日常

山から都市へ

2009-07-22 12:51:05 | 生活
山から都市へ降りてきました。


<その1 曲線のこと>

文明化された都市に来て、人工的な世界は直線とか直角の世界感が多いことに気づく。
自然は全てが曲線だし、真っ直ぐなものなんて自然界にほとんどなかった。
だから、動きも3次元的で立体的な動きになる。

曲線の世界に合わせて、自分のこころやからだも曲線へと変化していく。


<その2 生きること>

自然の中って、人間は基本的に生きようとしなければ容易く死んでしまう。

暑いや寒いとか、食べものとか水とか、雨よけとか風よけとか。
生きようと能動的に働かないと、圧倒的な自然の前で人間はあっけなく死んでしまう。

そして、それは人間が自然に打ち勝とうと思って解決する事柄ではない。

意識的に生きようと自分が思うのが最初ではなくて、原始的な生命体そのものが人間のからだやこころに働きかけてきて、結果として一人の人間が生きようと動き出したり、生きようと思いはじめたりするだけに過ぎないような、そんな感じがします。

最初に「からだ」が「生きよう」と動く。その後、「こころ」が「生きよう」と理由づける。


その働きは、生命体自体が持つ生きることへの肯定感のような、根源的な働きや方向性や大きさや太さや流れのようなものなのかなぁ。

「生きるとは、生きることである」みたいな同語反復に戻るって言うのは、それ自体が肯定するってことなのだろうか。


都市化された文明社会では自殺者が多くて、自然の中ではいつでも死ねるのになかなか死のうとしないというところは、人間の自意識や死生観を考える上で大事な気がします。



<その3 受け入れること>

あと、山をそぞろ歩きしながら3人で雑談した『受け入れる』ことに関して。

今回は4日のうち1日しか晴れがなかったけど、晴れか雨かっていうのは人間の都合で作り出した概念でしかなくって、自然からすると雨だったり晴れだったりするのって、単に息を吸ったり吐いたりしているだけの営みに過ぎない気がする。

だから、そんな自然の体内に入っていく時、そんな自然を無条件に受け入れないといけない。


雨なら雨を。寒いなら寒いを。暑いなら暑いを。

人間の都合や尺度で考えても何の意味もなくて、からだとこころで自然そのものを受け入れて、自分が自然の部分かつ全体として、思考しながら動いて行く。

そんな領域でこそ、自分のこころやからだの奥深いところが呼び起こされる。


<その4 医療のこと>

山の上でもボランティアの診療をしてきたから、仕事から離れたわけではないかもしれないけど、個人的には医の原点って山とか自然の中にあると感じている。


少しだけ医学の経験があって、少しだけ医学を知っている人がいる。
そこに、痛かったりだるかったり血が出てとまらなくなったり、色んな困っている人がいて、その困っていることに合わせ、自分の雀の涙ほどの知識や経験からできる限り知恵を出し合う。

「こうすると、元気になるかもしれませんよ。もしよければやってみましょうか。」という感じ。
基本的にはそういう無償の気配りのような延長でしかない。

だから、仕事した感覚より、人の役に立てたっていう感覚の方が強かった。


・・・・・・・・・・

そんな感じで、自然は良かったー。山も良かったー。


そういうことで、なんとなくダラダラと山の写真もアップしてみます。

















今年は涸沢直下まで雪が残っていた。






































下山後の明神辺りで食べたきのこ蕎麦は美味かったー。

6 コメント

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山きれい! (maki)
2009-07-23 10:34:09
無事の帰還、何よりです。
雨が降ったり、何かと大変だったみたいだけれどもこの写真を見る限り少しの晴れ間の景色は最高だね!
ご一緒できずかなり残念でした。
次は絶対一緒について行かせて!!

