VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

王者の心

2016-01-31 10:10:26 | 生長の家

            生長の家副総裁  谷 口  清 超 先生


 〈昭和〉天皇陛下がヨーロッパにお出発になる朝は、拭い去られたような晴天であった。 その前日日本列島を襲った台風は、全く跡形もなく消え去っていた。 私は当日羽田空港にお見送り申し上げていたから確かであるが、陛下が飛行機に御搭乗になられる迄は、いささかスモッグ気味の天候であったが、いざ御搭乗になられるという時には、カラッと晴れ上ってしまった。

 又、天皇陛下がヨーロッパをお巡りになられる先々でも、常に晴天はついて廻った。 あの霧で有名なロンドンですらも、3日連続して秋晴れの上天気であったと外電は報じていたのである。 これは決して偶然ではない。 天候でも、地変でも、人と心と無関係ではないのである。 「環境は心の影」 であり、人心の投影なのである。

 このことがわかると、人間は一切を支配する王者となることが出来る。 まして自分の身体が支配出来ないということはない。 一切の天も地も、心の如くあらわれて、吾々の周辺を厳飾するのである。

 しかもそれは、念力をもって雲を呼び、地を裂き、水を湧かすのではない。 そのような念力もあるにはあるが、もっと自然な心のままが外界に映し出されるという原理によるのであり、鏡に影が映るが如くあらわれるのである。 天皇陛下の御日常や、御旅行先での、あのまじめな、純粋な、誠実なお姿を拝すれば、念力以外の、もっと別の心の法則があらわれていることが分る筈である。

 それ故、全ての人々の心がおだやかになれば、地球はやがて天変地変を失うであろう。 台風も適当なところを、適当なだけ通って行って、人々には恵みの雨をふらすだけのものとなる。 現に沖縄へ行ってみると、その水は、ほとんどが台風がもたらしてくれたものであることが分る。 台風は南の島にとっては、必要なものなのであるが、ただ、あまりに接近しすぎたり、巨大でありすぎると、そこに害があらわれてくるだけである。

 又、八重山群島に行ってみると、そこにはハブが棲んでいて、今でもハブは日に10匹以上も出るという話をきいた。 そしてこの人は、ハブにあっても、ハブは決して人間に向って襲っては来ないものだというのである。 ただハブが人を襲うのは、ハブを傷つけたり、ハブをふみつけたりした時、反射的に噛みつくだけである。

 自然と、その中の生物とは、人間を傷つけるようにつくられたものではないのである。 本来はお互いに調和して、人間にとって恵みをもたらすだけのものであるが、人間の心が乱れている時、その乱れが環境の乱れとなってあらわれ、生物同士お互いに犯し合い、天は荒れ、地は狂うのである。

 それ故、一切の自然と、生物とを、支配するものは、人間であり、人の心である。 人間は本来王者なのであるが、正しく王者の心を持つ者は、大和の心の持主であり、誠実にして、柔和なる者でなければならない。


     『精神科学』  昭和47年1月号 巻頭言

「オール沖縄」敗北、僭称の反基地派が沖縄の安保を曇らせる 

2016-01-30 18:10:44 | 生長の家

              八重山日報編集長  仲 新 城 誠


 沖縄では2016年、宜野湾市長選を皮切りに、県議選、参院選と、米軍普天間飛行場(同市)の辺野古移設を最大争点とする選挙が続く。文字通り「選挙イヤー」である。一地方自治体の選挙でありながら、日本の安全保障そのものが問われるという特異な状況だ。 (iRONNA)

 宜野湾市長選には自民、公明が推薦する現職の佐喜真淳氏と「オール沖縄」と呼ばれる翁長雄志知事を中心とした勢力に支えられる新人の志村恵一郎氏が激戦を展開した。

 選挙期間とその前後を通じ、沖縄メディアの報道を見ていると、県紙「沖縄タイムス」 「琉球新報」は常に辺野古移設反対一色。 当然、同じ政策を訴える「新人寄り」の紙面という印象を強く受けた。

 具体的には、新人の事実上の支援組織である「オール沖縄会議」という組織の設立を両紙が1面トップで好意的に扱ったり、現職の政策を批判する読者の投稿が連日のように掲載されたり…。 細かい点を挙げれば切りがないが、現職陣営は「新聞とはこんなもの」とサバサバしていた。もう沖縄メディアの印象操作や情報操作には驚かなくなっているのである。 「中立公平な紙面」とはもともと理想論に過ぎないのかも知れないが、多くの県民が、選挙報道のあり方に問題意識すら持てない現状だ。

 翁長知事は新人と二人三脚の選挙戦だった。 新人陣営が出した新聞の全面広告では、候補者ではなく、翁長知事の写真が大々的に使われた。 翁長知事が現在の沖縄で絶大な威光を誇るのは、彼が何よりも選挙の「常勝将軍」だからだ。 逆に今年の一連の選挙のうち一つでも落とせば、翁長知事の政治力は目に見えて大打撃を受けるだろうと感じた。

