がまだ分からないかを明らかにするための本だったのかもしれません。

ドラッカーにとって、個々人に社会における位置と役割を与える上で確認すべきことは、個人がその自律性に沿って行動する自由と責任を負うこと。自由な言動とそれがもたらす結果に対する責任を意識すること。それにより個人は自らの存在が社会の中で「位置」をもっているという自覚をもつことができます。

たとえば、ショーウィンドウを見てアイスクリームを食べるかパフェを食べるかという選択は、責任を伴う自由と結びつきません。消費の選択は、個人的な行動に過ぎず、社会への参画とは結びつかないからです。

しかし、同じ消費でも、環境・社会に悪影響を与える商品を買わないという選択は、それが他人の生活と社会のあり方に影響を生じさせるという点で、責任を伴う自由な行為と言えます。

自由/責任とは、社会における「重要な」領域での行動において必要となるものです。そのような領域(それは時代ごとで変わる)では、個人の行動が他者の生活に大きな影響を及ぼします。

ひょっとすると現代では、「投票」という行為が実は社会のあり方に与える影響は少なく、それゆえ責任を伴う自由な選択を必要としない場面になっているかもしれません。それに対して、コンビニで商品を購入する際に、店員に自然に微笑み「ありがとう」と言うことのほうが社会全体に与える影響のほうがじつは大きいのかもしれません。本田健さんが知っている調査によれば、都市で生活する個人は一万人の人の生活に影響を与えることができるそうです。お店で接する店員に「ありがとう」と言うことで店員は機嫌がよくなりその同僚や家族に優しく接することができその同僚もまた知り合いに機嫌よく振る舞い・・・という連鎖が都市では一万人に及ぶということです。ネットの広がりを考えるともっと大きいのかもしれません。

ともかく肝要なことは、その社会において「重要」な領域、「その領域における価値がその社会の社会的価値であり、褒賞が社会的褒賞であり、名声が社会的名声であり、理想が社会的理想であるような領域における自由」を確保することです。それはある地域では宗教であり、別のところでは政治であり、また別のところでは経済であります。

ドラッカーの生きた時代と場所では、その重要な領域とは経済と産業組織であり、その傾向は現代に至るまで続いています。つまり、個人が経済生活を営む領域での自由の確保が依然として私達の社会においては重要な課題であり、それを達成しない限りは、個々人に位置と役割を付与することは不可能であるということです。

もっとも、ここから経済中心主義の社会をそのまま受け入れるか、そこからの脱皮を図るかについては人によって意見が分かれるところかもしれません。経済領域における自由・位置・役割の付与が重要であるということで、「ひきこもり」「ニート」「フリーター」の人たちに職業訓練プログラムを与え半ば強制的に労働世界に引き込むことが本当に自由な社会の創造につながるのかどうかは分からないからです。

ソニーの取締役・天外司朗さんは、「ひきこもり」の人たちの出現は、経済と競争中心の価値観からの脱皮を図ろうとしており、その点で彼らは進んだ人類だと指摘しています。もしそうだとすれば、経済領域における位置・役割の付与に固執することが既存の経済競争の体制をそのまま肯定する危険についてもっと意識すべきなのかもしれません。

もちろん、だからといって急激な経済体制の転換というものは非現実的であり(それはドラッカーも天外さんも忌み嫌っていることです)、既存の経済組織自体は維持していたほうがいい。ただその組織の中で、そこにいる個々人が少しずつ競争とは別の価値観をもつことが重要なのだと思います。

ともかく、経済領域における個々人の自由・位置・役割の確保がドラッカーにとっては自由となります。そこでこそ個々人は、規則に従うだけの“工場労働”とは異なり、自らの選択能力・創造性を発揮させることができます。したがって大切なことは、経営者には従業員に彼らのクリエイティビティを発揮させるような経営環境を探求させることであり、政府・行政には国家の管理領域や大企業のみを優遇する措置を撤廃させることなどになります。

『産業人の未来』 P.F.ドラッカー(著) 2に続く)

京都ドイツ文化センターに行こう

2006年04月25日 | 日記


ドイツ語のオーディオブックというのはアマゾンで手に入りますが、おそらく少数しか入荷しないのか殆んどが品切れ状態です。

ドイツ語のリスニングは英語以上か同じくらい上手くないので、同じドイツ語のCDを一日30分ぐらい聴いているのですが、そろそろ他のCDも買おうかなと思い始めていました。

