■まず、竹内 整一先生について
竹内整一先生は、倫理学とか日本思想史が専門の、東大文学部倫理学教授です。竹内先生とは長い仲でもあります。
自分が大学3年のときから、いろんな縁で竹内先生のゼミに勝手に出入りするようになった。
元々は、東大哲学系の教授とか、偉い先生たちとの小さい研究会のようなもので、総勢10人くらいのゼミ。多分野で人間の尊厳とか生命倫理とか語りましょうよ。ってゼミ。
文学、インド哲学、宗教学、情報学・・の教授陣。偉い先生ばっかりいる場で、20歳ちょい過ぎの若造が勝手に参加していた。
話し足りないときや納得できないときは、本郷の白木屋で、ゼミ始まりの17時くらいから2次会3次会4次会を経て、夜通しで朝6時くらいまで話したことも何度もある。ランディさんと仲良くなったのもこのゼミである。
竹内先生とは、『人間とは?人間の尊厳とは?生死とは?倫理とは?道徳とは?宗教とは?善悪とは?』・・・無限に広がるテーマで、死ぬほど話しまくった。
ここまで夜通しで付き合ってくれた大人はいない。
今思うと、さすが文系の教授だけあって、教養が深い。
当時は漫画と絵しか見なかったから古典の出典は分からなかったけど、今思い出すと話していた内容がなんとなく思い出せれる。不思議なものでなんとなく覚えていて、なんとなくつながってくる。
そして、巡りめぐり、今何故か自分の興味が古典に向かっている。
万葉集、古今和歌集、徒然草、源氏物語、平家物語・・・に何故か興味がわいている。
あのときに種が蒔かれていて、自分の土壌が熟してきて植物が自生してきたのかもしれない。
自分は人間とか生命の生き死に、生命の根源の底の底の、さらにそのまた底みたいな、よく見えない領域に興味があって医者になった気がするけれど、その辺りの関心は、結局あらゆるものと連鎖してつながっていると感じている。
■竹内整一『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』
その竹内先生が書いた『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』(平凡社新書) って本があって、京都に行く前に、本棚を見たら、ふと目に飛び込んできた。読んでないのに気づいたんで、新幹線で読んでみた。
相当良かった。相当感じ入った。
今の自分にピタリとはまった。
偶然にも、今、読む時が満ちていたんだろう。
本棚から偶然選び出すっていうのは、不思議な縁!
30歳の自分にして、この本の深さにはまった。学生の時読んだら、いまいち分からんかったかもしれん。人との出会いも縁。本との出会いも縁。
この本、かなり読みやすい。しかも、日本古典文学の知識満載で、古典を読みたくなるほど引用が面白い!是非読んでください。
せっかくなんでこの本での学びをブログに書いてみようと思いたった。
◆無常観と「儚さ」
「はかない」という言葉がある。
「はか」とは、稲作での仕事量を表す単位だった。
その動詞である「はかる」とは、
1:ものごとを軽量する→「計る」「量る」「測る」
2:ものごとの見当をつけて、論じ、調整する→「諮る」「付る」「衝る」
3:ものごとをもくろみ企てる→「図る」「策る」「謀る」
こんなニュアンスがある。
そして、この「はか」ることは、近代西洋が作り上げてきた、科学的な思考方法でもある。
「はかない」という意味は、その「はか」がないことで、努力してもその結果を手に入れられないことから、「むなしい」とか、そんな意味をもつようになったとのこと。
◆business=『busy-ness:忙しさ』→『心を亡くし亡ぼす』?
ビジネスという言葉がある。
未だになんとなく自分がしっくり来ない言葉でもある。
自分の医者の仕事はビジネスというより生きざまに近いし。
ビジネスが生む語感には少し違和感を感じてた。
日本でも、それほどいい意味で使われてないと思うし。
この竹内先生の本によると、business社会とは、『busy-ness=忙しさ』とのこと。
business社会では、「はか」がいくことが求められる。
結果や成果が重視される。そこから、今も逆算で規定される。
西洋語には、project(プロジェクト)・produce(プロデュース)・promototion(プロモーション)・progress(プログレス)・program(プログラム)・・・という、西洋近代の本質でもある『前のめりの姿勢[pro-]』や、『前望的な時間意識[pro-spective]』があるらしい。
この姿勢がbusiness社会を生む。
ちなみに、『busy-ness=忙しさ』の、『忙しい』という漢字は『心を亡くす』『心を亡ぼす』と書く。
偶然でもないような気がする。
「はか」がいくことばかりが求められるbusiness(busy-ness)の世界。
日本人は本当に生きていけるのか。かなり無理しているんじゃないか。
それは、ありのままの自分なのだろうか。
よくわからない脅迫観念に追われて、大した根拠もなく無理しているんじゃないだろうか。
◆「はかない」「儚い」
「はかない」という言葉は、ニンベンに夢と書く。そして「儚い」と読む。
そこからも分かるように、古来の日本人は「はかなさ」を「夢」にたとえて語ってきた。
この本では、その概念を3つに分類している。
*******************************
◆【1】夢の外へ
→この世は夢。だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
◆【2】夢の中へ
→この世は夢。ならば、さらにその内へと、夢中にのめり込んでいく。
◆【3】夢と現のあわいへ
→この世は夢か現か。その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きる。
*******************************
この根底に常に流れるのは、日本人の死生観であり無常観。
無常とは、「常なるものは無い」ということ。
人間は死ぬ。
自分も死ぬ。
愛する人も死ぬ。
周りの他者も例外なく全員がいづれ死ぬ。
財産も地位や名誉もなくなる。
全ての物質はなくなる運命にある。
全ての生命はいづれ死ぬ運命にある。
この世に常なるものは無い。
■伊呂波歌(いろはうた)と無常観
伊呂波歌(いろはうた)は、全ての仮名の音を使って作られている歌。
10世紀末~11世紀のものだけど、未だに現在に生きている。
-------------------------------
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
-------------------------------
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
-------------------------------
<訳>
桜の花の色は美しく照り映えるけれど、すぐに散ってしまう。
我々人間の世も、だれがいつも変わらずにいようか。
いや、いつも移り変わりいく。無常である。
無常の世のような奥山を、今日超えて行くような人生。
