生長の家信濃練成部長 藤 原 敏 之
生長の家に限らず、宗教はすべて哲学でありますが、生長の家の教えを 『生命の實相』哲学 と呼ばれ、また仏教を仏教哲学と申しまして、いずれも最高の哲学なのであります。
一般にいう哲学とちがう所は、学問としての哲学はただ考えるだけの哲学であります。 宗教としての哲学は実践哲学といいまして、“行” が伴い、実行してみて結論を出すというところがちがうのであります。
いわゆる哲学者というのは大抵行きつまりますが、正しい宗教哲学では一つ一つ一所懸命やってみて、その結果をみて正しいか間違っているかを確めてゆく方法なのであります。 生長の家の信徒でも、絶えず考えてばかりいて、現象に現れた結果だけをみては苦にしたり、恐れたり、心配しているのでは信仰生活者ではなく哲学者になっているだけで信者ではないことになります。 知るだけで救われるのであれば、ことは簡単でありますが、なかなかそうはいかないのであります。
私達の上に起ってくる出来事は、現実なのであります。 たとえ現象にせよ、事実は事実なのでありますから、考えただけで解決しようとすることには根本的な誤りがあるわけです。 今現実に腹がへってどうにもならないとき、どんなに上手に考えてみても空いたお腹は満たされないでしょう。 空いたお腹を満たす方法は食べる以外に方法がないのと同じように、宗教哲学ではこの実践が欠かすことの出来ない条件なのであります。
行ずる以外にないということをまず気づかなければなりません。 ただし、この条件を救われるための条件であると思い違いしてはならないことであります。 宗教の救いが形や条件でないことは、既に述べましたが、ここでいう “行” とは救いの根本条件としての行ではなく、現象に執われ、現象の問題を何とかしようと焦り、努力している人にとってだけ必要なのであり、現象界には現象界の法則がありますから、その現象処理の方法として必要なのであります。
このことを仏教でも生長の家でも、方便とお教え頂いております。 この真実 〈真理〉 と方便とを明らかに区別することが最も大切なことなのであります。
この行としての努力は、例えば目をつぶって暗いといっている人には、何とかして目を開いてもらわないことには明るくする方法がないでしょう。 そのときにはどうしても順序として本当は暗くないことを納得してもらい、次に暗いのはあなたが目を閉じて光を見ないからであると気づかせる 〈自覚〉 ことであります。 次に目を開かせる方法を示して、その通りに実行して目を開いてもらうことによって、本来の明るさに戻るのであります。
これと同じように宗教でいう“行”とは、この最後のどうして目を開かせるかという方法でありまして、もともと暗いものを明るくすることではないのであります。 実相は常に明るいのでありますから、その間違いに気づき、どうしなくても既に明るいのでありますから、本来の明るさを現せばよいわけであります。 これを方便といいます。
“行”が救いの条件となると、実は根本がまた間違って来ますので、充分注意しなければならないのであります。
方便をそのまま真理だと解釈することは大変な間違いであります。 宗教において、また特に生長の家の御教で一番大切なことは、実相と現象の区別をハッキリすることであり、真理と方便とをわけて考えることであります。 この二つが混同されますと、残念ながら混乱するばかりで、本当の悟りにも救いにもならないのであります。
長い間、御教えを頂きながら、救われたような救われないような状態でフラフラしているといわれる方々のお話をきいてみると、大抵この一番肝腎なところが、今一つハッキリしていない方々であり、このことが極めて大事なところであります。
生長の家では “三行” として、次の三つの行を根本的な行として、お示し頂いております。
すなわち、『神想観』 『聖経・聖典読誦』 次に 『愛行』 の三つであります。
これが基本行であるわけでありますが、この三行がなぜ大切であるかと申しますと、私たちが神につながり、神を顕わす上の根本行だからであります。 神様は実相であり、私達は現象界に生活しております。 そこで実相世界に神様の万ずの御徳は既に充ち満ちており、無限に供給せられているわけであります。
