宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

映画「武士の家計簿」

2010-11-25 20:49:35 | 日記
  小春日和が続いた後、昨日、今日と寒くなりました。内陸部では
 氷点下になった所もあるようです。宇野ゆかりの皆さま、お変わりはありませんか?

 武士の実際の生活はどうだったのか、を知りたくて参考にした「武士の家計簿」。
 映画化されたようです。同名の原作(磯田道史・新潮新書)に基づいたものです。
 代々の加賀藩士であった猪山家。その8代目の猪山直之が主人公です。藩は違う
 ものの、江戸時代末の宇野家の生活を知る上で参考になるものと期待しています。

 見つかった古文書を解読した磯田氏によれば、当時の猪山家の年収は約1230万円、
 対して負債が約2500万円。年収の2倍以上の負債ができた理由は、前回の記事で
 簡単に紹介しました。他の武士同様、「身分費用」が大きな負担でした。この負債を
 どう返済したのか・・・その辺の方法は現代とは少し違うようです。

 武士の屋敷は、いわゆる「拝領屋敷」。今で言う「官舎」ですから自分で勝手に処分
 するわけにはいきません。土地(知行地)もそう。自分の領地であっても藩のもの。
 担保にするわけにもいきません。こうした状況ですから、武士にお金を貸すには、
 ある程度のリスクを覚悟しなければなりません。当然、利率も高く設定されました。

 原作によれば、猪山家はおもな家財道具を処分して返済にあてたようです。それで
 負債の半分を返し、残りは10年賦にしてもらいました。天保年間の話です。今なら
 自己破産に近い状態といったところでしょうか。これ以降の猪山家の質素倹約の
 生活は大変だったようですが、これから学んだことも多かった。幕末から明治にかけて、
 猪山家の生活はよい方向へ大きく変わることになります。子供たちに徹底した教育を
 施し、明治政府に出仕させたのです。

 「坂の上の雲」などで描かれたように、明治はよくも悪くも立身出世を目指した時代。
 学問を究めて博士を目指したり、「立派な」軍人になることを夢見たり、政治の世界
 に身を置き大臣のイスを争ったり・・・ある意味では努力次第で夢がかなう可能性が
 今より高かった時代かもしれません。今の学生などの就職難の原因・・・単なる不況
 で済まされない根深いものがあるような気がして、江戸や明治に学ぶことはたくさん
 ありそうに思います。

 映画「武士の家計簿」監督:森田芳光、出演:堺雅人・仲間由紀恵・中村雅俊・松坂
 慶子・草笛光子ら。12月4日公開。

  近くの公園です。だいぶ紅葉が進んできました。まだ積雪はありません。

 
 


発掘された「檜扇紋」

2010-11-18 20:51:09 | 日記
  先日、ドーンときた初雪・積雪以来、平地では本格的な雪がありません。
 今日は典型的な小春日和。日中は暖かいくらいでした。夏の異常な天候同様、
 冬も異変? 何となくそんな予感。各地の宇野ゆかりの皆さま、皆さまの地域
 ではいかがでしょうか。

 巣鴨に多く見られる檜扇紋については、前回簡単にご報告しました。高岩寺の
 寺紋に続いて、真性寺の寺紋も檜扇であることが分かりました。さらに興味
 深いのは、真性寺の境内から古い寺紋瓦が見つかったとの記事があったこと
 です。

 「としま遺跡調査会」による報告書「巣鴨遺跡たより」に、その記事はありました。
 江戸時代末から明治の初めにかけてのもののようです。精巧な細工が見られる
 素晴らしい「檜扇」です。当時の瓦職人の意気込みがうかがわれます。

 その画像を見ていて気になったのは、檜扇の檜板の数が「9」であること。今の
 家紋・寺紋は、ほんんど「8」です。これはどういうことでしょうか。現代になって
 変更されたのでしょうか。気になるところです。宇野家の家紋と細部で異なる点は
 あるものの、おおよそ同じです。

 なぜ巣鴨に檜扇紋が多いのか・・・二つのお寺さんにも伺いましたが、はっきり
 した由来は不明のようです。各地に散在する檜扇紋についてさらに検証する中で
 宇野家の紋の由来も見えてくるかもしれません。さらに探索を進め、何かご報告
 できるようにします。

  晩秋の中島公園。イチョウの落ち葉が目立つようになりました。

「おばあちゃんの原宿」の檜扇紋

2010-11-11 18:16:43 | 日記
  今朝まで激しい雨でしたが、午後からは晴れてきました。
 といっても最高気温はひとケタで寒いです。宇野ゆかりの皆さま、
 お元気でお過ごしでしょうか。

 家紋。若い人たちにはあまり縁がないかもしれませんが、ご先祖の
 ことを調べるのには有力な材料のひとつです。同じ家紋をもつ家
 どうしでは、過去に何らかのつながりがあったかもしれません。
 本家と分家、同じ郷土の同族、主従関係などなど・・・