浅い夢を見るように惑わされず、酔いしれないようにしたいものだ。
-------------------------------
ここにも、日本人の無常感が込められている。
わけも分からずに、いろは歌はなんとなく知っていたけど、こうやって味わうと新たな発見がある。
日本人には、無常観という考えや、そこからうまれる『儚さ』が、根底に流れているのかもしれない。
■超越の思想
そして、この無常観を越えようとする思想が生まれる。それを竹内先生は『超越の思想』と呼ぶ。
この本は、日本人の死生観と無常観。
そしてそこを超えたいという『超越の思想』を軸としながら、「儚い」という言葉に秘められた「夢」を、
【1】夢の外へ、【2】夢の中へ、【3】夢と現のあわいへ
この3方向から論じている。
相当に興味深く読んでしまった。
一つ一つ引用したいけど、それは本を読んでもらうとして、感じ入ったのだけを簡単に引用。
===================
◆【1】夢の外へ
===================
この世は夢。だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
===================
夢の外への方向性は、絶望の時代に、浄土教の西方浄土思想が救いとなった時代背景がある。
<死んだら極楽に行きましょうね。現世はともかく、死んだら成仏しましょうね。>という考えが根底にながれている。
■夏に生まれ死んでいく蝉は、夏を知ることができるのか
-------------------------------
善導『浄土論註』・親鸞『教行信証』より
-------------------------------
蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや
-------------------------------
「蛄けいこ=夏蝉」は春秋を知らない。その夏蝉が、何故に「朱陽の節=赤い太陽の季節=夏」を知ることができるだろうか。
-------------------------------
夏だけに生まれて死んでいく夏蝉が、春や秋や冬を知らないのに、何故今の季節が夏だと分かるのか。
これは人間全般に示唆に富む、かなり深い問いだと感じた。
イイものを感じるには、ワルイものを知ったらこそ。
ヨイ生き方を求めるのは、ワルイ生き方を見たからこそ。
自分の世界は狭い。
なにがいいか悪いかは、夏と言う季節だけに生まれて、それが夏とも知らなければ夏と分からないまま死んでいく。
春夏秋冬の四季を感じているからこそ、夏と言う季節を感じることができる。
自分の世界を閉じることの危うさはこういうところにもありそうだ。
自分を世界に開いていないと、自分の立ち位置というのがわからなくなる。
夢のような現実。
ただ、その夢の外に出て行かないと、分からないことがある。
見えない世界がある。
===================
◆【2】夢の中へ
===================
この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく。
===================
『【1】夢の外へ』の方向性は、西方浄土思想が元になっていたけど、時代が進むと少し変容してくる。夢であるようなこの世に、夢中でのめり込んでいこうという方向性。
確かに、『夢中』という漢字は、夢の中へドンドン入っていく方向性を表現している。
観阿弥・世阿弥の『松風』の説明が面白かった。
弔うとは、「訪ふ」こと、「問う」ことの意味で、死者を訪れて、思いを問うことである。
能は、そういう弔いの大きな装置のようなものだ。
という説明は興味深かった。
「夢の中へ」の例は、観阿弥・世阿弥の『松風』の「夢の中で死者を弔う」という方向性の他にも、閑吟集(一般庶民の歌謡集)の例もあった。
-------------------------------
『閑吟集』より
-------------------------------
世間はちろりに過ぐる ちろりちろり
何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ
何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり
ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あじきなき世や
夢幻や 南無三宝
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
-------------------------------
<簡易訳>
この世は、儚く、あっという間に過ぎてしまうもの。
でも、どうってことないじゃないか(何ともなやのう)。
この世は、夢幻で水の泡のように儚いものだ。
でも、どうってことないじゃないか(何ともなやのう)。
そんな真面目くさって辛気臭い顔しないで(何せうぞ くすんで)。
この一生は夢のようなものだ。
狂ったように生きていこうよ。
-------------------------------
こんな感じで受け取りましたね。
夢の中へ入りながら、それを空しい・虚無ととらえるより、『一期は夢よ ただ狂へ』からは、わしはもっと力強い、生への肯定を感じ取りました。
===================
◆【3】夢と現のあわいへ
===================
この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする。
===================
『【1】夢の外へ』『【2】夢の中へ』の大きな振幅の振れの結果、夢の外でもなく、夢の中にのめり込むのでもない、その狭間で揺れ動くありのままを受け入れようという方向性へと進む。
■吉田兼好『徒然草』
-------------------------------
『徒然草 下』第百三十七段
-------------------------------
思ひかけぬは死期なり。
今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
しばしも世をのどかに思ひなんや。
-------------------------------
■ありがたき不思議
『ありがたき』とは、原義では「有り難い」「ありにくい」という意味で、「あり」ではあるが、いつでも「なし」に転じうるアヤフヤで不安定なもの。ただ、それでも「ある」という不思議さ。
それは、『イマ、ココ』に生きている不思議さにもつながる。
吉田兼好は、『徒然草』において、死とは生の向こう側にあるものではなくて、生の後ろに常にへばりついているもので、生きながらにして既に死が溶け出していると書いている。
⇒徒然草 百五十五段『死は前よりしも来らず、かなて後ろに迫れり』
吉田兼好がいうところの、無目的な「つれづれ」な状態の意味。
それは、今、こうして生きている「ありがたき不思議」をしばし楽しむこと、そのもの自体が「つれづれ」であると。
