もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。「天正伊賀の乱」から8ヶ月後1582、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだ。信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。
甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは1634で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。戦国の忍者たちは火術に長けていたことから鉄砲の名手も多く、江戸では鉄砲隊の職などで活躍していた。しかし、江戸幕府の身分制と世襲制の中で、忍術を伝える必要も学ぶ必要もなくなって、世代の交代と共に忍者は姿を消していく。