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大河清盛・海賊と村上水軍

2012年02月12日 | 平家物語

 1135年、平忠盛が中務大輔に任じられ、瀬戸内海の海賊追討では清盛は初陣を果たした。海賊はもともと地元の武士であったが、飢饉などにより生活は困窮したために日宗貿易船を襲うようになる。平安時代末期になると瀬戸内は村上水軍(瀬戸内水軍)が支配するから、平家とともに海賊の討伐に参戦した水軍は村上水軍となんらかの関わりがあるように思える。 瀬戸内水軍村上氏の始祖は村上定国といわれ、定国から南北朝時代に活躍した義弘までを「前の村上水軍」といい、義弘のあとの代から「後の村上水軍」と称される。そして村上水軍は後に能島・来島・因島の三家に分かれる。能島・来島・因島の三家の時代は戦国時代であるが、瀬戸内水軍村上氏の始祖・村上定国の時代が丁度、平忠盛・清盛の時代なのである。そして当時源氏の棟梁として名を馳せていた源為義と、水軍の祖・源仲宗はお互いに、曽祖父の源頼信まで系統を辿ることができる。源氏の棟梁・為義は海賊の討伐に直接関与することはできなかったが、平忠盛は平家の配下として、源氏の支流であり村上水軍の祖を参戦させたことは大いに考えられる。この仮説は何の論拠も無い私説であるが、このようなことを思いながら歴史を見るのは面白いのである。 

 水軍村上氏の出自は、清和源氏頼信流と伝えられているが、源頼信の子頼清に始まったとも、仲宗の子盛清の代に村上を称したともいわれている。ところで、頼信・頼光といえば、「ただのまんじゅう」と後に言われた源満仲の子であり、藤原氏の栄華を極めた藤原道長に仕えていた武士である。この系統は以降、藤原頼通家の侍所別当も務めるなどして藤原摂関家と深い関わりを持った。そして源頼清の孫であり源仲宗の子の盛清は父仲宗や兄弟とともに白河上皇に仕えていたが、上皇を呪咀したことが顕われ、仲宗は周防、惟清は伊豆、顕清は越前、盛清は信濃に配流となった。(藤原宗忠の『中右記』に記されている) 盛清が流された地は更級郡村上郷であったと思われ、のちに郷名から村上を称したとも考えられる。 盛清らが配流されたのちの村上氏は、「保元の乱」に村上為国が崇徳上皇方に馳せ参じ、ついで、村上信国が木曽義仲にしたがって京都警護の任にあたっている。 源平合戦においては、村上次郎判官代基国が「一の谷の合戦」に活躍したことが『平家物語』に記されている。 為国とその子らの時代に村上氏は、のちの繁栄の素地を築き、為国の弟・定国は保元の乱後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出し、「平治の乱」ののち、父祖の地越智大島に上陸し、瀬戸内村上氏の祖になったとする。ちなみに、村上の名が最初に現れるのは、天慶三年(940)から翌年にかけて、藤原純友の乱に伊予越智河野氏のもとで従軍した記録である。ついで現れるのは、源頼義が「前九年の役(1051)」ののちに伊予守として赴任してきたとき、甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされる。この頃村上氏は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていたのだという。そして、仲宗の子顕清のとき罪を得て一族は、信濃国更級郡村上郷など各地に配流されたのである。これによれば、村上仲宗の代においてすでに瀬戸内に勢力を築いていたことになる。

清和  968-1048
源満仲┳頼信┳頼義━義家━為義━義朝━頼朝
(多田)┗頼光┃995-1073 
      ┣頼清━仲宗┳惟清(伊豆へ配流)         
      ┗頼季(配流)┣顕清┳宗清
            ┣仲清┣為国 ┳信国(木曾義仲側)
            ┗盛清┃(崇徳)┣泰遠
            (配流)┃   ┣安信
               ┃   ┗明国
               ┃(伊予村上氏)        (能島村上氏)
               ┣定国┳清長━□□□□━義弘┳義顕━□□━武吉━景親
               ┗業国┗正季        ┃(来島村上氏)
                             ┣顕忠
                             ┃(因島村上氏)
                             ┗顕長

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