■肉体と皮膚
桜を見に外に出て、キモチイイ!と感じたことや、「ショーシャンクの空に」の映画を観て感じたこと、その全然違う二つの根底で、ある近いものを感じた。
それは前から考えていたことでもあるので、言語化してみようとふと思い立った。
それは、『開くこと、閉じること』に関して。
心はどこにあるのかという問題がある。
脳にあるのかもしれないし、そういう局在的なものではなく全体的なものかもしれないが、どこかに心のようなものがあるのだろう。
僕らの肉体は心と共に閉じられている存在であるが、一部開かれている。
口を開けると、口→食道→胃→十二指腸→小腸→大腸→肛門という形で、人体に大きな穴が開く。この経路は、自分の中で外部とも言えるし、内部とも言える。
耳の穴、鼻の穴、毛穴・・他にも無数の穴がポコポコ開いている。
人体は、基本的には皮膚によって境界され、外界から閉じられている。
皮膚によって、自己と他者は境界がひかれる。
■自と他
他者とつながりたいと思うとき、思わず手を握ることがある、抱きしめることがある。
これは自己と他者の物理的な境界をなくしたいという欲求だと思う。
もちろん、男女の関係では凸凹があるので、それによってひとつになることもある。それは、種が生命を維持するシステムにも使われている。
自己は閉じられ、境界され、他者と分断されている。
しかし、人間は本来的にそれで満足できないので、物理的な境界をなくそうとすることがある。
それは、自分は皮膚によって閉じられた存在だけれど、閉じたままでいれるほど、人間は強くないからだと思う。
■空 天 宇宙
部屋の中にいると、皮膚の上から、屋根で物理的に閉じられる。
部屋がビルの中だと、更にもう一層で閉じられる。
人工的で文明化された世界は、こういう風に何層にも閉じられる構造になることがある。
ふと外に出る。
太陽がまぶしい。空に雲も見える。
時には雨が降り雷が鳴る。
そして、時には晴れる。
外に出る時、清々しくいい気持ちになることがある。
これは、外に出て、自分が開かれた感覚を実感するからなのだと思う。
自然の世界では、閉じられることはほとんどない。
外に出ると、自分を閉じる境界がなくなり、自分より外の領域は、空、天、そして宇宙まで一体になっている。
自分が、宇宙の部分であることを実感できる。
だから、開かれた感じがする。
心も解き放たれて自由な感じがする。
しかし、外に開かれることは、すごく不安定な状態でもある。
その不安定さは、不安という実態がない妄想の産物を産む。
だから、時に閉じることで安定を求めたくもなるし、屋根のような境界がある閉じられた空間で過ごしたくなる。
そんな自分だけの閉じられた時間や空間も、確かに大事だとも思う。
閉じられた生活は、ある秩序を生むし、ある種の安定を生む。
だから、なかなか開くことを怠ることがある。
■閉・安定・静⇔開・不安定・動
「ショーシャンクの空に」でもあったが、刑務所の囚人生活は、物理的な塀で閉じられている。そして、塀の中だけの特殊な規則でも更に閉じていく。
塀の中の生活は規則が厳しく、そこでしか通用しないローカルルールばかりであり、開かれた外の世界から来た犯罪者は発狂しそうなほど辛い日々を送る。
しかし、人間の順応能力は驚くほど高い。
徐々にその生活も慣れてくるし、ローカルルールとは言えども、そこにはある一定のルールや規則があるため、何かしらの安定状態が作られることになる。
閉じた状態はある種の安定であり、静的な状態にある。
開いた状態はある種の不安定であり、動的な状態にある。
■閉じれば腐る
仕事を例にとってみる。
今は仕事が専門分化している時代。
そうなると、その世界は専門用語を駆使することで閉鎖性を維持するようになり、どんどん閉じる方向に進む。
専門化と閉じる方向性はパラレルに進むと思う。