彼が否定しているのは、何かの目標や目的のために頑張るという方向性。そのことで、今生きていることが、がんじがらめに縛られること。
「頑張る」とは「頑なに張る」状態を指す。そのことで、ものが見えなくなる。それを兼好は否定している。
現在を目標や目的で縛らず、手ぶらになり、無目的に生きること。
それは、すべてを遊びとして、キャッキャと遊ぶような状態。
そういう生き方が、、『イマ、ココ』に生きている不思議さや、ありがたき不思議さを生きることができるのではないかと。
そして、そういう状態は、「あり」でもなく、「なし」でもない。
そんな「夢と現のあわい」に生きる状態。
それが吉田兼好がいうところの、「つれづれ」のようだと、自分は感じ取った。
■幽玄
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『徒然草 下』第百三十七段
-------------------------------
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、
なほあはれに情ふかし。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。
-------------------------------
直接に月を見上げて愛でるのではなく、雨に降られて見えない月を想像することにこそ、情緒があると説く。
そこから、「幽玄」という日本人の美意識がつながるとあった。
-------------------------------
鴨長明『無名抄』
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「詞に現れぬ余情(よせい)、姿に見えぬ景気なるべし」
-------------------------------
「幽玄」は、上のように定義されている。
言葉にはっきり言ってしまわないところにある余情であったり、姿にくっきり見せない気分や雰囲気にある美意識のこと。
これは、上で引用した『徒然草 下』第百三十七段の美意識でもある。
■最後に
他にも膨大な引用があって、すごく面白いんだけど省略。
【1】夢の外へ、【2】夢の中へ、【3】夢と現のあわいへ
から描く、儚さや無常観を丁寧に書いた本だった。
最後に、この本で引用されていた、新井満『自由訳 般若心経』と、志賀直哉『ナイルの水の一滴』(→86歳の時に書いた最後の作品)という文章を引用して、このブログのトピックを終わりにします。感じることは、皆様に委ねますね。
今回も、長くなってしまった!(笑)
-------------------------------
◆新井満『自由訳 般若心経』
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この世に存在する形あるすべてがつかのまであるからこそ、
ついさっきまで存在していたものが滅び去った次の瞬間、
様々なものが、この世に生じてくるのだよ。
あたかも何もなかったあの大空に、
再び様々な形をした雲が、湧き出てくるようにね・・
・・・・・・・
つかのまの存在ではあるけれど、
あなたは意味もなく、この世に生まれてきたわけではない。
無数の様々な原因と条件が寄り集まって、生まれてきたのだ。
つまり、生まれる意味があったからこそ、あなたは生まれてきたのだ。
そのことを思うと、不思議な気分になるね・・・。
・・・・・・・
実は、あなたのいのちとは、宇宙大河の一滴のことなのだ。
わずか一滴ではあるけれど、
その一滴がなければ、宇宙大河はついには成り立たない。
・・・・・・・・・
即ち、あなたとは、宇宙そのものなのだよ。
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-------------------------------
◆志賀直哉『ナイルの水の一滴』
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人間が出来て、何千万年になるか知らないが、
その間に数え切れない人間が生れ、生き、死んで行った。
私もその一人として生れ、今生きているのだが、
例えて云えば悠悠流れるナイルの水の一滴のようなもので、
その一滴は後にも前にもこの私だけで、
何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。
しかも尚その私は大河の水の一滴に過ぎない。
それで差し支えないのだ。
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竹内整一先生は、倫理学とか日本思想史が専門の、東大文学部倫理学教授です。竹内先生とは長い仲でもあります。
自分が大学3年のときから、いろんな縁で竹内先生のゼミに勝手に出入りするようになった。
元々は、東大哲学系の教授とか、偉い先生たちとの小さい研究会のようなもので、総勢10人くらいのゼミ。多分野で人間の尊厳とか生命倫理とか語りましょうよ。ってゼミ。
文学、インド哲学、宗教学、情報学・・の教授陣。偉い先生ばっかりいる場で、20歳ちょい過ぎの若造が勝手に参加していた。
話し足りないときや納得できないときは、本郷の白木屋で、ゼミ始まりの17時くらいから2次会3次会4次会を経て、夜通しで朝6時くらいまで話したことも何度もある。ランディさんと仲良くなったのもこのゼミである。
竹内先生とは、『人間とは?人間の尊厳とは?生死とは?倫理とは?道徳とは?宗教とは?善悪とは?』・・・無限に広がるテーマで、死ぬほど話しまくった。
ここまで夜通しで付き合ってくれた大人はいない。
今思うと、さすが文系の教授だけあって、教養が深い。
当時は漫画と絵しか見なかったから古典の出典は分からなかったけど、今思い出すと話していた内容がなんとなく思い出せれる。不思議なものでなんとなく覚えていて、なんとなくつながってくる。
そして、巡りめぐり、今何故か自分の興味が古典に向かっている。
万葉集、古今和歌集、徒然草、源氏物語、平家物語・・・に何故か興味がわいている。
あのときに種が蒔かれていて、自分の土壌が熟してきて植物が自生してきたのかもしれない。
自分は人間とか生命の生き死に、生命の根源の底の底の、さらにそのまた底みたいな、よく見えない領域に興味があって医者になった気がするけれど、その辺りの関心は、結局あらゆるものと連鎖してつながっていると感じている。
■竹内整一『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』
その竹内先生が書いた『「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史』(平凡社新書) って本があって、京都に行く前に、本棚を見たら、ふと目に飛び込んできた。読んでないのに気づいたんで、新幹線で読んでみた。
相当良かった。相当感じ入った。
今の自分にピタリとはまった。
偶然にも、今、読む時が満ちていたんだろう。
本棚から偶然選び出すっていうのは、不思議な縁!
