生長の家創始者 谷 口 雅 春 大聖師
「心」と云うものを一つだと考えるのと、「心」を「自分の本体」だと考えるところに、そう云う間違いを生ずるのです。
「心」と云うものは大体、吾々の「道具」である。 吾々は「肉体」と云う道具を使う。 併し肉体は人間ではない。 それと同じように吾々は「心」と云う道具を使う。 所謂普通に云う「心」は吾々の道具であって人間の本体ではないのである。
吾々の持っている「心」は一つではなく、幾階段もの心を持っている。 例えば、吾々の細胞には「細胞意識」と云う心があって、どれが自分自身の栄養になるかを選り分けて吸収する力をもっている。 そして黴菌とか何か外敵があらわれて来ると、それを認めて、捕えて殺す ― こう云う相手を選択する心はたしかに心である。
人体の細胞の一部は全体から切り離して人工培養益の中で培養すると、心臓の細胞とか腎臓の細胞とか云う特殊の働きをしている細胞が、その特殊を失って類形的な、全体が同じように働きかける。 細胞単位としての「心」はあるが、心臓単位、腎臓単位と云うような特殊的使命の働きは失われる。
即ち人間の肉体が全体として有機的な働きをし各内蔵が各々異る内蔵として活動している肉体全体を統率する「心」の働きである。 この「心」を「本能の心」と云っても好い。 「細胞の心」の上に「本能の心」があるのである。
高級の心は下級の心を支配するのであって、下級の心ほど自由が少ないのである。 しかしこの「本能の心」はまだ吾々の「意識的心」とは異る。
吾々は意識しないでも心臓は1分間に72回鼓動する。 意識しないでも胃腸の働きは「本能の心」によって行われている。 「本能の心」の上級に「意識の心」がある。 「意識の心」が恥かしがったり恐怖すると、「本能の心」がその支配を受けて心臓の鼓動や、胃腸の消化状態が異って来る。
「意識の心」は心臓も腎臓をも含めて全体の肉体を移動させるが、「本能の心」はそれに反抗することは出来ない。 本能の心はその段階での或る自由を持っているに過ぎない。 しかしこの「意識の心」も「人間の本体」ではない。
これは人間の「道具」であって、自分の声をラジオ・セットでとか蓄音機とかで聞くようなものである。 そして発声器から再現された心の振動で人に意志を通じたりするための「道具」が「意識の心」である。
「意識の心」の奥に「潜在意識」と呼ぶものがある。 それは意識の心が起した想念感情の「貯蔵庫」みたいなものであり、それは一面数的に貯蔵されているけれども、蓄電器のようにある力をもって過去の想念感情を流し出す力をもっている。 それが現在意識を左右する力をもっている。
この点で現在意識の自由というものは限られたものであって、現在意識が「幸福を得たい」と思っても、その一段上の段階の潜在意識が「苦痛にやって汝の過去の業を浄めよ」と云って引ずって行くと、その人の人生に苦痛が現れて来るのである。
その潜在意識も尚、人間の最高の心ではない。 その奥に 『霊智心』 とでも云うべき心がある。
潜在意識は過去の「業」の貯水池として、水力発電のダムのように、過去の惰力で盲目的な力で押し流して来る。 ところが此の 『霊智心』 は「潜在意識」のように盲目的ではない。 叡智を備えていて潜在意識の流動をその正しい方向に修正しようとしてくれる。
特に潜在意識が一向専心 『霊智心』 に対して呼びかけて自己の我見を捨ててその教えに従がおうとする時には、その叡智は現在意識にあらわれて来る。 現在意識そのものは直接潜在意識を支配することは出来ないが 『霊智心』 を現在意識に呼び出してくることによって、潜在意識を支配することが出来るのである。
私の 『叡智の断片』 と云う本や 『智慧の言葉』 などは、『霊智心』 を現在意識に感受してそれに導かれて来たものである。 あの本にはあまり病気治しのことが書かれていないが、知性ある人にはよく理解し共鳴されるように書かれているのは、『叡智の心』 が出ているからである。
この 『霊智心』 即ち 『叡智の心』 のその奥に「本当の自分」 即ち 「実相の心」 がある。 それは物質ではないと云う意味に於いて「心(しん)」的なものであるから「心(こころ)」と云っても好いが、「心(こころ)」 と云う場合には、今まで述べたような各種の「心(こころ)」と混同される惧れがあるから、『霊』 と云った方が好いかも知れない。
『霊』 が本体であって、それが、霊智心、潜在意識、現在意識、本能の心、細胞の心などの「道具」を使って表現活動をしているのであって、『実相の心』は自由自在無礙でありつつ、その一面的表現には色々の表現が自己限定によって成されつつあり、「人格」とか「個性」とか云うものはこれらの心の綜合的波動の雰囲気と云うもので成立っている。
その奥にある実相は「一つの生命」であり、神一元である。 万人共通の生命であり、実相に於いてみんな一体でありながら、霊智心以下の「心」の重複体によって、その「場」に於いて別々の個性としてあらわれているのである。
昭和25年3月12日(日曜日・夜)
東京青年会幹部の谷口先生を囲む会
『生長の家』誌 昭和25年7月号 10~11頁
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