だから、科学の世界自体が閉じていくし、医学界も閉じていく。
世界中の研究者がやっている研究の大部分が、その専門世界の中だけでしか通用しない閉じられたものであるることは多い。
閉じられた世界で賞賛を受け、賞をもらい、尊敬を受ける。
しかし、開かれた世界では何の意味もないことにふと気づくことがある。
その現実を直視したくないので、見ないふりをして再度閉じた世界に戻る。
そのサイクルは、閉じた世界を強化する方向に進む。
医学界は、その最たるものの一つかもしれない。
本来は患者さんのため、生老病死のためにやっていた医学も、閉じられた専門領域の中だけで通用する理屈をこねまわすようになり、他者の意見や参加自体を閉じる方向性へと向かう。
ローカルルールや専門用語のような釘を使い、閉じた世界を更に強化する。
しかし、閉じられた世界は、流れが滞る。
そして、腐敗してくる。
あまりに腐敗して、呼吸ができないくらいの腐敗臭がしてどうしようもなくなったとき、初めて窓を開けて外部の世界に開く。
もちろん、既に遅い。
人間は、色んな所属や肩書や経歴を持っている。
それは、ある枠の中で閉じた世界を何重にも持っているということでもある。
閉じる方向性は安定するので、短期的には落ち着くかもしれない。
ただ、基本的には、「閉じたままだと腐る」と思う。
だから、定期的に窓をあけて、自分自体を開かないといけないと思う。
自分を他者に開く。世界に開く。異なる分野に開く。
自分が境界をふと意識したら、その境界に穴を開けて、外の空気を吸ってみる。
それは、縦糸に対する横糸とも言える。
国境に対する越境とも言える。
自分の仕事の専門分野で閉じるだけではなく、時には開かないといけない。
自分の自己満足で閉じるだけではなく、時には他者や世界に開かないといけない。
自分の心を閉じるだけではなく、時には開かないといけない。
三島由紀夫も、『人間は自分のためだけに生きるほど強くない』と言っていた。
それは、自分だけで閉じたままでいれるほど強くはないということだと思う。
■『開くこと、閉じること』
自分に対して閉じる方向性、それは自己愛であり自意識過剰である。
他者に対して開く方向性、それは利他であり無私である。
自分は、こういう『開くこと、閉じること』を意識しながら仕事をしたり生活したりすることは大事だと思う。
「ショーシャンクの空に」でも感じたけれど、いくら物理的に閉じられようとも、自分の心をさえ開いていれば、自分は決して腐敗しないんだと思った。
外に出て桜を見にいくと気持ちいい。
それは、自分が外や空や宇宙と境界がなくなるから、その開かれた感覚が気持ちいいんだと思った。
閉じている時、必ずや境界線がある。そこをまず意識する。
境界線上にいる時、そこは開いていて閉じているとも言えるし、開いていなくて閉じていないとも言える。
閉じたままだと腐る。だから、開かないといけない。
自分が腐りそうだと思ったら、ただ開けばいい。
開きすぎて不安定すぎてバランスがとれなくなったら、一時的に閉じればいい。
ただ、それだけなんだと思う。
桜を見に外に出て、キモチイイ!と感じたことや、「ショーシャンクの空に」の映画を観て感じたこと、その全然違う二つの根底で、ある近いものを感じた。
それは前から考えていたことでもあるので、言語化してみようとふと思い立った。
それは、『開くこと、閉じること』に関して。
心はどこにあるのかという問題がある。
脳にあるのかもしれないし、そういう局在的なものではなく全体的なものかもしれないが、どこかに心のようなものがあるのだろう。
僕らの肉体は心と共に閉じられている存在であるが、一部開かれている。
口を開けると、口→食道→胃→十二指腸→小腸→大腸→肛門という形で、人体に大きな穴が開く。この経路は、自分の中で外部とも言えるし、内部とも言える。