30歳の自分にして、この本の深さにはまった。学生の時読んだら、いまいち分からんかったかもしれん。人との出会いも縁。本との出会いも縁。
この本、かなり読みやすい。しかも、日本古典文学の知識満載で、古典を読みたくなるほど引用が面白い!是非読んでください。
せっかくなんでこの本での学びをブログに書いてみようと思いたった。
◆無常観と「儚さ」
「はかない」という言葉がある。
「はか」とは、稲作での仕事量を表す単位だった。
その動詞である「はかる」とは、
1:ものごとを軽量する→「計る」「量る」「測る」
2:ものごとの見当をつけて、論じ、調整する→「諮る」「付る」「衝る」
3:ものごとをもくろみ企てる→「図る」「策る」「謀る」
こんなニュアンスがある。
そして、この「はか」ることは、近代西洋が作り上げてきた、科学的な思考方法でもある。
「はかない」という意味は、その「はか」がないことで、努力してもその結果を手に入れられないことから、「むなしい」とか、そんな意味をもつようになったとのこと。
◆business=『busy-ness:忙しさ』→『心を亡くし亡ぼす』?
ビジネスという言葉がある。
未だになんとなく自分がしっくり来ない言葉でもある。
自分の医者の仕事はビジネスというより生きざまに近いし。
ビジネスが生む語感には少し違和感を感じてた。
日本でも、それほどいい意味で使われてないと思うし。
この竹内先生の本によると、business社会とは、『busy-ness=忙しさ』とのこと。
business社会では、「はか」がいくことが求められる。
結果や成果が重視される。そこから、今も逆算で規定される。
西洋語には、project(プロジェクト)・produce(プロデュース)・promototion(プロモーション)・progress(プログレス)・program(プログラム)・・・という、西洋近代の本質でもある『前のめりの姿勢[pro-]』や、『前望的な時間意識[pro-spective]』があるらしい。
この姿勢がbusiness社会を生む。
ちなみに、『busy-ness=忙しさ』の、『忙しい』という漢字は『心を亡くす』『心を亡ぼす』と書く。
偶然でもないような気がする。
「はか」がいくことばかりが求められるbusiness(busy-ness)の世界。
日本人は本当に生きていけるのか。かなり無理しているんじゃないか。
それは、ありのままの自分なのだろうか。
よくわからない脅迫観念に追われて、大した根拠もなく無理しているんじゃないだろうか。
◆「はかない」「儚い」
「はかない」という言葉は、ニンベンに夢と書く。そして「儚い」と読む。
そこからも分かるように、古来の日本人は「はかなさ」を「夢」にたとえて語ってきた。
この本では、その概念を3つに分類している。
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◆【1】夢の外へ
→この世は夢。だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
◆【2】夢の中へ
→この世は夢。ならば、さらにその内へと、夢中にのめり込んでいく。
◆【3】夢と現のあわいへ
→この世は夢か現か。その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きる。
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この根底に常に流れるのは、日本人の死生観であり無常観。
無常とは、「常なるものは無い」ということ。
人間は死ぬ。
自分も死ぬ。
愛する人も死ぬ。
周りの他者も例外なく全員がいづれ死ぬ。
財産も地位や名誉もなくなる。
全ての物質はなくなる運命にある。
全ての生命はいづれ死ぬ運命にある。
この世に常なるものは無い。
■伊呂波歌(いろはうた)と無常観
伊呂波歌(いろはうた)は、全ての仮名の音を使って作られている歌。
10世紀末~11世紀のものだけど、未だに現在に生きている。
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いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
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色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
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<訳>
桜の花の色は美しく照り映えるけれど、すぐに散ってしまう。
我々人間の世も、だれがいつも変わらずにいようか。
いや、いつも移り変わりいく。無常である。
無常の世のような奥山を、今日超えて行くような人生。
浅い夢を見るように惑わされず、酔いしれないようにしたいものだ。
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ここにも、日本人の無常感が込められている。
わけも分からずに、いろは歌はなんとなく知っていたけど、こうやって味わうと新たな発見がある。
日本人には、無常観という考えや、そこからうまれる『儚さ』が、根底に流れているのかもしれない。
■超越の思想
そして、この無常観を越えようとする思想が生まれる。それを竹内先生は『超越の思想』と呼ぶ。
この本は、日本人の死生観と無常観。
そしてそこを超えたいという『超越の思想』を軸としながら、「儚い」という言葉に秘められた「夢」を、
【1】夢の外へ、【2】夢の中へ、【3】夢と現のあわいへ
この3方向から論じている。
相当に興味深く読んでしまった。
一つ一つ引用したいけど、それは本を読んでもらうとして、感じ入ったのだけを簡単に引用。
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◆【1】夢の外へ
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この世は夢。だが夢ならぬ外の世界があり、そこへと目覚めていく。
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夢の外への方向性は、絶望の時代に、浄土教の西方浄土思想が救いとなった時代背景がある。
<死んだら極楽に行きましょうね。現世はともかく、死んだら成仏しましょうね。>という考えが根底にながれている。
■夏に生まれ死んでいく蝉は、夏を知ることができるのか
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善導『浄土論註』・親鸞『教行信証』より
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蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽の節を知らんや
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「蛄けいこ=夏蝉」は春秋を知らない。その夏蝉が、何故に「朱陽の節=赤い太陽の季節=夏」を知ることができるだろうか。
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夏だけに生まれて死んでいく夏蝉が、春や秋や冬を知らないのに、何故今の季節が夏だと分かるのか。
これは人間全般に示唆に富む、かなり深い問いだと感じた。
イイものを感じるには、ワルイものを知ったらこそ。
ヨイ生き方を求めるのは、ワルイ生き方を見たからこそ。
自分の世界は狭い。
なにがいいか悪いかは、夏と言う季節だけに生まれて、それが夏とも知らなければ夏と分からないまま死んでいく。
春夏秋冬の四季を感じているからこそ、夏と言う季節を感じることができる。
自分の世界を閉じることの危うさはこういうところにもありそうだ。
自分を世界に開いていないと、自分の立ち位置というのがわからなくなる。
夢のような現実。
ただ、その夢の外に出て行かないと、分からないことがある。
見えない世界がある。
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◆【2】夢の中へ
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この世は夢、ならば、さらにその内へと、いわば夢中にのめり込んでいく。
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『【1】夢の外へ』の方向性は、西方浄土思想が元になっていたけど、時代が進むと少し変容してくる。夢であるようなこの世に、夢中でのめり込んでいこうという方向性。
確かに、『夢中』という漢字は、夢の中へドンドン入っていく方向性を表現している。
観阿弥・世阿弥の『松風』の説明が面白かった。
弔うとは、「訪ふ」こと、「問う」ことの意味で、死者を訪れて、思いを問うことである。
能は、そういう弔いの大きな装置のようなものだ。
という説明は興味深かった。
「夢の中へ」の例は、観阿弥・世阿弥の『松風』の「夢の中で死者を弔う」という方向性の他にも、閑吟集(一般庶民の歌謡集)の例もあった。
