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葛城氏再考・葛城殲滅

2012年09月17日 | 大和王朝期

 安康天皇を殺害した眉輪王葛城が匿った罪により一気に葛城円を倒す口実ができた。翌日幼武皇子に流れが大きく傾くと大伴、物部、平群をはじめ、周りの小豪族も援護の兵を集め1000人を上回る軍兵ができあがったのである。葛城を倒して次期大王になるときが迫ってきた。一気に葛城を襲った連合軍は、葛城円の屋形を囲み、勝敗は歴然としていた。円は最後に交換条件を出して命乞いをしたようであるが、何の意味もない申し出は一笑に付されている。その後葛城円は刀子を喉に刺して自決した。葛城円の娘・韓媛はしばらく石のように心を閉ざしていたが、身狭青の恋人との交流でやがて口を開くようになった。幼武皇子が韓媛との子を後の大王にすると、葛城の一言主神社に誓ったころから、寵愛する妃となったのである。大伴、物部、平群、和珥をはじめ諸豪族が皇子を大王に推したのは言うまでもない。いままでの功績を称え、平群には大臣を、大伴・物部には大連を与えた。これが姓制度の発端といっていい。宮廷内部には王権の属する記録をつかさどる文や、食事に関する管理を行う膳などの専門氏族をおき、財政に関しては伴造として仕えた。これは後の官司制度への幕開けといっていい。雄略天皇が古代の中でも画期的な大王として語られる所以はこういうところにあるのである。

 雄略天皇として王権強化を図り、東国、毛野など支配下においたが吉備国だけは別であったことが、吉備の造山古墳(全長360mの日本四位の前方後円墳)から伺える。瀬戸内沿岸には最大の船団を有し朝鮮半島との交易により財は豊かであった。その吉備は葛城と姻戚関係を結んでおり雄略天皇をよく思うはずはない。後に新羅征伐に情熱を燃やしたとき新羅と通じた吉備上道田狭が謀反をはかっている。雄略には韓媛との間に生まれた白髪皇子という悩みの種もあった。生まれながらにして虚弱体質で大王の器ではなかった。正妃・若日下部命は亡くなり、その後韓媛も亡くなり老いた自分を感じていた頃、吉備稚媛との皇子・星川稚宮皇子に謀反の疑いがかかった。大王になる器のない白髪皇子にかわって擁立しようと意を通じる氏族を動員しようとした後、物部目と大伴室屋は、星川稚宮皇子親子を殺害した。その直後、雄略天皇は亡くなった。後に王位について白髪皇子には妃も子もなく王家の空白の次期が生じる。播磨にいた市辺押磐皇子の二皇子が顕宗天皇、仁賢天皇として受け継ぐが存在感は薄く、その後の継体天皇が新王朝を樹立したのである。

吉備国権勢誇りの象徴である造山古墳

 

 造山古墳は宮内庁管轄下にはおかれていないので古墳内には自由に立ち入ることができます。丘陵部は散策ができるように手入れされ、墳頂部に置かれた石棺も間近に見れます

 

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