ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.87 名護屋城

2017年06月19日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月19日(月)

破却の跡を残す朝鮮出兵の拠点 肥前名護屋城を訪問した。

名護屋城は、天下統一を行った豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」で、
大陸征服の基地として築いた平山城である。
わずか1年1ヶ月の短期間とはいえ、秀吉は名護屋城に在陣し、
そこから全国の諸大名に号令した。
また、秀吉の命により徳川家康・前田利家・伊達政宗など
全国の諸大名が集結させられ、各自が陣屋を構築し、
長期滞在をしたことは、九州の一地方である名護屋の地を
一気にわが国の政治上の中心地に押し上げるという、
日本史上類を見ない特異な状況を生み出した。

名護屋城は、秀吉の死によって突如その役割を終え、
島原の乱後、大規模な城破却が行われている。
廃城された城や陣跡・城下町の遺構は広範囲に点在する。


佐賀県立「名護屋城博物館」手前の駐車場に車を停め、
名護屋城跡に隣接した博物館へ。


博物館では、狩野光信が描いたとされる「肥前名護屋城図屏風」や
城と城下町模型などが展示されている、とのことだった。
100名城スタンプ押下も兼て訪れてみると、月曜日は休館日と聞いて
一瞬頭が真っ白になった。


しかし、100名城スタンプは、博物館の管理事務室に置かれていた。
スタンプを押し終えて一安心。


名護屋城跡入口から太閤道の終着点となっている大手口を望む。
最後に大手口へ戻って来ることにして、


最初は、搦手口方面から見て回ることにする。


大手口から城の南側を歩き、搦手口に向かう。
馬場の南側にあたるこの辺りの高石垣は最大14m以上を測る、そうである。


V字型に削られた高石垣の破却跡
最初は、”破却”というイメージが浮かばなかったが、
現実にこの目で見て愕然としたというのが正直な気持ちである。


城のかげ溜池を望む。


石採場辺りから振り返って本丸南側伝馬場の石垣を見る。
石垣が規則性をもって「V字型」に壊れており、
人的に破却(破城)された様子がよく分かる。


搦手口へ至る途中の弾正丸の石垣


ほぼ全ての石垣の隅角部が、削られ、破却されている。


搦手口
名護屋城にある虎口(城の出入り口)の一つ。
搦手とは、城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉である。


搦手口の坂道を上る。


弾正丸に至る搦手口は、弾正丸への侵入を防ぐため、
通路を屈折させた典型的な喰違い虎口の形状をしている。


弾正丸は、浅野弾正少弼長政の曲輪と云われ、
名護屋城内では最も防御性が高い曲輪とされる。


弾正丸から見た風景


かつてはこのように陣跡が並んでいたとされる。
当時ここからは、毛利輝元や片桐且元、加藤清正など
50にも及ぶ陣跡が見えた。


弾正丸から先ほど歩いて来た本丸南側石垣の破却跡を望む。


弾正丸の奥へ行って見る。
現在はみかん畑になっていた。


弾正丸跡にはみかんの苗木が植えられていた。


浄水場跡を通って二ノ丸・馬場方面へ進むと、


破却された本丸の石垣が現れた。
左が二ノ丸で、右は伝馬場になる。


伝馬場方面へ進む。
伝馬場は、幅15m、長さは約100mほどの細長い帯曲輪状態で、
城の東西を結ぶ重要な通路となっている場所である。
また、ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられている。


本丸南面は、上下2段の高石垣によって防御されている。


破却を受けて転落した石材が、400年前の当時のままの状態で
残されている。


伝馬場の通路の途中に設けられた馬場西側櫓台跡
この櫓台は、通路の途中にあるということで、名護屋城の櫓配置でも
特異な例とされる。


馬場西側櫓台跡から弾正丸方面を望む。
黒沢明監督映画「乱」の撮影場所となった、そうである。


馬場櫓台跡から城のかげ溜池方面を望む。


伝馬場から二ノ丸方面を振り返って見たところ。


細長い帯曲輪の伝馬場を進んだ突き当り、三ノ丸虎口の
三ノ丸南西櫓台(写真右)は、平成の石垣修理が行われ、
その際11tの巨石を使用していることが明らかになった。


三ノ丸南西櫓台には三つの巨大な鏡石を配し、見栄えを重視した
石組になっている。
中央にある縦長の巨石が城内一の大きさを誇る鏡石で、
その重さは11tあるそうだ。


三ノ丸南西櫓台
この櫓台は城内最大規模を誇る、とのこと。


三ノ丸南西櫓台の石段を上ってみる。


石段を上ると・・・


三ノ丸南西櫓台からの景色
城のかげ溜池が見える。


三ノ丸南東隅櫓台の南側石段(新)は、櫓台のほぼ中央にある。


三ノ丸南東隅櫓台の北側石段(旧)
石段を登ると、幅1mほどの平坦部があるだけで、その先は、
三ノ丸東面の高石垣(12m)に面している。
このことから、石段として実際に使用された可能性は低い、とのこと。