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『閑吟集』より
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世間はちろりに過ぐる ちろりちろり
何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ
何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり
ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あじきなき世や
夢幻や 南無三宝
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
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<簡易訳>
この世は、儚く、あっという間に過ぎてしまうもの。
でも、どうってことないじゃないか(何ともなやのう)。
この世は、夢幻で水の泡のように儚いものだ。
でも、どうってことないじゃないか(何ともなやのう)。
そんな真面目くさって辛気臭い顔しないで(何せうぞ くすんで)。
この一生は夢のようなものだ。
狂ったように生きていこうよ。
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こんな感じで受け取りましたね。
夢の中へ入りながら、それを空しい・虚無ととらえるより、『一期は夢よ ただ狂へ』からは、わしはもっと力強い、生への肯定を感じ取りました。
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◆【3】夢と現のあわいへ
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この世は夢か現か、その「ありてなき」がごとき生をそれとして生きようとする。
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『【1】夢の外へ』『【2】夢の中へ』の大きな振幅の振れの結果、夢の外でもなく、夢の中にのめり込むのでもない、その狭間で揺れ動くありのままを受け入れようという方向性へと進む。
■吉田兼好『徒然草』
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『徒然草 下』第百三十七段
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思ひかけぬは死期なり。
今日まで遁(のが)れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
しばしも世をのどかに思ひなんや。
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■ありがたき不思議
『ありがたき』とは、原義では「有り難い」「ありにくい」という意味で、「あり」ではあるが、いつでも「なし」に転じうるアヤフヤで不安定なもの。ただ、それでも「ある」という不思議さ。
それは、『イマ、ココ』に生きている不思議さにもつながる。
吉田兼好は、『徒然草』において、死とは生の向こう側にあるものではなくて、生の後ろに常にへばりついているもので、生きながらにして既に死が溶け出していると書いている。
⇒徒然草 百五十五段『死は前よりしも来らず、かなて後ろに迫れり』
吉田兼好がいうところの、無目的な「つれづれ」な状態の意味。
それは、今、こうして生きている「ありがたき不思議」をしばし楽しむこと、そのもの自体が「つれづれ」であると。
彼が否定しているのは、何かの目標や目的のために頑張るという方向性。そのことで、今生きていることが、がんじがらめに縛られること。
「頑張る」とは「頑なに張る」状態を指す。そのことで、ものが見えなくなる。それを兼好は否定している。
現在を目標や目的で縛らず、手ぶらになり、無目的に生きること。
それは、すべてを遊びとして、キャッキャと遊ぶような状態。
そういう生き方が、、『イマ、ココ』に生きている不思議さや、ありがたき不思議さを生きることができるのではないかと。
そして、そういう状態は、「あり」でもなく、「なし」でもない。
そんな「夢と現のあわい」に生きる状態。
それが吉田兼好がいうところの、「つれづれ」のようだと、自分は感じ取った。
■幽玄
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『徒然草 下』第百三十七段
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花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、
なほあはれに情ふかし。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。
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直接に月を見上げて愛でるのではなく、雨に降られて見えない月を想像することにこそ、情緒があると説く。
そこから、「幽玄」という日本人の美意識がつながるとあった。
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鴨長明『無名抄』
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「詞に現れぬ余情(よせい)、姿に見えぬ景気なるべし」
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「幽玄」は、上のように定義されている。
言葉にはっきり言ってしまわないところにある余情であったり、姿にくっきり見せない気分や雰囲気にある美意識のこと。
これは、上で引用した『徒然草 下』第百三十七段の美意識でもある。
■最後に
他にも膨大な引用があって、すごく面白いんだけど省略。
【1】夢の外へ、【2】夢の中へ、【3】夢と現のあわいへ
から描く、儚さや無常観を丁寧に書いた本だった。
最後に、この本で引用されていた、新井満『自由訳 般若心経』と、志賀直哉『ナイルの水の一滴』(→86歳の時に書いた最後の作品)という文章を引用して、このブログのトピックを終わりにします。感じることは、皆様に委ねますね。
今回も、長くなってしまった!(笑)
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◆新井満『自由訳 般若心経』
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この世に存在する形あるすべてがつかのまであるからこそ、
ついさっきまで存在していたものが滅び去った次の瞬間、
様々なものが、この世に生じてくるのだよ。
あたかも何もなかったあの大空に、
再び様々な形をした雲が、湧き出てくるようにね・・
・・・・・・・
つかのまの存在ではあるけれど、
あなたは意味もなく、この世に生まれてきたわけではない。
無数の様々な原因と条件が寄り集まって、生まれてきたのだ。
つまり、生まれる意味があったからこそ、あなたは生まれてきたのだ。
そのことを思うと、不思議な気分になるね・・・。
・・・・・・・
実は、あなたのいのちとは、宇宙大河の一滴のことなのだ。
わずか一滴ではあるけれど、
その一滴がなければ、宇宙大河はついには成り立たない。
・・・・・・・・・
即ち、あなたとは、宇宙そのものなのだよ。
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◆志賀直哉『ナイルの水の一滴』
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人間が出来て、何千万年になるか知らないが、
その間に数え切れない人間が生れ、生き、死んで行った。
私もその一人として生れ、今生きているのだが、
例えて云えば悠悠流れるナイルの水の一滴のようなもので、
その一滴は後にも前にもこの私だけで、
何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。
しかも尚その私は大河の水の一滴に過ぎない。
それで差し支えないのだ。
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今回のものも稲葉さんの思考の流れと共に流れてみました。これが心地いいですね。
いろは歌」を改めて見るとやはりいい。(ちなみに、源氏物語の漫画「あさきゆめみし」の最終巻にこの歌がかかれていて、なんとも儚く美しい幽玄の世界です。「あさきゆめみし」も名著)声に出したときの音もいい。かな文字も世界を温かく包んでくれる感じもいい。漢字もぱっとイメージが伝わってくるところもいい。言葉遊び的な要素と、世の無常を歌っているところも更に味わいがあります。
「はかなさ」と日本人、週末に必ず読みますので、コメントはまた。(今は「自分の中に毒をもて!」を燃えて読んでいるので!)