ただし小切手のようなものでありまして、現金ではないわけであります。 小切手のままでは現金ではありませんから、いったんその小切手を現金に換えないことには通貨としての価値がないのであります。 そこで現金と同じ価値のある小切手を、通貨としての現金に換える手続きが必要となります。 そのお金に換える手続き方法が、先の “三行” であります。
生長の家でお教えを頂く“行”も、悪いものを善くしたり、無いものを造り出すためのものではないのであります。 既にあるところのもの 〈実相〉 を形に現すための方法なのであります。
ですから、“行”が大切であるときけば、すぐに“行”に執われ、引かかって、“行”にしばられて、身動き出来ない程不自由になって苦しんでいる人は、この肝腎の“行”の本質すなわち行の目的と内容を明らかにすることが、また大切なのであります。
この第一の神想観は“三行”の中で最も大切な“根本行”なのであります。 この“観行”こそは、神を顕わす唯一の方法でありまして、この“行”抜きにして神を把握することは絶対に出来ないことであります。 神様は先にも述べた通り、姿も形も色も臭いもなく、全く空の中に円満具足していらっしゃる存在でありまして、捉え所が全然ないわけでありますから、神につながり、神を観るのは、想う以外、他に方法がないのであります。 仏教でも念仏といって、仏を想う以外にないと教えています。
この神想観とは書いて字の通り、神を想い観ると示されております。 もっとハッキリいいますと、神様以外のものは絶対に思いません、みません、ということなのであります。 生長の家の 「唯神実相論」 をそのまま生活することであり、実現することでありますから、本当の神想観は、自我滅却であり、無我であります。
“私”がやる神想観では形は神想観でありますが、中身は神想観でなくて、神以外のものを想い観ていることになります。 例えば病気のことを心配しながら、「神様どうかこの病気を治して頂きとうございます」 と心に想いながら、神想観の格好をしているときは、神想観の格好をした病想観になるのであります。
第二の聖経の読誦でも、何か目的をもって読んでおりますと、残念ながら聖なる“行”ではなくなります。 自分が満足を得るために、神様の御機嫌とりのつもりで聖経をどんなに上手によんでも聖なる“行”とはなりません。
自分の都合という混じりものが入っておりますから、純粋ではなく、心の底にはやはり神様を利用しようという浅ましい根性がまじっておりますから、一所懸命やりながらすっきりするどころか逆に不安が伴うのであります。
目的があるとどうしても「これでよいのか」という心配があり、効果や結果ばかり気になるのであります。 このような神想観や聖経読誦は“楽行”ではなく“苦行”となります。 生長の家では苦行があってはならないのであります。 生長の家は光明思想であり、悪や不完全を徹底的に否定した教えでありますから、苦行などあるはずはなく、あるのは“楽行”だけであります。
谷口雅春先生が私たちに常にお教え頂きますことは 「生長の家の行は他力の行でありますよ」 とお示し頂くことであります。 このことを肝に銘じて再出発することこそは救いの根本義でもあります。
“他力の行”とはどんなことであるかと申しますと、“徹底感謝”ということであり、感謝以外のものは形がどんなに立派でも生長の家の“行”ではなくなるのであります。
“行”の目的が現象処理になり、現象否定どころか現象を認めて取りのぞくための努力や方法となりますと、あるものをなくしようとすることになり、正しい方便ではなくなるのであります。 正しい方便とはあくまでもないものをなくするためのものであります。 もともと夢はないのでありますが、見ている最中はあると思いこんで、恐れたり苦しんだりしますけれども、夢はないのでありますから、ない夢をなくするには目を覚ませばよいわけであります。 夢の中で起っている苦しい事件を、夢の中でどうしてなくしようかともがいているのとは全然ちがうのであります。
“他力行” とはすなわち “感謝行” ということなのであります。 既に救われてあり、既に完全であることに感謝することこそ、生長の家の“行”であります。
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