耳の穴、鼻の穴、毛穴・・他にも無数の穴がポコポコ開いている。
人体は、基本的には皮膚によって境界され、外界から閉じられている。
皮膚によって、自己と他者は境界がひかれる。
■自と他
他者とつながりたいと思うとき、思わず手を握ることがある、抱きしめることがある。
これは自己と他者の物理的な境界をなくしたいという欲求だと思う。
もちろん、男女の関係では凸凹があるので、それによってひとつになることもある。それは、種が生命を維持するシステムにも使われている。
自己は閉じられ、境界され、他者と分断されている。
しかし、人間は本来的にそれで満足できないので、物理的な境界をなくそうとすることがある。
それは、自分は皮膚によって閉じられた存在だけれど、閉じたままでいれるほど、人間は強くないからだと思う。
■空 天 宇宙
部屋の中にいると、皮膚の上から、屋根で物理的に閉じられる。
部屋がビルの中だと、更にもう一層で閉じられる。
人工的で文明化された世界は、こういう風に何層にも閉じられる構造になることがある。
ふと外に出る。
太陽がまぶしい。空に雲も見える。
時には雨が降り雷が鳴る。
そして、時には晴れる。
外に出る時、清々しくいい気持ちになることがある。
これは、外に出て、自分が開かれた感覚を実感するからなのだと思う。
自然の世界では、閉じられることはほとんどない。
外に出ると、自分を閉じる境界がなくなり、自分より外の領域は、空、天、そして宇宙まで一体になっている。
自分が、宇宙の部分であることを実感できる。
だから、開かれた感じがする。
心も解き放たれて自由な感じがする。
しかし、外に開かれることは、すごく不安定な状態でもある。
その不安定さは、不安という実態がない妄想の産物を産む。
だから、時に閉じることで安定を求めたくもなるし、屋根のような境界がある閉じられた空間で過ごしたくなる。
そんな自分だけの閉じられた時間や空間も、確かに大事だとも思う。
閉じられた生活は、ある秩序を生むし、ある種の安定を生む。
だから、なかなか開くことを怠ることがある。
■閉・安定・静⇔開・不安定・動
「ショーシャンクの空に」でもあったが、刑務所の囚人生活は、物理的な塀で閉じられている。そして、塀の中だけの特殊な規則でも更に閉じていく。
塀の中の生活は規則が厳しく、そこでしか通用しないローカルルールばかりであり、開かれた外の世界から来た犯罪者は発狂しそうなほど辛い日々を送る。
しかし、人間の順応能力は驚くほど高い。
徐々にその生活も慣れてくるし、ローカルルールとは言えども、そこにはある一定のルールや規則があるため、何かしらの安定状態が作られることになる。
閉じた状態はある種の安定であり、静的な状態にある。
開いた状態はある種の不安定であり、動的な状態にある。
■閉じれば腐る
仕事を例にとってみる。
今は仕事が専門分化している時代。
そうなると、その世界は専門用語を駆使することで閉鎖性を維持するようになり、どんどん閉じる方向に進む。
専門化と閉じる方向性はパラレルに進むと思う。
だから、科学の世界自体が閉じていくし、医学界も閉じていく。
世界中の研究者がやっている研究の大部分が、その専門世界の中だけでしか通用しない閉じられたものであるることは多い。
閉じられた世界で賞賛を受け、賞をもらい、尊敬を受ける。
しかし、開かれた世界では何の意味もないことにふと気づくことがある。
その現実を直視したくないので、見ないふりをして再度閉じた世界に戻る。
そのサイクルは、閉じた世界を強化する方向に進む。
医学界は、その最たるものの一つかもしれない。
本来は患者さんのため、生老病死のためにやっていた医学も、閉じられた専門領域の中だけで通用する理屈をこねまわすようになり、他者の意見や参加自体を閉じる方向性へと向かう。