新井満『自由訳 般若心経』、本当にいいですね。本当に一つ一つが大切な言葉で、ココロに沁みます。「役割」の章にも感動しながら、キリスト教でいうところの「役割」と仏教で意味する「役割」の違いを考えていました。そこに日本人と欧米系の考え方の違いの一側面があるように思います。同じ言葉を使っているようですが、現象面で社会に出てきている形が違う気がします。
般若心経の「役割」の言葉は、
「舎利子よ。なぜ、あなたはこの世に生まれてきたのか?それは、”役割をはたす”ためなのだ」
「役割・・・?」
「そう。自分以外の他者と、人間以外の無数のいのちのために、何ができるか。どのような良いことができるのか。あなたでなければはたせない、あなただけの役割をはたすために、あなたはこの世に生まれてきた。そのことを決して忘れてはいけないよ。
舎利子よ。もう一度言おう。
こだわりをすてて生きなさい。あるがままを受け入れて生きなさい。
そして、あなたがいただいた、奇跡のようないのちに感謝しながら、自分の役割をはたしなさい」
ここで言う「役割」は『自分以外の他者と、人間以外の無数のいのちのために自分が存在するとして=前提、「自分」という存在が何ができるのか』を「役割」としている感じですよね。これって、日本の和を作る感覚に近いと思うんですよ。慈悲深く、他者を意識して自分の存在がある。「他があって、自分がある」みたいな。ある部分、犠牲的精神。
西洋の「役割」の感覚って、もちろん慈悲の感覚はあれど、どこか分業的役割なのでしょうか。キリスト教信者の米国在住クライアントに聞くところ、キリスト教は神の下に1人1人が役割を果たす。そしてその役割が「違っていること」に意味があるんだ、と。聖書の中に、「目は耳にならず、耳は目にならず」のようなことがあるらしく、クライアント曰く、これは違う役割を持っているのだから、それぞれの(違った)役割を全うすることが大事なんだと。裏返すと、自分の役割以外のことは、やらなかったとしても、それはフェアーであると。(話していて案外納得したのは、ビジネス社会を見ていると、トップマネジメントが高い給与をもらったり、秘書に、奥さんと行くレストランの予約をさせたりするのも、フェアーさに入るらしいです。これもキリスト教的価値に照らし合わせると、社会的な「役割」が違って、それぞれにそれを全うしているからフェアーで問題ないんだとか。上の人はnoblesse obligeを当然のこととして期待されているらしいですが。
ん?若干メダパニ気味になりましたが、my point is, 宗教や思想の中で、抽象概念の言葉が出てきたときに、同じように見えても、裏にある価値や意味合いは異なるんだな~面白いな~と思ったというコメントでした。(長い・・・)またまとまってきたら、思考のスパーリングパートナーになってください!
いろは歌、イイよね!
なんかリズム感がいいんだよねー。元々が手習い歌って形で、日本語を効率よく学習するための歌だから、リズムもあるんだよねー。
しかも、こういう無常感が潜んでいるってすごく驚き!というのも、基本的に子供とかが学習するための素材なわけだから、もっと陽気で楽しい歌でもよさそうなのに、こんな無常感丸出しで子供に日本語教えるって、昔の日本人もなかなかニクイよねー(笑)
しかも、Wikipediaで調べてたら、七文字ごとに区切って読むと、最後の文字が「とか(が)なくてしす(咎無くて死す)」っていう無実で死罪になった怨念とかが実は込められてるっていう、またなんとも言えない話が!
いろはにほへ【と】
ちりぬるをわ【か】
よたれそつね【な】
らむうゐのお【く】
やまけふこえ【て】
あさきゆめみ【し】
ゑひもせ【す】
無実で死んだ人のモデルは、柿本人麿だーとか、キリストだーとか、いろんな説があるみたいで、これもまた日本人のイマジネーションの深さを感じますね。都市伝説みたいなもの?