 私たちの宇野家の家紋(定紋)は、ご存じのように「房付檜扇」。
 扇紋は珍しくはありませんが、房付檜扇はそれほど多くはあり
 ません。ある方の調査では、京都・山口・熊本・和歌山・高知
 などで比較的まとまって見られるようです。

 その房付檜扇をネット上で調べていたら、これを「寺紋」とする
 お寺があるという情報が目につきました。寺紋は家紋に相当する
 ものですが、どのお寺にもあるというものではないようです。

 東京都豊島区巣鴨の高岩寺。このお寺の寺紋が何と「房付檜扇」
 でした。宇野家の紋の由来と何か関係があるのでしょうか。この
 お寺の紋の由来はどうなっているのでしょうか。

 実際に現場で確認はしていませんが、その画像を見る限りでは、
 宇野家の紋とまったく同じように見えます。興味がおありの方は
 ネット検索(ウィキペディアなど)でご確認ください。

 巣鴨の商店街はお年寄りが多く集まり「おばあちゃんの原宿」と
 呼ばれているようです。女性が多いのですが、引きずられるように
 おじいちゃんの姿も・・・多くのお年寄りが集まる理由は?

 高岩寺のご本尊(延命地蔵菩薩・通称とげぬき地蔵)と聖観音菩薩
 (通称洗い観音)のご利益にありました。加齢につれて体に不具合
 が生じるのは自然の摂理ですが、いつの時代も延命を願うのは人の
 性。ご利益があるならとお参りする人々が絶えません。ちなみに
 巣鴨の商店街のあちこちに房付檜扇をモチーフにした「看板」が
 あるようです。肝心の家紋と寺紋の関係ですが、もう少し詳しい
 調べが必要です。別の新情報も含めて改めてご報告します。

  房付檜扇の紋を載せておきます。

続・武士の家計簿

2010-11-04 20:26:08 | 日記
 時折冷たい雨が降る晩秋の一日となりました。
 宇野ゆかりの皆さま、いかがお過ごしですか?

 前回、「武士の家計簿」ということで、幕末の武家の生活の様子を
 見てみました。かなりの窮乏生活であったようです。その理由を
 いくつか挙げましたが、もう少し具体的にはどうなんでしょう?

 武士には、「武士としての格式を保つための必要経費」(身分費用)が
 ありました。これが武士が貧しい原因だったといいます。主に次の点です。

 1.使用人に対する経費:知行取などの武士には家来を雇っておくことは
  義務でした。「いざ鎌倉」という時の軍役のために身分に応じた準備が
  欠かせません。江戸時代は全般に平和な時代でしたから、それほど多く
  の家来は必要ではありませんでしたが、家来さらに下女は必要でした。
  これらの人件費は俸禄の中からの支払いになり、ある記録では、2人の
  使用人に対して年間約60万円の経費がかかっています。

 2.寺社などへの経費:武士が今の身分を保てているのは、代々のご先祖の
  おかげ。というわけで、寺社などに対する先祖供養のための喜捨などは
  欠かせませんでした。さらに格式を重んじる武家の間のつきあい(交際費)
  も必要でした。季節の行事や冠婚葬祭での祝儀の負担は重かったようです。

 3.江戸詰めの経費:藩から江戸詰めを命じられると、病気などよほどの
  理由がなければ断ることはできません。今でいう単身赴任ですね。赴任
  旅費や手当などは支払われたようですが、江戸と国元とでの二重生活、
  やはり大変だったようです。幕末の宇野家にも黒船来航に備えた江戸
  出府を命じられましたから、生活は大変だったのかもしれません。

 ところで、幕末の宇野家には何人の家来がいたのでしょうか。以前にも
 少し紹介しましたが、「旧陪臣代数原禄根帳」(明治7年)によれば、
 熊本藩の家臣で家来をもつ家は184あり、宇野家もそのひとつでした。
 宇野貞雄には家来が一人いて、古閑清右衛門という人物だったといいます。
 この人物がだれなのか不明ですが、古閑というと西南戦争で捕らえられて
 広島監獄で病死した古閑俊雄が思い浮かびます。古閑俊雄は友成正雄や
 緒方夫門らとともに明治政府軍と戦い、その様子を「戦袍日記」として
 残した人物です。2人の古閑に何か関係があるのかどうか興味深いところ
 です。そういえば、女子プロゴルファーに古閑さんという方がいたと思い
 ますが、確か熊本出身だったと・・・

  北大構内に保存されているモデルバーン(模範畜舎)です。
  明治時代のアメリカ式の建築物が今も残されています。今年は紅葉が
  はっきりしません。やはり猛暑の影響でしょうか。