山を登った時には自分が生き物であることを強く実感するよね。
ただ命をつなぐために水やカロリーが必要なこと、自然の中では絶対的に小さい自分であること、重力というものを意識すること。
でも、動物たちはどうかわからないけど雄大な自然を見たときにそれに圧倒されると同時に”何とも美しい”と感じるのは、人間に結構特有なのかもね。
また、土産話を聞かせてくださいな。
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山は甘くないけどいいよねー。 (いなば)
2009-07-24 08:48:31
>>>>>>>>>>>
maki様
>>>>>>>>>>>
北海道トムラウシ山で、ちょうど遭難事故があった時期だっただけに、初心者も連れてたんで結構注意しました。

山の天気とか雨とか晴れとかって、体感してない人にはあそこまで変化するって想像すらできないから(ときどき真夏でも氷点下になることがある)、あとは危機回避能力ですね。常に危険を想定しながら行動するってとことか。早めに危険を察知して早めに対応していかないと、すべてが後手後手にまわる。

ああいう遭難事故も、とにかく危ない危ないを連呼するだけじゃなくて、どこでどういう判断をするのが適切だったのか。そういう詳細なFeedbackが大事です。

こういう都市化されたとこにいて、ガイドの判断が悪いとか勝手に言うのは誰でもできるんだけど、そのときの状況に自分がなりきった上で考えていかないと、単に文句言ったり不安を煽るだけで終わっちゃうからねー。


ところで涸沢診療所への登山の件。
4日のうち1日だけ晴れて、晴れ間の景色は美しかった!
この景色こそ、まだ体感してない人に見せたかったんだよねー。

是非とも、今年の秋の紅葉とか来年の夏に行きましょー。

山の中での紅葉ってほんと奇麗なんだよねー。
あれ見たら人生観変わるなー。


雄大な自然って、一様に人間は圧倒されるし、畏怖の念を持ちますね。
皆既日食もそうでしょう。

普段、自然とかに何の興味もない人でさえ、あの圧倒的な世界観に呆然となる。
太陽が隠れるだけで世界は闇になるし温度は下がる。

普段太陽とか自然の存在を意識してない人でも、否応なく意識するよねー。



ま、都市化された文明社会にいると忘れがちだけど、僕は自然ほど偉大な芸術家はいないって、自然の中に飛び込むたびに思います。
もう理屈とか理性を超えて、圧倒的な世界観なんだよなー。
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刺激 (Shin.K)
2009-07-27 00:16:40
ナビありがとう!

おかげで大自然の中で刺激を全身に受けることができました。
それは、一つは感動という刺激だったし、もう一つは高山病という身体への刺激でした。

よく大自然の中に無防備な人間が踏み入れると数日も生きてはいられないと聞きますが、その通りだなあと思いました。今回は、念入りに準備して装備もして生きましたが、それでも体は敏感に反応しますね。
最初の一日は、息も苦しくて頭も痛かったけれど、二日目からは随分平気になりました。

雨がやんで晴れ渡った山の景色の美しかったこと。晴れてると、雨具がなくて川や風の音もしっかり聞こえました。

透き通ってエメラルドグリーンの川の流れ、木漏れ日をそぞろ歩きしたことが目を閉じると再現されます。
その一方で先週のこととは思えず、少し前のことに思えてしまう。(今は都市化の真っ最中の街にいることもあるけれど)

本格的な登山は初めてだったこともあり、都会とは違う世界があることを知ることができました。
ぼくも機会があれば、紅葉の季節にも登ってみたいです。
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濃い緑 (いなば)
2009-07-28 11:04:50
>>>>>>>>>Shin.K様
山って晴れて天気だとすごく気分よく登れるんだけど、やっぱりそれだと山を知ったことにはならなくて、さっきまで晴れ渡っていた天気が、一転して大雨になったり、はたまた雪が降ったり、そんな非情な面も見せてくるのですよね。
美しさだけだと山をなめちゃう危険性があるし、恐ろしさとか厳しさだけだと山を嫌いになる恐れがある。だから、登山のときにどっちも体験できるのが一番なんだけど、今回は雨嵐あり、晴天ありで、そういう意味では山の全体性に近い感じを体験できたよねー。