でも有名な文学の古典のCDだと1セット5000円以上もしてひじょうにお高い。

そこでふと今日思ったのが、ドイツ文化センター。一番大きなのは東京にありますが、大阪京都にもあります。

そのHPを見てみると京都のセンターには図書室があり、ちゃんとオーディオブックも置いてあるようです。

年会費3千円で借りられるとのこと。オーディオブックを買うことを考えれば、かなり安くなりそうです。

問題は自分の聞きたいものが置いてあるかですが、それもウェブで分かるみたい。

そのうち京都に行ってみようと思いました。

ついでに長い間会っていない知り合いがいないかと思ったけれど、京都に知り合いはいないなぁ。

わざわざ京都まで行ってドイツ文化センターに行って直行で帰ってくるというのもオマヌケな感じですが、ひとりでお寺参りするのも結構疲れるかも。

僕は半年だけ京都に住んでいたことがあるのですが、そのときも京都の名所周りなんかしなかったし、神戸で生まれ育っても京都にはほとんど行ったことがなかった。

大阪の人も言っていたけれど、海外からの観光客が見る京都の名所も大阪の人が京で見る場所も全く一緒なんですよね。近いようで、大阪・神戸ぐらいになると京都のことなんて何も知らないんです。


涼風

民主主義はいらない 「チームの力がヒットを生む 商品企画部長 佐藤章」

2006年04月21日 | テレビ


昨日の『プロフェッショナル 仕事の流儀』はキリンビバレッジの部長・佐藤章さんでした。

ちょっとかっこよ過ぎたね、この人。まさに乗りに乗ってるサラリーマンという感じで。周りから尊敬され、上司からも注目されって感じで。大企業のエリートサラリーマンの王道という感じ。

僕もこの大企業で働く人たちがなんだかきらきらして眩しく見えました。

こういう立場の人が今はすごく世の中から羨望を集めるのかな。大企業の正社員というステイタス、その中での出世街道。それは以前でも人(男)が憧れる人生だったけれど、もし格差が広がる社会になるなら、それがもつ意味は過去と違い、格段に下層には重みのあるものに感じるのかもしれない。

たしかに三浦展さんが言うように、現在の格差社会とこれまでの階層社会との違いは、下流の人が「もはや自分は上へ上がれない」という絶望感をもつ社会になることかもしれない。

団塊の世代以降の退職が始まり新卒採用が増える機運もあるので、実際に格差がどこまで広がるかは分からないけれど。




それはともかく、今回の放送で興味深かったのは、佐藤さんが「そのプロジェクトについて一番考えている人に全面的な決定権を与える。民主主義はいらない」と言っていることでした。

民主主義は良く、権利の平等が良いと私たちは教えられてきた。誰にでも自分の意見を言う権利はあるし、すべての人の考えを聞くのがすばらしいことだと私たちは思っている。

でも佐藤さんは、商品開発の現場では、その商品に一番思い入れがありしっかり考えている人にすべての権限を渡すほうが、インパクトのある商品が出来やすいという。

中途半端に会議をして、大して考えてもいないのに「こういう方がいいんじゃない」とか議論の途中で言い出す人の意見を参考にすることなんかない、ということです。

これは専制でもなんでもないのでしょう。社員それぞれに個性があり、その社員が熱くなれるプロジェクトは違ってくる。だったら、上司がすべきことは、そのプロジェクトに熱くなれる人を見極めて、その人にイニシアティブを発揮させること。

「みんなの意見が大事」とか言って、自分で議論を引っぱるのではなく、ただなんとなく口を開く人のことは無視していいということです。

なんだか分かるなぁと感じました。

エゴ

2006年04月20日 | reflexion


今本を読んでいるのは、気の向くままに流れで本を選んで読んでいるつもりです。流れで読むというのは、いい加減なつもりで本選びをするのではなく、“直観”にしたがって、というと大袈裟になるけれど、読んでいるつもりです。

でもそうやって本を読んでいくと、悪い癖で、古典をたくさん読まなきゃ、という強迫観念に駆られていきます。

私が思うに、岩波文庫になっているような古典を身につくように吸収できる人というのは、膨大な知識をあっという間に頭に入れてしまうことの出来る天才肌の人で、それ以外の人が真似すると危険なのだと思う。

本を読んでいてそれが身につくと思えるのは、本当にそのときに関心があるものを読んだとき。古今東西の古典を頭に入れてよく吸収できる人というのは、視野が広く物事にとらわれないので、一見現代とは関係ないような書物でも旺盛な知識欲と好奇心と探究心で膨大な書物に目を通すことが出来るのでしょう。おそらくそこでは、ヘンな功名心も虚栄もなく、純粋な内的欲求にしたがって書物を手に取っているのだと思います。