 私が住む八重山諸島の石垣市は沖縄本島から約400キロ離れているが、宜野湾市長選の結果は他人事ではない。 「オール沖縄」と称する勢力が、石垣市の行政区域である尖閣諸島の問題をはじめ、沖縄の安全保障上の危機に対し、何一つ有効な処方箋を提示していないからだ。

 普天間飛行場の辺野古移設を推進する安倍政権は「基地負担の軽減」と「(中国に対する)抑止力の維持」の両立を訴えている。 これに対し、辺野古移設阻止を掲げる「オール沖縄」は、普天間飛行場の米海兵隊が「そもそも抑止力ではない」とか「尖閣問題は平和外交で解決すべき」などと主張するばかりで、国境に住む住民と危機感を共有している感覚がまるでない。

 「オール沖縄」という名乗り自体も八重山住民の不信感を強めている。

 保守、革新・リベラルの枠を超え、沖縄県民がこぞって辺野古移設に反対 ― というのが「オール沖縄」の建前だ。 地元メディアが意図的に定着させ、2014年の知事選、衆院選で辺野古移設に反対する候補が圧勝する原動力となった言葉である。

 しかし両選挙を地域別に見ると、八重山の場合、辺野古移設容認の候補の得票が多かった。 要するに辺野古移設問題に対しては県内でも温度差があり、十把一からげに「オール沖縄」という言葉が使われるのには、県民として違和感がある。

 八重山のある経済界関係者は 「勝手に『オール沖縄』という言葉が使われるのはおかしい。 『ハーフ沖縄』が実態だ」と指摘する。

 「オール沖縄」と称する勢力が今後も各種選挙で勝ち続け、県内の市町村、県議会、国会議員がオセロのように反基地派一色になってしまうのは、沖縄の安全保障にとっては良くないシナリオだ。 尖閣を狙う中国は、これを日本の足元がぐらついた好機とみて、尖閣で新たな攻勢に出るかも知れない。

 中国政府が常時航行させている公船「海警」は、国際情勢などの変化に応じた動きを見せる傾向があるからだ。 例えば昨年10月、中国が南シナ海で造成した人工島を牽制するため、米艦船が周辺に進入した際、尖閣周辺にいた「海警」は突如として1週間も姿を消した。 米軍の圧力に動揺した中国政府が、南シナ海と東シナ海の二正面作戦を避けるため、尖閣周辺の「海警」を慌てて下げたのだろう。

 私が見たところ、中国は米国を恐れているものの、残念ながら日本の自衛隊や海上保安庁をさほど脅威とは思っていない。 巡視船の存在にもかかわらず尖閣周辺では「海警」が常時出没するし、日本政府が尖閣周辺への自衛艦派遣を示唆すると、中国政府は「中国が派遣する艦船の数は日本の比ではない」と威嚇してくる。

 つまり現時点では、中国に対する抑止力は日米同盟の強化しかない。 しかし宜野湾市長選をはじめとする沖縄の各種選挙で「オール沖縄」が勝ち続けた場合、在沖米軍は県民の支持を得ていないという印象を内外に与え、日米同盟は弱体化の方向に向かう。 中国の野心は当然、刺激されるだろう。

 選挙結果が沖縄の言論空間に与える影響も大きい。 現在の沖縄では 「沖縄を守る軍事力は必要だ」 「尖閣危機は軽視できない」 と訴える声を 「沖縄の民意に反している」 という理由で無造作に異端扱いする空気が支配的だ。

 反基地派が「オール沖縄」を僭称し続ける限り、安全保障問題で正論を語りにくい雰囲気もまた続く。 こうした傾向に歯止めが掛かるのか。 それも今年の一連の選挙にかかっている。

http://www.sankei.com/premium/news/160130/prm1601300039-n1.html

生長の家の正しさ、神の道の正しさと愛のみを誠心をもって説けば、どんな人でも仏心を出す

2016-01-29 22:54:22 | 生長の家

        生長の家地方駐在本部講師  木 原  し づ ま


 北海道のC町でのことでした。 私が会場の2階で支度して待っていたら、何やら階下が喧しいのです。 どうしたのかと思っていると、白鳩会長さんが上がって来て言われました。

 「木原講師、S会の幹部が来て、あなたと教義のやり合いをすると言うて頑張っています。 なんぼ帰れと言っても帰りませんから、そのつもりで覚悟して降りて来て下さい」

 「おや、そうですか。 もう支度してますから、行きましょう。 しかし、私や覚悟しませんよ。 戦う気がないんですから、覚悟する必要はないんですよ」

 「先生、嘘じゃありませんの、本当なんですよ」

 「良いんですよ、良いんですよ」

 もう定刻の7時でしたから、会場へ降りて行きました。 すると、壇の傍によれよれの服着て、頭はもじゃもじゃの眉を縦にした50歳位の人が坐っていました。 私を睨むようにして、言ったものです。

