うちの息子が、岩手県陸前高田市へボランティアに行ってました。感想を書いてくれたので、本人の了解を得て、ここにアップします。
なお、写真を撮って来ています。少しですけれど、こちらにアップしております。←クリック
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岩手県でのボランティアを終えて
今回、岩手県へのボランティアに参加するにあたり、下調べとして現地の状況を文章や写真である程度確認し、理解したつもりでいた。しかし実際に目の当たりにした光景によって、その理解はすぐに上書きされることになった。
被害にあって更地になった区域は目の届く範囲を大きく超え、かろうじて残っていた建物も、人を受け入れるという意味での建物の姿とは程遠く、ただそこにあるだけの凄愴たるオブジェと化し、積み上げられた瓦礫の山も実際の高さ以上の威圧感を放っていた。
しかし、酷い状況でであることは間違いないが、瓦礫は繊維、木材、泥、金属、ゴム等種類分けされて集められていたりと、災害直後のと比べればかなり整理されており、それなりに復旧、復興のための準備は進んでいるように見えた。
同乗していた市議が言うには、泥はセメントの原料として使い、エコセメントという名前でかなりの人気になっているようだ。金属、とりわけ鉄については最近価値が上がっているようで、有償処分(買い取ってもらうこと)をしているらしい。
それでもその他多くのものは焼却処分をしなければならず、その焼却の為の施設は不足しているようだ。今のままのペースでは必要なものをすべて償却するのに2-30年の期間が必要であり、増設するにあたっても、資金面や住民の同意等、壁があるようだった。
この被災地視察を通して私が思うことは、まず「百聞は一見にしかず」ということだった。
近頃ではインターネットの発達によって、家にいながらでも全国の状況を文章、画像、果ては動画に至るまでをして知ることはできるが、最初にも書いたが、やはり自分の目で実際に見た光景にはかなわなかった。間近で写真も数多く撮影したが、それもやはり直接見る光景には遠く及ばず、現地の悲惨さを伝えるには不十分だろう。
もうひとつ、行政の対応の遅さ、お粗末さである。民家がすべて撤去されているのに対し、公民館、病院などの公的な建物の撤去はされていなかった。理由を聞けば、このような場合の建物の取り扱いについて具体的な取り決めがされておらず、手の出しようがないのだとか。6月には撤去が始まるそうなのだが、既に状況が起こってから1年2ヶ月。行政の行動が迅速だとは到底言えないだろう。
2日目には実際に被災地の家庭を訪問し、現在の生活の状況や要望などを聞き取り市議、県議に届ける、いわば行政への橋渡し的な作業を行った。過去に何度か同じようなことも行っていたこともあって、現地の方々には警戒心ももたれずに温かく迎えていただけた。
少々失礼に当たるかもしれないが、どのお宅を訪問しても迎えてくれたのは老人が多かった。話をした印象としては、やはり岩手であるがゆえに方言が強く、なかなか話の内容を正確につかむことは困難だったが、家族を失ってしまっていたり、離れや車を流されてしまったりと、なかなかに悲惨な状況の方が多かった。しかし、皆一様に明るく振舞っていて、私たちに差し入れをくれる方も何人かいた。
そこで得られた意見として、寄り合い所のようなものがなくなってしまったために地域での付き合いが希薄になってしまったということや、支援、復興についての情報がまったく入ってこず、置き去りにされているということなどがあった。特になるほどと思ったことは、行政からの将来の展望や方針が示されなければ、自分たちも身動きが取れない。これはボランティアに関しても言える事で、今何かしてもらったとしても、今後の方針如何ではそれが意味を成さなくなる可能性があるから、今何かを頼むのは難しい。という意見だった。これらの意見、要望は書類にして行政に届けたので、今後改善されることを望みます。
そして私が一番衝撃を受けたのは、「私らは戦後の何もない時代を生き抜いてきたからね。この程度ならなんでもないよ。」とからから笑うおばあさんだった。私ではまったく理解の及ばない感覚なだけに、その真意は図りかねるが、その精神力の強さにはただただ敬服するのみだ。
この2日間の活動、ボランティアと呼べるほどのことは実質2時間ほどではあったが、私にとって得るものはそれなりにあったと思う。少なくとも世間ではほとんど語られなくなった東北被災地についての意識を、改めて持ち直すことができた。これから先、この経験を生かせるかどうかは分からないが、もし誰かにこのことを話す機会があるとしたならば、それを聞いた人に募金箱の前で立ち止まらせる程度には意識を変えられるように、自分の考えを練っておきたいと思う。