それに対して僕が「古典を読まなきゃ」と思うときは、「古典を読んでちゃんとした知識を身につけて偉い人にならなきゃ」という欲が絡んでいます。でも古典なんて、10冊や20冊読んだだけでは自慢にならないし、まして自己目的化して読んでも頭と身体に悪いだけです。

そんな教養秀才は、現代でもいるかもしれませんが、そういう秀才を“目指す”ことはお笑いでしか本当はありません。本物の秀才であれば自分の知識をひけらかすために本を読んだりしません。ただ読みたいから彼らは読んでいるだけなのでしょう。

こう考えると、本当に自分は本を読むのが好きなのだろうか?という疑いにいつもかられます。


涼風

“Management Challenges for the 21st Century”

2006年04月19日 | Audiobook


ピーター・ドラッカーの1999年の著作のオーディオ版“Management Challenges for the 21st Century”を聴きました。テープ4本で7時間強の内容です。

ナレーターはプロの人なので、英語自体はかなりクリアなのですが、おそらくテープ4本に収めるためにか、わりと早く喋っています。わたしはおそらく7、8回通して聴いたと思うのですが、結局すべてをちゃんと理解できなかったように思います。

もともとオーディオブックを聴こうと思ったきっかけは、本を読む場合は頭から身体から色々な神経を使うので疲れるけれど、耳から音を聴くのはよりラクに知識を吸収できると思ったから。しかし英語とは言え、かなりの時間を費やしてそれでもあまり理解できないと、たくさんの時間を無駄にした感じで空しくなります。

翻訳は『明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命』という題名で出ていますが、英語を聴くのにたくさんの時間を費やしたにもかかわらず理解できず、翻訳を一度読んで理解できたら、「一体あの時間はなんだったんだ?」と余計に空しくなるかもしれません。まぁ、語学の勉強もかねているので、外国語に慣れる過程と思って割り切るしかないですね。

私はドラッカーについて全然詳しくないのだけれど、おそらくこの本は最近の経済先進国の状況変化について様々なトピックをドラッカーが要領よくまとめたものと言えるかもしれません。思想的な深み?は感じられなくとも、現在の経済と社会をめぐる変化を知るにはいい1冊かもしれません。

冒頭にドラッカーが指摘するのは、これからの時代は「この世界には唯一の正しい経営方法が存在する」という信念がますます通用しなくなるということ。

これはドラッカーが指摘するように、心理学者のマズローが『完全なる経営』の中で述べたテーゼです。

この本でマズローはドラッカーを批判しているのですが、それはドラッカーがより民主的で個々の成員の自律性を重んじる経営方法をそれまで提唱していたのに対し、マズローはドラッカーの述べる経営方法は社会が安全で人間の基本的欲求が十分に満たされている社会でしか通用しないというものです。ドラッカーはマズローのこの批判を認めて、マズローの上記の著作が出て私の考えは時代遅れのものとなったと述べています(マズローの著作が出たのはおそらく1960年代)。

ただ、この本でドラッカーが援用する「この世界には唯一の正しい経営方法が存在する」というマズローの言葉は、マズローの含意を越えているようにも聴こえます。

ドラッカーがこの言葉を使うのは、知識労働者がこれからは主体となるという彼の考えと関連しています。すなわち、工場にせよ会社にせよピラミッド型で社員に指示を出す20世紀的な経営手法は、それもまた「唯一の正しい経営スタイル」として考え出されたものでした。管理・統制を主眼とするこのスタイルは、テーラー主義で頂点を極めるもので、科学的な態度で社員を道具として上手く使いこなすことを目標とします。社員が道具でありモノである以上、社員とはつねに一定の操作によって決まった動作をするロボットであり、そのロボットを効率よく働かせる方法は限られるということになります。

それに対しドラッカーの言う知識労働者(この言葉ももはや使い古されているかもしれませんが)が支配する経済状況では、社員をロボットのように使っていては、知識労働者本来の主体性が発揮されません。知識労働者が支配的になるのは、彼らの持つ特殊性によって競争相手とは異なるサーヴィスがもたらされるからであり、また変化の激しい時代状況では末端の社員自身がイニシアティブをもってはじめて経営は機能します。

(参考:『会社はこれからどうなるのか』岩井克人(著)“joy”