ちなみに、『逆説の日本史』を書いてる井沢元彦さんの、『猿丸幻視行』って本は、そのいろは歌と柿本人麻呂のことを書いた本らしい。
(→Amazonでの出版社からの説明は《猿丸大夫、百人一首にも登場するこの伝説の歌人の正体は?“いろは歌”にかくされた千年の秘密とは……。眼前に展開した友人の悲劇的な死のなぞを解き明かす若き日の折口信夫の前に、意外な事実が次々に姿を現わしていく。暗号推理の楽しさも満喫させるスリリングな長編伝奇ミステリー。第26回江戸川乱歩賞受賞。》って書いてある。)
なんか脱線してきたけど、
わしは、いろは歌の
「色はにほへど散りぬるを」が、「花の色は鮮やかに映えるけれども、いずれは散ってしまうものなんだよなぁ。」というところがすごく好きです!グッときます。
よしもとばななも、なんかこういう無常感の美しさってよくある気がするなー。
「はかなさ」と日本人、きっと面白いと思うよー。読んだら是非感想聞かせてー。
さらに、岡本太郎「自分の中に毒をもて」読んでるってのが更にイイ!
あれは、自分が落ち込んだときとか、岡本太郎のほとばしる情熱を感じて不思議と元気になれちゃう本なのですよ。なんか、岡本太郎がそこにいて、実際話してるような気がする本です。Amazonに載ってる書評も、かなり熱いメッセージ多いよね。相当色んな人にエネルギーを与えている本であるのは間違いない。
あ、脱線して岡本太郎の話が長くなる!笑
新井満『自由訳 般若心経』もイイよねー!あの人の分かりやすい解釈読んでから、般若心経の世界観に俄然興味湧きましたよ。
確かに、「役割」は西洋的(キリスト教的?)な理解と日本は違うのかも。
日本は、聖徳太子の十七条憲法 第一条「一に曰く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。」の世界観が根底に流れているのは間違いない。
そういう『和』を重視した上での、『役割』は、他者とか、他者同士でつくられた場の中での『役割』が前提になっているように思えるね。和の秩序を乱さないような自分の役割とか。
若者用語で『KY=空気読めない』って言葉が出てくるのも似たものもしれん。
ともこさんの英語をバックグラウンドとした考察は参考になる!
分業的役割ってのは確かにその通りかもね。
人と「違う」というのを明確に意識する世界観っていうのは、あまり極端に走ると、奴隷制とかも認めてしまう思想に行くんじゃないのかなぁ。ちょい前までは奴隷制っていう、奴隷側として生まれた人には信じられないくらい辛い時代があったわけだし。(これは、手塚治虫『ブッダ』を読んだときもすごく思ったこと。)
ほんと、所変われば品変わる!
いろは歌の無常観が何故か心に染みいるのも、日本の風土・国土・風習で生まれ育ったから? 単に自分の育ちだけではなく、過去の日本人とかの色んな遺伝子情報を複雑に影響受けてしみこんでいる? アメリカで生まれてアメリカで生まれ育ったら、わしは全く全然別の人間として成長していたのかしら?もしくは、結局あるべくところにどうやっても落ち着く? 不思議で謎なことばかりだなー。
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日本人の「はかなさ」を感じる感受性。無常観。四季のうつろいに敏感なこととも関係しているんでしょうかね。
でも一方で,日本人は,世界に類をみない器用さで「はか」ること(典型的にはビジネス)に邁進している気もします。日本人ほど自発的に「心を亡くして」まで結果を求めて頑張っている国民ってあまりいないような・・・^^;
たしかに西洋の「前のめり」な進歩史観はびっくりするくらい健在ですが,フランスを見ていると,実際に色々な現場はかなり「はか」どっておらず,人間的な言い訳を多用しながらのんびりやっていますし。
このへんをどう考えばいいのかなーと,あれこれ考えつつ,考えがまとまっていません。
でも,戦争中色々なことを犠牲にして旗を降ったのも,戦後に何もかも水に流してひたすらアメリカ的豊かさを手に入れようと高度成長とビジネスに邁進したのも,バブルがはじけて社会全体が若干あきらめモードになっているのも,何もかも日本人特有の「無常観」のあらわれなのかもしれませんね。変わらないものなんて何もない。こだわりが少ない。「日本はこんなはずではない!」というような大上段に立った考え方をしない。時代は変わるけど,「どうってことないじゃないか」。お祭り好きでノリが良い。全力で「今」に適応する。すごい真面目だけど,どこか徒然と流れに身を任せている。そんな部分もあるのかな,なんて。
すみません,全くまとまりのないコメントで^^;
また関連がありませんが,西洋と日本の「役割」感の違い,全く同感です。かなり具体的な話,ここフランスでは日常生活のあらゆる場面で霞ヶ関もびっくりの縦割分業社会に遭遇し…かなりホームシックになります。笑
いろいろな引用,楽しく読みました。古典ってすごいですね。
MYさんみたいに教養深い人(論語で言うと君子!)は、絶対この本オモローだと思う。(オモローってのはフランス在住の人にはいまいちわからんフレーズかもしれんと、書いた後に気付いた。世界のナベアツのギャグね)
かなり古典の引用が多くて、普通に勉強にもなるし刺激も受ける。
古典を読みたい!と思わせる磁場がある。
そんな色んな縁によって、最近は古典の海に投げ出され、日々を楽しんでおりやす。
無常観に関して。
四季の春夏秋冬っていう季節の中に日本人が生きていることが、無常観に大きく影響与えてるのは間違いないと思う!(他の国の四季ってどんな感じなのかな)
登山していた自分の実感として、本当に日本の四季って美しい!!
春山のあのうららかな感じ。鳥も動物も楽しそうにしている感じ。
夏山のギラギラと照りつける太陽と、あの果てしない青空。
秋山の紅葉で赤・黄・茶・・・・色んな色が入り混じる宝石箱のような風景。
冬山の一面銀世界と凛とした空気感。雪がシンシンと降る風景。
本当に美しすぎる!!
登山している人って、言葉にこそ表さないけど、日本の四季が表現する山の美しさにも魅了されているには間違いないと思う。驚異的で圧倒的な美だもの。
しかも、無常!すぐに跡形もなくなる美!