 「これが講師かい。 言うぞ。 これから言うぞ。 どっちが勝つかな?」

 私は、又どういうものか、そんなに食ってかかったりされると、こっちが柔うなる性質でしてね、

 「ハイ、ハイ。有難うございます」
 
 「そういうところが、生長の家は性根が悪い。 何でもハイ、ハイ言うて、合掌位しやがって、柳に風と受け流しやがって ・・・ 何とか受け答えせい!」

 「ハイ、ハイ。 有難うございます」

 「これから問うぞ、問うぞ!」

 その人の傍を通り抜けて、私は壇上に立ちました。


 壇上に立ったら、谷口先生の御名代ほどじゃないが、弟子の末端として立たせて頂くのですから、凛と致します。

 「皆さま、私はつい50分程前に、はるばる広島から60時間2夜かけて汽車や船を乗り通して参りました、60すぎた婆でございます。

 どうせ婆さんで、無学の者でございます。 お気に召すようなお話はできないと思います。 一切神様にお任せして “今晩ここに御縁があって、神様がお引き合わせ下さいました方々に、最も必要な真理をお伝えさせて下さい” とお祈りしましたから、どんな話が出るか私にも解りません。 只今7時です。 7時から10時まで、正味3時間を神様のお言伝えをさせて頂きます。

 この3時間は、私の時間でもございませんし、あなた方の時間でもないのです。 お聞き下さる皆さんと、お話し申し上げる私と、この両者に対して神様が特別の御愛念をもって、お与え下さった3時間でございます。

 そこで、御願いしたことは、誰の時間でもない、神様のお時間ですから、その間は例え相愛会長、白鳩会長、青年会長といえども、いかなる不審があろうとも、一口たりとも片口たりとも口出しは罷りならん。 もし御不審があったら、済んでから言って下さい、 神様の時間を汚すことはできません。 ただ聞いて頂く、話をさせて頂くだけのお時間です ・・・ 」

 これだけの前置きをして、話し始めました。 生長の家の本質から始めて萬教帰一まで、精しく精しく話しまして宗教というものは、入れば入るほど、顔も柔和になり、恐怖もなくなる。 猫を見ても合掌したくなる、 草花を見ても合掌したくなる。 汚れた下駄の転んでいるのを起して合掌したくなる。 こういう気持になってこそ、本当の宗教の価値、信仰の醍醐味も解ってくる。 要するに、宗教というものは、生きとし生けるもの、在りとし凡ゆるものに対して、無条件で心から合掌できるようになったら、真物でしょう。 と言うていたのです。

 10時が3分過ぎて了ったので、話を結ぼうと思った。 途端に、声がかかったのです。 例の人でした。

 「一寸待て!」

 「ハイ、ハイ。 何でしょうか?」

 優しうに答えました。 何故私が優しく答えたかというと ・・・ こういう初めて逢ったばかりの年寄りにでも、ガミガミと食ってかかりたくなる人は、気の毒な人だと思うているからです。 私が憎うて言うてるんじゃない。 初めて逢うたばかりなのに、憎い訳はないでしょう。 こういうお方は、幼い頃から親子の縁も薄くて、温かい母の懐に寝たこともないに違いない。 幸せそうな他の子供達を見るにつけても、羨ましいやら、腹立たしいやら、人生の敗残者のような思いに歯を食いしばって、涙をこらえて人生を渡って来た人に違いないと思っているからなのです。 だから、こんな私のような年寄にでも、一遍勝ってみたい心が動く。 だから食ってかかるのだ。 愛しい、と思うのです。

 「今、あんたは、生きとし生けるもの、在りとし凡ゆるものを拝めと、言うたろうが?」

 「ハイ、申しましたよ」

 「盗人でも、拝むのかい?」

 「ハイ、盗人でも拝むのですよ」

 「盗人でもかい?」

 「ハイ、盗人でも拝むのです。 でも、一寸お待ち下さい。 誤解があるといけませんから、少し説明させて頂きます。

 生長の家では、人間は神の子と教えられています。 素晴しい神の子さんが盗人という汚名をつけられるのは、何故でしょうか。 人の物を盗ったからです。 盗む1分前は、盗人じゃなかった。 それが1分後には、“あれは盗人だ”と言われる。 盗むということは、行為です。 その行為を“よく盗った”と言うて拝むのではないのです。

 初めから、盗人になろうと思うて生れてきた者はない。 環境やら、いろんな事情に押し流されて、親に反抗したり、不良仲間に入ったり、内心恥ずかしい思いをしながらも、人生の裏街道、暗い坂道を転がり落ちた人達なのです。