したがって20世紀では「経営者はいかに社員を上手く使うか」という問いが重要でしたが、21世紀には「どうすれば社員の個性に経営を合わせられるか」という問いが重要になります。

知識労働者それぞれの持つ個性に経営を合わせることが重要である以上、経営スタイルに決まった正解はなく、集まった社員によって経営形態を変えざるをえません。ドラッカーが強調する「唯一の正しい経営方法は存在しない」という言葉は、そういう意味ではないかと思います。

ドラッカーがこの“知識労働者”という概念を強調するのも、20世紀的な常識が通用しなくなる変化の時代には、大衆一人一人が“知識労働者”になることが必要という認識からでしょう。

人口の現象が顕著になる時代である以上、これまでの大量生産方式は通用しないので、会社も人も、それぞれの“他にはないサーヴィス”を生み出すことが求められます。そのためには、社員は“知識労働者”として会社と対等な立場で契約を結びながら、それぞれの専門性を発揮させることが求められます。

また会社もそういう人財を囲うには、社員と対等な立場でパートナーシップ契約を結ぶような経営スタイルをとることを迫られます。

また“知識労働者”という労働スタイルが主流になることは、人々の生活スタイルが会社の枠ではなく、会社以外の人との結びつきが密接になっていくことを示しています。

それは一つには会社とは対等なパートナーであるため会社に縛られないというと同時に、自立性をもつ“知識労働者”が主流となる社会というのは、社会・大衆がもはや均質なものではなく、生活スタイルが個々人によって異なるため、会社の中だけではなく会社以外で地域の活動に関わらなければ社会の動きを知りえない状況になるからです。

個人が会社に縛られない以上、個々人の活動はよりボランティアなどの組織とのつながりを増すという傾向もみられる可能性があるということです。このような企業以外での個人の活動が増えることと知識労働者の増大とは結びつきます。

またこのような趨勢は、高齢化社会の進展によって“第二の人生”を送る人が増えることで余計に強まっていきます。

もちろんこのようなドラッカーの描写は、多少薔薇色めいていて、現実を正確に写すものかどうかは分かりません。“知識労働者”が主流となることは、自律性をもたない人は落ちていく社会だからです。

ただそれも、個々人が個性を発揮できる社会というのは、これまでのビジネスの常識では考えられないような活動がビジネスとして通用していく時代だと受けとることも可能かもしれません。

“知識労働”というのはべつに弁護士や会計士だけを指すのではなく、むしろより抽象的に個々人の頭脳の働きによって生み出されるもの一般と考えたほうがいいと思います。

その頭脳の動きはデスクワークを基盤とする必然性はないし、身体を動かすことも伴うことがあります。お医者さんやロルフィングのトレーナーが頭脳と身体をともに動かすように。

ドラッカーの描く成果は理想的でありますが、それは彼にとって可能性を帯びた理想なのかもしれません。



参考:「明日を支配するもの~Management Challenges for the 21st Sentury by ドラッカー」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

お金

2006年04月18日 | reflexion

今の生活では、スムーズに行ったときで一日に7時間くらい勉強します。とくに何かに集中して勉強しているわけではないのですが。語学だったり、本を読んだり、両方を兼ねたり。

毎日そうしていると疲れてきて、たまに何もしたくなくなるときもあります。

今日は、別の要因で夕方頃から何も手がつかなくなりました。ある組織から手紙が送られてきて、2万円強を払うようにとのこと。

僕はてっきりそれは払わなくてよいと思っていたので、とても動揺しました。胸がどきどきします。

それを払わなければどうなるのか分かりません。社会的に排除の眼差しを向けられたりする怖れも感じます。

あるいは払わなくてもなんの影響もないのかもしれません。

また別の組織からももっと多額の請求が来るかもしれないという怖れも同時に湧き起りました。


以前ある人が、

「お金というのはスピリチュアルなもの」

と言っていました。それがどういう意味なのかじつはいまだに僕には分かりません。

お金とは、僕の場合はつねに欠乏感と結びついているかもしれません。

普通の、あるいは経済的に下層の家庭に育つと、お金とは「キツキツ」した感じで守るもの、という感じだと思います。それは、自分からお金を生み出す、あるいはお金の流れを作り出す知恵がないと思い込んでいるので、自分がお金をもつには入ってきた「なけなし」のお金を出て行かないように両手・両腕でぎゅっと握り締めているべきものなのです。

でも、水と同じで、どんなに両手・両腕を組み合わせても、スルスルと水(お金)は出て行ってしまいます。


涼風