おっと、熱がこもってしまった。笑
『でも一方で,日本人は,世界に類をみない器用さで「はか」ること(典型的にはビジネス)に邁進している』
→
これは本当にその通りだなぁ。日本人は器用だし、いいと思われるものを何のこだわりもなく取り入れていく文化の国だしね。
井沢元彦さんが、「日本人はビーフカレーの文化だ」って言ってて、インドで神聖で食べてはいけないといわれている牛を、インドから来たカレーに取り入れて商品化して輸出する国って意味なんだけど、これは言いえて妙だなぁと思うね。
『日本人ほど自発的に「心を亡くして」まで結果を求めて頑張っている国民』
→
そして、そこに美意識を求めているとこもすごいよね!
心を亡ぼしてまで、猛烈にBusyにBusinessで働きまくって、戦後の奇跡的な経済成長を果たしたのも間違いない事実で、それはそれとして団塊世代の皆様に感謝しないといけないとは思う。でも、やはり心を亡ぼすまで忙しくBusinessにのめりこむのは本末転倒だよね。
わしも、つい数年前までそういう風に猛烈に働きまくってましたが、極限まで行くと限界を感じているんで、その辺は見直し中です。
勿論、手を抜いていい加減にしてるって意味ではないんだけどねー。
ま、MYさんも含め、僕らの世代で新しい『労働論』『仕事論』『働き論』を作っていきましょうよ。
無常観に関するMYさんの書き込みは、かなり的確だと思います。めちゃんこ(→死語?)参考になります!
フランスって、霞ヶ関もびっくりの縦割分業社会なんですか!!
意外ですねー。まあ個人主義が発達しているから、日本とは別の方向性でそうなったんですかねぇ。
MYさんがフランスで色んなことを学んで、それを日本にもって帰ってくれるのが楽しみだー。きっと、日本にとっていいお土産になりますね!
死こそ絶対的なものであり、思想や宗教はそこから出発するのだと、ブッダやプラトンやセネカやトルストイは述べているのだと思います。死を意識しなければ、人文学などは役に立たない空虚な知識として切り捨てられてしまうでしょう。
それにしても、いなばさんがお医者さんでありつつ、これほど古典や芸術に詳しいということに驚嘆いたしました。私の興味と重なるものも多く、先輩の考えとして参考にさせてもらおうと思います。
はじめまして。
初の書き込み有難う御座います!
僕は、あのゼミが形になる前のときから出ていたんです(あまり学生は呼ばれていなかった)。竹内先生も今年度で東大を退官されるということで悲しい限りです。
医療畑に住んでいる人間こそ、倫理や哲学の問題は常に考え続けないといけない問題だと思いますが、日々の膨大な仕事に忙殺されて、まさに心をなくすように「忙しい」世界にとらわれていますので。
死こそ絶対的なもので、思想や宗教はそこから出発するっていうのは、クリアカットな表現ですし、まさしくそうだと思いますね。
日本とか東洋に根付いている「無常」とはまさに死との出会いだと思いますし。サルなんかも、早くに死んだ赤ん坊の「死」を認識できず、腐敗して腐敗臭出していても抱き続けることがあるって聞いたことがあります。
自分の精神や意識が、なかなか「死」に追いついていかないことは、身近な人間の死を体験すると、自分の実感で感じることはよくありますよね。
それがリアルな世界だし、そういうところから悲しみや優しさのような感情・情緒は生まれてくると思うので、僕ら医療者は生から死を見つめることだけに必死になるだけではなくて、死から生を見つつ、そのあわいの領域で全体と部分を見ていかないといけないんだと思いますね。この辺は、日常の医療に哲学的要素をなんとか復権させようと、今後長期的に考えているテーマでもあります。
古典に関しては、竹内先生の薫陶をうけたところは多いです。芸術は何となくです。笑
最近は、「真・善・美」ということに尽きるなーと思いながら生活しているので、そういう意味では芸術や古典は、常にこの辺りをテーマにしている気がします。
是非今後ともブログ遊びに来てください。哲学的なところに興味の関心があるといえば聞こえはいいですけど、単なる妄想を書き連ねているだけであることも多いです。笑
行き当たり、興味深く拝読しました。
世間を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば 山上憶良 (巻5・893)
先生はやさしを解説なさっていらした。
ありがとうございました。
はじめまして。
竹内先生はNHKとかに出てらしたんですかね?
竹内先生のように、知の巨人でありながら人格的にも尊敬できる先生に、もっとテレビに出て欲しい気もするし、テレビの意味不明な文脈に汚されてほしくないという気持ちもある、複雑な感じです。NHKは硬派ですが。。
<やさし>も、別の新書で書かれていますよね。
日本人のもともとのやまとこばって、生物の進化みたいなもので、何か鋳型のような原型から出発して、時代や人で変形されながら伝わっているものだし、すごく興味深いです。
そのやまとことばの延長上にある日本語というものを、否が応でも使っているわけですからねぇ。
コメントありがとうございました。
録画してみています。漢詩も毎朝録画します。
http://www.nhk.or.jp/manyoushuu/bangumi/index.html
ご多忙なのに、
ところでいなばさんは緻密な文章を書かれますね。
息子も医師で、多忙ぶりを知っているので、驚嘆しています。
日めくり万葉に出てるのですね。
今度、自分も録画して見てみます。
竹内先生は、あらゆる日本の古典に造詣深くて、いつも驚愕していました。
医師の仕事も、もっと自分の時間あれば、医学論文以外にもっと本を読めるのになぁと思いつつ日々過ごしています。
文章書くと、自分の考えがまとまるので、細菌はなんとか書くようにしてます。ほとんど意地のようなものです。
自分の中で「忙しい」っていう言葉は禁止用語にしているので(言葉の呪縛につかまるので)、なんとか時間作りながら書いてます。
ブログ以外にも、Twitterにも毎日のように書きなぐったりもしてます。inainabaって名前です。