 どんな大盗人でも、盗るのは悪いと知っている。 だから、盗ったら逃げるでしょう。 夜半や、人のいない時に忍びこむでしょう。 “神の子だから、盗っちゃいけん”と知っている。 それが良心、実相というもの。 盗りながらも、その底には、悪いと思う尊い光が、うごめいている。 その実相を拝めというのであって、“よう盗った”と言うのではないのです」

 大体、こういう風な話をしましたら、その人は、大きく頷いて言いました。

 「うん、同感じゃ!」

 そして、さっさと帰って行って了ったのです。 後で、幹部の皆さんが “まあ良かった。 何か言うかと思ったけど、あっさり帰って良かった”と喜んでおられましたがね。 私は、どんな人でも絶対憎まない。 母親のような気持で祈り、祈り話すのですから、気持は楽なものなのです。


 1年経って、またC町へ行きました。

 「会長さん、去年賑やかに仰言った方、あれから来られますか?」

 「いえ、一寸も見えません」

 「それじゃ、遠方の人でしょうね」

 「すぐそこの5,6軒先のラジオ屋の主人なんですよ」

 「そうですか。 私、あの人好きですよ。 他の宗教へ乗りこんできて、あれだけのことをなさるようじゃ、性根があって、素晴しい方だと思いますよ。 “去年の婆さんが来て、あなたが印象に残って忘れられない。 懐しがっとるから、お暇があったら、奥さんとご一緒に遊びにいらっしゃいませんか”と言うて、これから案内に行って来て下さいませんか」

 「そうですね、まあ行ってみましょう」

 会長さんにお願いして置いて、私は階下の会場へ行きました。

 まだ早いのに、会場の上り口に10人ほどの紳士が一列に並んで坐っておられる。 そして、私が坐る座布団の前にも一人。 髪をきれいに分けた人が坐っているのです。 幹部の方が来て下さっているのだと思って、合掌しながら通って、“皆さん、よくいらっしゃいました”と言っていましたが、前の人を見て吃驚しました。

 「あら、お懐かしい。 あなたは昨年お出下さった方じゃありませんか」

 「そうですよ」

 丸っきり、声も違うし、ネクタイをしめて、髪かたちから何から、去年とは雲泥の差なのです。

 「やっぱり以心伝心ですね。 私も今あなたが懐かしいので、御案内に行って下さいとお願いしていたところです」

 「僕は、あなたがお出になるのを待っていました。 去年、あなたに食ってかかっても、母親が駄々っ子をすかすような態度と気持で接して下さった。 あの時のことが忘れられなかった。 2歳の時に死に別れた母親が、再現されたような気がして ・・・ 」

 ポロポロ涙流しておられるのです。 誌友会にも出とうてならなんだけど余りガンガン言うたので、バツが悪くて出られなかった。 木原が来るのを待っていたと仰言るのでした。

 「ポスターを見て、1週間前から、お母さんが来られると思って、待っていました。 御覧のように、こんなに元気になって、店も繁昌するし、今日はもとの教団の幹部も誘って来ました」

 入口の処に並んでいた人達のことです。 その方達も、最後まで私の話を聞いて下さって、帰りに誌友になった方もおられました。 こういうことは、全国あちこちで、よくあります。


 悪い人は一人もいない。 実相は、みんな神の子なのです。 大きく包んで、優しく労ってあげたら、自然に実相は輝き出す。 こちらの出様一つだと思っている訳なのでございます。

 これも尊師 谷口雅春先生御夫妻のみ光のお蔭です。 全国津々浦々を元気に巡り歩いて、菩薩を拝ませて頂く身の幸せを深く感謝申上げます。


      『白鳩』  昭和37年12月号 
 

『生長の家』の信仰とは ・・・

2016-01-29 16:50:05 | 生長の家

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


  狭い心で信仰していて何になるか。

  信仰というものは、心が開いて来なければならぬのである。

  本当の信仰とは、

  自己の本質が如何に偉大な神の子であるかという事を悟って、
 
  洋々とした大海のような大きな世界に出ることである。

  凝り固まって小さくなって、

  信心信心と言っているのは、

  本当の神を知らないからである。

  『生長の家』の信仰は、

  何物をも包容する広々とした信仰である。

  神は全体であるから広いのが当然である。

  広々とした心だけが、

  本当の神と波長が合うのである。


      『ひかりの語録』

「愛」の聖泉

2016-01-28 18:59:33 | 生長の家

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


  人の悪を咎めるよりも

  自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ

  「愛」の中にこそ聖泉がある

  それは智慧が如何に斫り開いても

  発見することの出来ないところの聖泉である

  その聖泉に身をひたすとき

  一切の不完全は癒されるのである


      『静思集』 より