ローカルルールや専門用語のような釘を使い、閉じた世界を更に強化する。
しかし、閉じられた世界は、流れが滞る。
そして、腐敗してくる。
あまりに腐敗して、呼吸ができないくらいの腐敗臭がしてどうしようもなくなったとき、初めて窓を開けて外部の世界に開く。
もちろん、既に遅い。
人間は、色んな所属や肩書や経歴を持っている。
それは、ある枠の中で閉じた世界を何重にも持っているということでもある。
閉じる方向性は安定するので、短期的には落ち着くかもしれない。
ただ、基本的には、「閉じたままだと腐る」と思う。
だから、定期的に窓をあけて、自分自体を開かないといけないと思う。
自分を他者に開く。世界に開く。異なる分野に開く。
自分が境界をふと意識したら、その境界に穴を開けて、外の空気を吸ってみる。
それは、縦糸に対する横糸とも言える。
国境に対する越境とも言える。
自分の仕事の専門分野で閉じるだけではなく、時には開かないといけない。
自分の自己満足で閉じるだけではなく、時には他者や世界に開かないといけない。
自分の心を閉じるだけではなく、時には開かないといけない。
三島由紀夫も、『人間は自分のためだけに生きるほど強くない』と言っていた。
それは、自分だけで閉じたままでいれるほど強くはないということだと思う。
■『開くこと、閉じること』
自分に対して閉じる方向性、それは自己愛であり自意識過剰である。
他者に対して開く方向性、それは利他であり無私である。
自分は、こういう『開くこと、閉じること』を意識しながら仕事をしたり生活したりすることは大事だと思う。
「ショーシャンクの空に」でも感じたけれど、いくら物理的に閉じられようとも、自分の心をさえ開いていれば、自分は決して腐敗しないんだと思った。
外に出て桜を見にいくと気持ちいい。
それは、自分が外や空や宇宙と境界がなくなるから、その開かれた感覚が気持ちいいんだと思った。
閉じている時、必ずや境界線がある。そこをまず意識する。
境界線上にいる時、そこは開いていて閉じているとも言えるし、開いていなくて閉じていないとも言える。
閉じたままだと腐る。だから、開かないといけない。
自分が腐りそうだと思ったら、ただ開けばいい。
開きすぎて不安定すぎてバランスがとれなくなったら、一時的に閉じればいい。
ただ、それだけなんだと思う。
こちらでも、lastoradaちゃんの所でも、ギクリとする言葉に出会って、ドキドキしながら噛みしめています。
心がぱさぱさで腐りそうだったかも。どちらも自分次第ですね。言い訳を捨てて、開いて潤わせなければ!
言葉って、普段は通り過ぎたとしても、自分に必要なその時にはビックリするほどに飛び込んできますね。
ところで、やっと「へうげもの」をレンタルしてきました。なかなか人気のようで、少しずつ借りて5巻目まで。その先は常に貸し出し中で進めていません^^;
ベルバラは家族の本棚に愛蔵版があったので、こちらも久しぶりに読んでみようかな~。
そういう切実さを感じる事で、色んなものは自分にとってその他大勢の3人称じゃなくて、2人称(私とアナタの関係)になるんだと思います。
開く、閉じる。
すごく単純な概念ですが、これ、僕はいろんなとこに応用が利く感覚だと思ってます。
考えるといろいろ思いつくんですが、あまり長くなるのもアレなので、今回はこれくらいにとどめておきましたが。笑
P.S.
マンガの「へうげもの」、面白いですよー!
信長は本当に明智光秀に殺されたのか?ということから始まり、秀吉とか利休とかの腹の探り合いがあったり、そんな俗なことよりも美意識が優先する古田織部を軸に話が進んでいきますしね。
古田織部も、焼き物の織部焼、茶道の織部流の創始者だし、なかなか歴史的にすごい仕事してるんですよねー。
漫画では実に人間臭く書いてあって本当に面白い。あれ読むと、ほんとに茶道始めたくなります。