三ノ丸
ホルトの木々が曲輪全体を覆い、良好な歴史環境と自然環境が融合した
心地良い空間になっている。


三ノ丸のほぼ中央にある三ノ丸井戸
名護屋城で最も高所(標高76m)にある。


南北1.9m、東西1.3mの楕円形をしており、名護屋城や陣跡で発見された
その他の井戸には見られない特徴だそうだ。
現在の深さは、地面から2mほどだが、当時どの程度の深さだったかは不明、
とのこと。


馬乗り馬場


名護屋城址三ノ丸石碑
三ノ丸は、本丸の東側に位置し、東西75m、南北110mの大きさ。
内部は、南部の区画と一段高い北側の区画に分かれている。
南部の区画は、中央の井戸跡を中心に馬場・二ノ丸、本丸、東出丸と連絡し、
北側の区画は水手通路や本丸大手と連絡している。


緩やかな石段を上り、本丸大手へ。


本丸大手
三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、かつてこの辺りに本丸大手門があった。
平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石や
L字形に曲がった石段、門や櫓のものと思われる大量の瓦などの
遺物が見つかっている、とのこと。
桝形虎口「本丸大手」は、城内最大級


本丸大手に残る石垣の上に上がる広い石段の遺構


本丸大手を上ると、右手に本丸跡が見えて来た。
後ほど行くことにして、本丸跡の外周に沿って進む。


本丸旧石垣
説明によると、
名護屋城は築城後に何らかの理由で大規模な改造が行われている。
この石垣は本丸の南側および西側への拡張に伴って、
完全に埋められていた築城当初の石垣、とのこと。


本丸新石垣櫓台
本丸の拡張に伴って新たに造られた櫓台が発見されている。


本丸新石垣櫓台から馬場西側櫓台を望む。


本丸南西隅櫓跡
本丸の南西隅にあたり、隅櫓の礎石が発見されている。
隅櫓は曲輪の隅部に配置された建物で、天守閣と同様に
物見としての役目を持っていた。
赤い部分は、破却によって盛土がなされたことを示すために、
赤色塗装にしている、とのこと。


本丸多聞櫓跡
全長約55m、幅約8mの規模を持つ長大な建物だった、そうである。


本丸多聞櫓跡から天守台を望む。


本丸多聞櫓跡を経て、屏風絵では5層7階の天守があった天守台へ。


天守台へ向かう途中、左下に遊撃丸が見えた。


名古屋城のシンボルである五層七階建ての天守閣が建てられていた天守台。
天守台からは発掘調査により礎石や出入り口が確認された。
礎石は全部で24個と考えられ、うち16個が現存している。
地下1階部分で礎石や玉石敷きが、天守台周辺では金箔瓦などが
発見されている、とのこと。


名護屋城天主台跡の碑
豊臣秀吉が築城したということに敬意を込めてなのか、
天守が天主と刻まれている。


天守台から見た風景(1)


天守台から見た風景(2)


天守台から見た風景(3)


天守台から見た風景(パノラマ写真)
天気の良い日には長崎県の対馬まで望むことができる、そうだ。


天守台から見た陣跡を示す風景
33の陣跡が表示されている。


太閤が 睨みし海の 霞かな
この句は、昭和八年(1933)に青木月斗が名護屋城を訪れた際に詠んだもの。


本丸跡に建つ東郷平八郎書による名護屋城址の碑


本丸跡から本丸北門を通り、水手口へ。


正面に水手曲輪を見ながら水手通路を下ると・・・


水手口に出た。


水手口から城内を見たところ。


秀吉のプライベート空間であった山里丸へ向かう。


右手の坂を上り、上山里丸の小曲輪へ。


山里丸では1998年度の発掘調査により上山里丸の小曲輪において、
飛石・玉砂利敷き・井戸などとともに小規模な掘立柱建物跡を確認している。


上山里丸の井戸


屏風図に描かれている茶室と推定される方形の藁葺屋根建物と一致すること、
また、博多の豪商神谷宗湛の「宗湛日記」には、この茶室跡が宗湛が招かれた
茶室と考えられることから、秀吉の「草庵茶室」と推定されている。


