VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

『如意寶珠觀』 講義  〔1〕

2015-06-23 09:38:57 | 生長の家

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


 生長の家で行う観法のなかに 『如意寶珠觀』 といって、自分の身を、全身を、全身の細胞悉く如意宝珠なりと観ずる行法がありますが、実際吾々の全身は、こんな光明のない穢い糞雑衣のような塊ではない。 光明輝いている如意自在の法身なのであります。

 如意宝珠というと、こんな小さな一定寸法の宝珠という意味じゃないのであって、法身のことであります。 自分は法身である。 法の体であり真理の身であると云う事であります。

 「真理は汝を自由ならしめん」とキリストが 『ヨハネ傳」 にいっていらっしゃいますが、此の法身・真理の体こそ如意宝珠であって、それこそが応に本当の「我」であると云うのであります。 又 『仏身こそ応に「我」なり』 と維摩経にありますが、仏の身が本当の自分であります。

 仏の身というのは、決して死人のことではないのであります。 死んだらその死骸を「よい仏になった」と云う人がありますけれども、あれは仏身の脱け殻であって、潜水服にすぎないのであります。 脱け殻を人間だと間違えているから間違が起るのであります。 

 吾々は潜水服や「脱け殻」を人間だと思わないで、仏身こそ応に「我」である、仏のいのちこそ自分だ。 『金剛身こそ応に「我」だ』 自分は宇宙に充満している真理のからだだ。 宇宙に充満している真理のからだだから金剛不壊なのだと知らねばなりません。

 真理は金剛不壊であって、何時まで経っても滅びるものではない。 2+2=4 というのは数学上の真理であるとすると、2+2=4 ということは、何年経っても何百年経っても是は消えるものではない、この数字は消えますが、その真理は消えない。 それと同じようにこの身体は消えましても、自分の真理の身体は決して消えないのであります。

 肉体は 『縁』 によって生じたものであります。 父母を縁とし、食物空気等を縁とします。 ところが、吾々の真理の体というものは縁に依って生じたのではないから消えはしない。 

 因縁に依って生じたものは、因縁の寄せ集めです。 因縁の寄せ集めは因縁の変化で状態が変る。 或は食物を食べ、空気を吸い込んで、それを縁として此の頭脳で何か考えている。 そういう自分というものはモルヒネをちょっと注射したらものを考えなくなる。 「我」「我」 と思っている「我」というものはどっかへ行ってしまう。 そんな詰らない「我」で頑張っても話にならないのであります。

 1グラムのモルヒネにも対抗することが出来ないようなそんなものを「我」と思わず、金剛不壊の「我」を、火にも焼けず、水にも溺れざるところの金剛不壊の「我」を知らねばなりません。 宇宙に充満している法身であり如意宝珠であるところのものが私である。 久遠不滅の永久に死なないものこそ「我」である。 尽十方に満つるものこそ「我」であると知らねばなりません。


 神想観なり、如意寶珠觀と云うのは、即ちそれを自覚する方法で、自分の体は神の生命そのものだ、仏のいのちなのだ、仏身だ、法身だと観じて、実際に光明輝いている相を一念不動の状態で心に思い浮かべるのであります。

 じっと坐って自分の全身が神の生命そのものに満たされて輝いている状態を心に描いてそれを見詰めておりますと、最初は「自分」と云うかたまりが中核体として輝いているけれども、次第にその輝きが宇宙全体に満ちひろがって来るように観じられ、自分から発する光波が宇宙にみち満ちて我と宇宙とが一体になった感じが得られます。 こうして尽十方に満ちみちている自分を如実に体得することが出来るのであります。

 自分と云うものは、こんな五尺何寸かの小さな塊のようでありますけれども、実は宇宙に満つる一大実在であります。 空を仰いで見ますと、無際涯と見える空間に星が無限に並んでおりますが、そういうものを吾々は知ることが出来るのは何故であるか、それは自分の心が全宇宙を包んでしまうことが出来るということをあらわしております。

 自分の心が全宇宙を包んでしまうことが出来るというのは何故であるか。 それは自分の生命が全宇宙にみちているということであります。 自分には全宇宙を包む無限大の心がある。 自分の生命は宇宙にひとしき無限大の自分の生命だと云うことを知るとき吾々は何を小さなことにクヨクヨする必要がありましょう。

 宇宙にひとしき尽十方にみつるところのものが本当の自分である。 こんな小さい肉体の体が自分ではないのだ。 まことにも 『尽十方に満つるものこそ応に「我」なり』 と喝破した 『維摩経』 はまことに素晴しいと云わねばなりません。


 こんな素晴しい教が仏教にはありますのに、それが生活に生きなかったのは何故でしょうか。 それはそう云う高尚なことは印度哲学であって、生活と遊離した、ただの「学」だと考えていたからではなでしょうか。 或は、実相の自分は、そんなものでも、現象の肉体の自分はやはり弱いものだと、実相と現象とを別々に分けて考え、実相の自分は金剛不壊でも、現象の自分は弱小なものとして取扱わねばならぬと区別した所に、実相無限の力が現象界に現れ得なくなったのだと考えられるのです。

 ところが生長の家では 「現象なし」 と一度キレイに現象を際断してしまいます。 そして 「実相のみがある」 と自覚して、実相に跳躍して生活を生きる。 其処に「弱さ」を心に描かぬから、「弱さ」に捉えられなくなり、現象界にまでも強力な実相の力が投影して来る事になるのであります。


    『生長の家』誌  昭和23年3月号 5頁 ~7頁
     ― 『維摩経』を劇化して上演せられし時の講話 ― より

コメントを投稿