今月中旬に積もった雪は消えました。根雪はまだ先のようです。
気温の差が激しい時期ですね。宇野ゆかりの皆さま、体調管理に
お気をつけください。
築山順子(つきやま・としこ)さんについては、以前の「ルーツだより」で
その生涯などについて紹介しましたが、ここで簡単に振り返っておきます。
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築山順子
緒方夫門の長女。慶応元年(1865年)~大正6年(1917年)(推定)
早くに夫を亡くし、2人の子どもにも先立たれる。熊本の尚絅高女の
料理の教師、寄宿舎の舎監を務める。「家庭実用 最新和洋料理」
(明治37年)を著す。子宮癌で死去。万日山の築山家の墓に葬る。
築山家は佐世保の遠縁の保次郎が継いだ。
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緒方夫門さんには3人の子どもがいましたが、長女が順子、次女が宇野家
に嫁いだキツ、長男が惟一郎でした。以前から気になっていたのは、この
「築山家」とはどんなお家だったのか、ということです。緒方家と宇野家の
縁が、お互いに熊本藩の郡代を務めていたことにあったように、築山家とも
同じ縁だったのではないか…そんな推測をしています。
だとすると、熊本藩の侍帳に載っているかもしれないと思い調べてみました。
「築山家」は6家あり、家格・経歴などから「築山與次郎」ではないかと推定
しました。江戸末期から明治初期に小国・久住郡代、宇土郡代を歴任して
います。同じ時期、緒方夫門さんも宇土郡代でした。
「緒方の屋敷は広く、楓の頃は築山伯母様の勤務していらした尚絅高女の
先生全部を楓風会にお招きするほどでした」(松沢まきさんの手記)とあるように
緒方家での楓風会の様子だと思います。一番右端の座っているのが築山順子
さんです。何で正面を向いていないのでしょうね。おそらく明治末か大正初期
の写真かと思います。(市原晶子さん提供)
気温の差が激しい時期ですね。宇野ゆかりの皆さま、体調管理に
お気をつけください。
築山順子(つきやま・としこ)さんについては、以前の「ルーツだより」で
その生涯などについて紹介しましたが、ここで簡単に振り返っておきます。
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築山順子
緒方夫門の長女。慶応元年(1865年)~大正6年(1917年)(推定)
早くに夫を亡くし、2人の子どもにも先立たれる。熊本の尚絅高女の
料理の教師、寄宿舎の舎監を務める。「家庭実用 最新和洋料理」
(明治37年)を著す。子宮癌で死去。万日山の築山家の墓に葬る。
築山家は佐世保の遠縁の保次郎が継いだ。
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緒方夫門さんには3人の子どもがいましたが、長女が順子、次女が宇野家
に嫁いだキツ、長男が惟一郎でした。以前から気になっていたのは、この
「築山家」とはどんなお家だったのか、ということです。緒方家と宇野家の
縁が、お互いに熊本藩の郡代を務めていたことにあったように、築山家とも
同じ縁だったのではないか…そんな推測をしています。
だとすると、熊本藩の侍帳に載っているかもしれないと思い調べてみました。
「築山家」は6家あり、家格・経歴などから「築山與次郎」ではないかと推定
しました。江戸末期から明治初期に小国・久住郡代、宇土郡代を歴任して
います。同じ時期、緒方夫門さんも宇土郡代でした。
「緒方の屋敷は広く、楓の頃は築山伯母様の勤務していらした尚絅高女の
先生全部を楓風会にお招きするほどでした」(松沢まきさんの手記)とあるように
緒方家での楓風会の様子だと思います。一番右端の座っているのが築山順子
さんです。何で正面を向いていないのでしょうね。おそらく明治末か大正初期
の写真かと思います。(市原晶子さん提供)