草庵茶室を後に、秀吉が生活した山里丸へ。
山里丸は、豊臣秀吉が名護屋城で生活した場所である。


石垣を上ると、


広沢寺があった。
広沢寺は、秀吉の側室広沢局が一堂を建てたのが始まりとされる
禅宗寺院である。


広沢寺本堂


欄間に秀吉の肖像画が懸けられていた。


広沢寺本堂の境内に文禄の役の際、加藤清正が朝鮮から持ち帰り
秀吉に献上され秀吉が手植えしたと伝えられる大蘇鉄がある。
樹齢は400年で、根回り樹高とも約3m、枝張り約6mあり、
主要な枝だけで40数本もある巨木である。
国の天然記念物に指定されている。


秀吉が過ごした居館跡の山里丸は、広さが約30,000㎡あり、
本丸、二ノ丸、三ノ丸と共に重要な部分を占めていた。


山里丸の反対側にある鯱鉾池は、城の北東を守る唯一の水堀だった。


山里口は、上山里丸への大手口に相当し、二重の喰違い虎口で
厳重に防御されている。


上山里丸へ石段を上る。
少なくとも5回の折れを以て上山里丸に上らなければならない。


山里口の虎口には名護屋城内で唯一、
破却を免れた隅角部のある石垣が残る。


上山里丸の上から山里口を見たところ。
山里口の向いの一段低い所は鯱鉾池である。


上山里丸から秀吉の居館跡を見たところ。
広沢寺の屋根が見える。


山里丸から再び水手口に戻り、水手曲輪へ。
左側の細い坂道が水手曲輪へ通じる唯一の道となっている。


水手曲輪は、本丸の北側に位置している方形の曲輪である。
本丸等の雨水をこの曲輪に集めて貯めたと伝えられ、
水に関する施設があったと推定されている。


水手曲輪の井戸跡


水手曲輪の入口まで戻り、右手の道を遊撃丸方面へ。


左手に天守台を見上げながら進み、


船手口を過ぎると、右手に二ノ丸、左手に遊撃丸の石垣があった。


逆方面から見た遊撃丸の石垣


遊撃丸へ。
この辺りに遊撃丸の門があったと考えられる。


遊撃丸
文禄二年(1593)に明国の講和使節(遊撃将軍・沈維敬)が滞在し、
もてなしを受けた曲輪と云われているが、詳細は不明とのこと。


遊撃丸から天守台を望む。


遊撃丸から対馬方面を望むが、霞んで何も見えない。


遊撃丸に隣接して二ノ丸の広場がある。


二ノ丸広場のパノラマ写真


二ノ丸長屋建物跡
二ノ丸の発掘調査では、名護屋城の時代のものと思われる
掘立柱建物跡が発見されている。
手前が長屋建物南棟、向う側が長屋建物北棟


再び本丸南西隅の石垣に出た。


伝馬場を通り、三ノ丸へ。


三ノ丸から東出丸へ向かう。


東出丸へ
右は大手口に通じる門跡


東出丸跡から見た陣跡の風景
徳川家康・前田利家・伊達政宗・石田光成など30ほどの陣跡名が見える。


東出丸跡から見た風景(1)


東出丸跡から見た風景(2)


東出丸跡
東方に張りだした長方形の曲輪で、千人桝とも呼ばれている。
大手口・三ノ丸警固のための侍詰所があったと推定されている。


東出丸櫓台


東出丸櫓台から東出丸を望む。


大手口へ
右手は三ノ丸の石垣


観光客が大手口の坂道(大手道)を上って行く
大手口から100mほどの登り坂が東出丸まで続いている。
登城坂とも云われる。


大手道の南東部には、長屋建物があったとされる。


破却された大手口の石垣(三ノ丸南東隅櫓台)


大手口櫓台(北東面)


大手口
ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道」が伸びていた。
大手口は「太閤道」の終着地点であり、名護屋城の表玄関にあたる。


大手口前の広場には、団体の観光客が訪れており、
ツアーガイドの説明に耳を傾けていた。


名護屋城跡を後にして、かみさん達が待つ近くの道の駅「桃山天下市」
へ向かった。


名護屋城陣跡巡り” へ

100名城巡りは、今回の名護屋城で98番目、
残り2城(平戸城・島原城)となった。
ここまで来れば、一日も早く全城登城を達成したい、
という気持ちが強くなって来た。


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