テント泊だと、食事、寝袋、テント・・・って持ち物がさらに増えるし、さらに根性いるんですけどね。病気になっても意地でも這ってでも下山しないといかんから。そこが登山の厳しいとこです。
行けば終わりじゃなくて、行って帰ってきて終わりだしね。


それにしても、やはり自然は美しかった!
緑も、都心で見る木とはぜんぜん違って、ものすごく濃い緑だよね。色が全て迫ってくるような色してた気がする。空の青さも、水の青さもね。


先週登山して今週から病院で職場復帰してますが、山と比べてあまりに科学技術が進歩してて、この文明化社会に頭がクラクラしてきます。笑
この都市化された世界に慣れるのに、一週間くらいかかるかなー。
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山~山~ (ともこ)
2009-07-29 23:32:43
(復活の呪文を唱えました)
山!本当に美しい・・・・絵画のような鮮やかな色だね。この山の緑と空の青さのコントラストが本当に美しい。This is something I'm waiting to see.

あー、いけなくて本当に残念!!!!!!!!

みんなの感想を聞いて追体験しているけれど、山は、自然は、雄大であるが故に怖さもある。温かさがありながら厳しさがある。母のようで、父のような、自分を抱いてくれるけれど、突き放しもする、強く儚い自然。人間の力を超えた偉大な力を感じる。

それが山の大きな魅力の1つだろうね。

「人間の都合や尺度で考えても何の意味もなくて、からだとこころで自然そのものを受け入れて、自分が自然の部分かつ全体として、思考しながら動いて行く。

そんな領域でこそ、自分のこころやからだの奥深いところが呼び起こされる。」

これには打たれたね。部分と全体、からだとこころ、閉じると開くといういなばさん3大テーマがガンガン響きます。+あわいで4大テーマかな?

自然の中にいてしばらくすると、その生活を常にしていたかのような感覚に襲われます。
自然と自然に生きる。

自然に、というのが生き方の一つの形容詞(副詞?)になっているほど、現代は自然でいられていないのかもしれない。

自然。

自=自ずから
然=ありのまま。そのとおりに。

自然。

ちょっとした遠出でもいいから、行けるといいね。
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自然、Nature、本性 (いなば)
2009-07-30 10:09:06
>>>>>>>>>>>>ともこ様

「部分と全体、からだとこころ、閉じると開く」
そして、その2つの言葉の間に存在する「あわい」の領域。

この辺は今一番興味深く掘り下げているテーマです。
そして、その根源に近いところを自然にいくと感じます。

自然の意味を調べると、
*********************
1:人為が加わっていない、あるがままの状態、現象、およびそれによる生成物
2:1の意味より、山、川、海など
3:1の意味より、人間を除く自然物および生物全般
4:1の意味より、ヒトも含めた天地・宇宙の万物
5:意識(意図)しない行動
6:不思議だったり、不可解だと思われることがない事。
*********************
って多様な意味がある。

英語・フランス語の「nature」は「その存在に固有の性質」をあらわす意味で、日本語で言えば「本性(ほんせい)」に近いらしいね。

自然を「じねん」と読んだときとは違った意味を帯びて、『万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではない』とする無因論のことで、仏教の因果論を否定する言葉のようで。


ともこさんがいう様に、自然の自はおのずからで、然とはそのようにさせるという言葉で、いづれも人の側のはからいではないという事を意味しているんでしょうね。

親鸞聖人の「自然法爾の事」(じねんほうにのこと)とかは、そんな心境と、阿弥陀仏への絶対他力というとこをミックスさせたものかもしれない。親鸞聖人の中での阿弥陀仏は「光」に近いものかもしれないし。(青木新門「納棺夫日記」(文春文庫)を読んでそう思った)


ともこさん、体の線が細いけど登山とか大丈夫かなー。少し心配~。
まずはアウトドア程度から?でも、登山のとき思うのは、最終的には根性とか生命力とか精神力とかって、女性のほうが強いのよねー。男のほうがすぐダメになる印象あります。人は見かけによらないものです。
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