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岩手県でのボランティアを終えて
今回、岩手県へのボランティアに参加するにあたり、下調べとして現地の状況を文章や写真である程度確認し、理解したつもりでいた。しかし実際に目の当たりにした光景によって、その理解はすぐに上書きされることになった。
被害にあって更地になった区域は目の届く範囲を大きく超え、かろうじて残っていた建物も、人を受け入れるという意味での建物の姿とは程遠く、ただそこにあるだけの凄愴たるオブジェと化し、積み上げられた瓦礫の山も実際の高さ以上の威圧感を放っていた。
しかし、酷い状況でであることは間違いないが、瓦礫は繊維、木材、泥、金属、ゴム等種類分けされて集められていたりと、災害直後のと比べればかなり整理されており、それなりに復旧、復興のための準備は進んでいるように見えた。
同乗していた市議が言うには、泥はセメントの原料として使い、エコセメントという名前でかなりの人気になっているようだ。金属、とりわけ鉄については最近価値が上がっているようで、有償処分(買い取ってもらうこと)をしているらしい。
それでもその他多くのものは焼却処分をしなければならず、その焼却の為の施設は不足しているようだ。今のままのペースでは必要なものをすべて償却するのに2-30年の期間が必要であり、増設するにあたっても、資金面や住民の同意等、壁があるようだった。
この被災地視察を通して私が思うことは、まず「百聞は一見にしかず」ということだった。
近頃ではインターネットの発達によって、家にいながらでも全国の状況を文章、画像、果ては動画に至るまでをして知ることはできるが、最初にも書いたが、やはり自分の目で実際に見た光景にはかなわなかった。間近で写真も数多く撮影したが、それもやはり直接見る光景には遠く及ばず、現地の悲惨さを伝えるには不十分だろう。
もうひとつ、行政の対応の遅さ、お粗末さである。民家がすべて撤去されているのに対し、公民館、病院などの公的な建物の撤去はされていなかった。理由を聞けば、このような場合の建物の取り扱いについて具体的な取り決めがされておらず、手の出しようがないのだとか。6月には撤去が始まるそうなのだが、既に状況が起こってから1年2ヶ月。行政の行動が迅速だとは到底言えないだろう。
2日目には実際に被災地の家庭を訪問し、現在の生活の状況や要望などを聞き取り市議、県議に届ける、いわば行政への橋渡し的な作業を行った。過去に何度か同じようなことも行っていたこともあって、現地の方々には警戒心ももたれずに温かく迎えていただけた。
少々失礼に当たるかもしれないが、どのお宅を訪問しても迎えてくれたのは老人が多かった。話をした印象としては、やはり岩手であるがゆえに方言が強く、なかなか話の内容を正確につかむことは困難だったが、家族を失ってしまっていたり、離れや車を流されてしまったりと、なかなかに悲惨な状況の方が多かった。しかし、皆一様に明るく振舞っていて、私たちに差し入れをくれる方も何人かいた。
そこで得られた意見として、寄り合い所のようなものがなくなってしまったために地域での付き合いが希薄になってしまったということや、支援、復興についての情報がまったく入ってこず、置き去りにされているということなどがあった。特になるほどと思ったことは、行政からの将来の展望や方針が示されなければ、自分たちも身動きが取れない。これはボランティアに関しても言える事で、今何かしてもらったとしても、今後の方針如何ではそれが意味を成さなくなる可能性があるから、今何かを頼むのは難しい。という意見だった。これらの意見、要望は書類にして行政に届けたので、今後改善されることを望みます。
そして私が一番衝撃を受けたのは、「私らは戦後の何もない時代を生き抜いてきたからね。この程度ならなんでもないよ。」とからから笑うおばあさんだった。私ではまったく理解の及ばない感覚なだけに、その真意は図りかねるが、その精神力の強さにはただただ敬服するのみだ。
この2日間の活動、ボランティアと呼べるほどのことは実質2時間ほどではあったが、私にとって得るものはそれなりにあったと思う。少なくとも世間ではほとんど語られなくなった東北被災地についての意識を、改めて持ち直すことができた。これから先、この経験を生かせるかどうかは分からないが、もし誰かにこのことを話す機会があるとしたならば、それを聞いた人に募金箱の前で立ち止まらせる程度には意識を変えられるように、自分の考えを練っておきたいと思う。