日中は晴れていましたが、夕方から冬型の気圧配置が強まり、雪が舞い始めました。
明日にかけて、またひと荒れになりそうです。先日は福岡でも積雪になったとか。宇野ゆかりの
皆さま、どうぞ暖かくしてお過ごしください。
NHKラジオの「深夜便」に時々付き合っています。先日、作業をしながら聞いていたら、五木寛之
さんの「歌の旅びと」(アンコール放送)が流れてきました。五木さんが各県のゆかりの歌や
エピソードを紹介するのですが、たまたまでしょうか、山形県と熊本県が2日連続で紹介されて
いました。どちらも宇野家にとって縁が深い県なので、思わず耳をそばだてていました。
山形県と熊本県、今さらながらですが、歌も含めて様々な文化が発展していたことが紹介されて
いました。五木さんにとっても思い入れが深いようですね。岸洋子さん、渡辺えりさん、八代亜紀さん、
水前寺清子さんなどの歌が流れました。八代さんの「花水仙」、いい曲ですね。懐かしかった。
各県の風土も紹介されるのですが、五木さんは熊本の気風のひとつに「進取」を挙げていました。
外国などへの移民の多さに着目されてのようです。ただ、これはどうでしょうか? 熊本の人々に
他県より進取の気風が強かったとも言えない側面もあります。
北海道の屯田兵の出身地を調べてみると、東北・北陸からの入植者が多いのは勿論ですが、意外に
九州からの入植者数も無視できません。例えば、総数7337名(戸主数)のうち、熊本県出身者数は
223名になります。家族を含めると1000名を超えていたでしょう。篠路・新琴似兵村を中心に入植
しました。篠路兵村では、220名中46名と、最も多くなっており、篠路の基礎を築いたのは熊本人と
言ってもいいかもしれません。
屯田兵に応募したのは、進取の気風が強かったからではなく、多くは郷土での生活に窮していたから
でしょう。薩摩・長州の藩閥政治が進行する中で、肥後出身者は冷遇されました。また、西南戦争では
一部の人々は「賊」とされました。さらには「肥後もっこす」とも言われるような、こだわりの気風も
あったかもしれません。安易に時代に流されないという気質です。屯田兵と同様に、海外への移民事情
の根底には、生活の窮乏があったものと思います。
明治が大正に代わるとき、宇野貞誠さんは熊本を出て、酒田・中頓別へと流れました。その理由は定か
ではありませんが、やはり熊本での何かの生活の事情があったのでしょう。それにしてもいつも思うのは
熊本弁と庄内弁での会話はどうだったのだろうということです。うまく意思疎通ができていたのでしょうか。
不思議です。でも案外、自分にはない気質に惹かれるということもあるようですから、言葉も含めて、お互い
に違った部分に魅力を感じていたのではと思ったりもしています。
市内を流れる豊平川の様子です。まだまだ真っ白ですが、川面の光にはどこかしら春を感じます。
明日にかけて、またひと荒れになりそうです。先日は福岡でも積雪になったとか。宇野ゆかりの
皆さま、どうぞ暖かくしてお過ごしください。
NHKラジオの「深夜便」に時々付き合っています。先日、作業をしながら聞いていたら、五木寛之
さんの「歌の旅びと」(アンコール放送)が流れてきました。五木さんが各県のゆかりの歌や
エピソードを紹介するのですが、たまたまでしょうか、山形県と熊本県が2日連続で紹介されて
いました。どちらも宇野家にとって縁が深い県なので、思わず耳をそばだてていました。
山形県と熊本県、今さらながらですが、歌も含めて様々な文化が発展していたことが紹介されて
いました。五木さんにとっても思い入れが深いようですね。岸洋子さん、渡辺えりさん、八代亜紀さん、
水前寺清子さんなどの歌が流れました。八代さんの「花水仙」、いい曲ですね。懐かしかった。
各県の風土も紹介されるのですが、五木さんは熊本の気風のひとつに「進取」を挙げていました。
外国などへの移民の多さに着目されてのようです。ただ、これはどうでしょうか? 熊本の人々に
他県より進取の気風が強かったとも言えない側面もあります。
北海道の屯田兵の出身地を調べてみると、東北・北陸からの入植者が多いのは勿論ですが、意外に
九州からの入植者数も無視できません。例えば、総数7337名(戸主数)のうち、熊本県出身者数は
223名になります。家族を含めると1000名を超えていたでしょう。篠路・新琴似兵村を中心に入植
しました。篠路兵村では、220名中46名と、最も多くなっており、篠路の基礎を築いたのは熊本人と
言ってもいいかもしれません。
屯田兵に応募したのは、進取の気風が強かったからではなく、多くは郷土での生活に窮していたから
でしょう。薩摩・長州の藩閥政治が進行する中で、肥後出身者は冷遇されました。また、西南戦争では
一部の人々は「賊」とされました。さらには「肥後もっこす」とも言われるような、こだわりの気風も
あったかもしれません。安易に時代に流されないという気質です。屯田兵と同様に、海外への移民事情
の根底には、生活の窮乏があったものと思います。
明治が大正に代わるとき、宇野貞誠さんは熊本を出て、酒田・中頓別へと流れました。その理由は定か
ではありませんが、やはり熊本での何かの生活の事情があったのでしょう。それにしてもいつも思うのは
熊本弁と庄内弁での会話はどうだったのだろうということです。うまく意思疎通ができていたのでしょうか。
不思議です。でも案外、自分にはない気質に惹かれるということもあるようですから、言葉も含めて、お互い
に違った部分に魅力を感じていたのではと思ったりもしています。
市内を流れる豊平川の様子です。まだまだ真っ白ですが、川面の光にはどこかしら春を感じます。