生長の家副総裁 谷 口 清 超 先生
『生長の家』では“言葉の力”ということを教えている。
コトバは実現力を持っているのであるから、成る可く積極的な、明るい言葉を使うようにしなければならない。 自分の運命を呪ったり、世を恨んだり、人や国家の欠点ばかりをあげつらうような人々は、決して大成することはないのである。
けれども、無責任な放言をしたり、出鱈目を騒々しくガナリ立てるのがよいわけではない。 出来もしないことを「出来る」と断言して人々を欺いたり、人に安受け合いするのは、人道的見地からしても、決してよいことではないのである。
それは自分の運命の向上を計るために、人々に迷惑を与えるところの精神であり、「利己主義」であり「我侭」であり、欺瞞的であり、無責任であるから、その悪因の果を刈り取らねばならなくなって必ず結末がよくないのである。
政治的に考えて見ても、屡々放言する人は、必ず行き詰ってしまう。 それは“積極的”な言葉であるから、よさそうに思われるかもしれないが、正しい信念や計画に裏打ちされていないから“利己的幻想”に終り、失敗する。 しかもそれに“自己顕示欲”の虚飾がぶらさがっているから全く鼻もちならないのである。
「安保は戦争につながる」とか「原潜入港のいと口」と叫んだ人々は、まさにこのような“放言”の類いをもって自己顕示した類型的政治家であった。 本来ならば彼らは自己の見通しの間違いを国民の前にわびて平伏して断罪を乞わなければならない筈である。 しかし彼らは、恬然として又ぞろ何やらの「戦争につながる材料」をさがし出し、誇大宣伝をたくらもうとしているのである。
又たとい彼らの言うごとく、万一にも将来戦争が起ったとしても、彼らの預言が正しかった訳でも何でもないのである。 それは凡ゆる事柄に「戦争につながる」と言い立てておれば、どれかが当ったように見えないこともないからである。 毎日「明日は雨が降る」と予告しておれば、いつかその通りになるであろう。 しかし彼は決して天気の預言者ではく、知者でもなく、国民を愚弄する者であるのと同様である。
吾々はこのような“放言”や“反対”や“自己顕示”を超越した「明るい愛ふかい宣言」を発することを心懸けよう。
それは鳥の囀りの如く、幼な児の歓声の如く、雷鳴の天地に響くが如きよきコトバである。 その言は全く自然であり、宇宙的であり、法爾なのである。 それ故、実相を表現し実相を顕示する強烈無比な力をもつ。 自己のみならず他己をあらわし出す。 自他を超越した「いのち」が、渾然一体となって、適時適処に顕現する。
それは進歩的と名づけられようが、保守的と名づけられようが社会主義的と言われようが、資本家的とののしられようが、そんなことには全く拘りがないのである。 “自然”という神が叫び、石も、山も、川も同調する宣言である。
『生長の家』 昭和45年12月号 巻頭言