夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

上京

2012-02-28 07:23:13 | つれづれなるままに
2月28日(火)

 午前中お山参詣の申請書を担当課に届けた後、新幹線で上京です。私の母の一番下の弟である叔父が急逝しました。まだ70歳だと思います。格好の良かった叔父は、マラソンも走っていました。エンジニアで、最期まで働いていたのです。私は学生時代、兄と一緒によく飯を食わせてもらいに泊まりに行ったものです。
 母の兄弟はすぐ下の弟が一人になりました。合掌

「臍曲がり新佐」藤沢周平著 読了

2012-02-27 06:57:11 | 私の本棚
2月26日(日)

 -2℃が最高気温、(最低-5℃)の厳寒の一日。細かな雪が降っています。それでもPM5時頃になっても、いつもとは違う空の明るさがあります。本当に辛抱ももう少しという感じです。

 さて藤沢周平著「臍曲がり新佐」を読みきりました。藤沢は1997年1月26日に逝去しています。もう15年も経っているのかと、不思議な感じでもある。宮沢賢治、遠藤周作、北杜夫、井上ひさし・・・みんな亡くなっているが、彼らには生きた作品がある。いつ読んでもそこには作品たちが、活き活きとして私達に語りかけているのだ。小説家を始めとする物書きの、そこが素晴らしく羨ましいところだと思う。

 藤沢作品をたてつづけに読み進むうちに気づいたことがある。それは、根底に流れる温かな人間観である。人間そのものがいつの時代も完全なものではなく、弱さや強さ、美しさと汚さ、善と悪の両極が必ず心の中に住んでいることを、突きつけられる思いである。
 悪人であっても、一分の良心がある。貧乏人であっても、心の中には清廉潔白なすがすがしい生き方もある。そんな意味では藤沢の作品に一貫しているのは、ヒーローとして祀り上げられた偉人たちではなく、貧しい足軽や下級武士たちの物語である。
 心の動きが右に左に動く様、その心理描写の素晴らしさ。思わず自分までもが、主人公と一心同体となって、うろたえたり、ヒヤヒヤしてしまう。そして、武士として願いを叶えた後の満足感と達成感の中で、死んでいくことをうかがわせる終末場面。
 また次の作品に手が伸びそうになっている自分がそこにある。

お山参詣実行委員会

2012-02-26 15:50:30 | つれづれなるままに
2月25日(土)

 2月もいよいよ終盤である。毎年思うことだが、私の産まれ月は通常の月よりも2日ないしは3日短い。これは閏年(うるうどし)という西暦を400で割り切れる年のことを言うと書かれている。4年に一度というわけではないらしいです。

 さて、この日お山参詣実行委員会の申請する補助金申請書に絡む基本的な考え方を確認するために、主要な役員に集まっていただき意見を徴しました。
 65年前の昭和22年に私の現在居住する町会で、「お山参詣」を挙行したと聞いいています。

 お山参詣とはそもそも「岩木山」は、安寿・厨子王の伝説を残す信仰の山。祀られているのは安寿姫。全国の山には主に女性の神が祀られています。だから昔は、岩木山には女性が入れなかったとか…

 今は、岩木山は老若男女、心のやさしい人であれば、どなたでも受け入れる心の広い「お山」です。

お山参詣のあらまし  重要無形民俗文化財(昭和59年1月)

 津軽地方の人々にとって「岩木山」はかけがえのないシンボルであり、古くから「お岩木山」とか「お岩木様」と慣れ親しまれてきました。

旧暦の8月1日には、「五穀豊穣」「家内安全」を祈願して、この「お岩木様」に集団登拝する行事が「お山参詣」・「ヤマカゲ」といわれている行事です。(岩木町観光協会ホームページより)

 その行事を今年町会で8月25日に行うことが、年初めの総会で決まりました。とかくこの時代殺伐とした風潮がはびこって、人と人の心の距離が縮まろうとせず離れるばかりです。そういう時代にあって、みんながひとつの心を持ってお山参詣を実行しようと決めたのです。

 総勢120名ほどの人数でご幣や紅白の餅、五色の旗などを分担して行列を組んで、岩木山神社を目指します。

お山参詣の唱文
懺悔懺悔(サイギサイギ)
六根懺悔(ドッコイサイギ)
御山八代(オヤマサハツダイ)
金剛道者(コウゴウドウサ)
一々礼拝(イーツニナノハイ)
南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ)

 リーダーの掛け声に合わせて、みんなで唱文を叫びながら進んでいくのです。

 さて私どもの町会には民俗無形文化財「獅子踊」が継承されています。しかしこの会も次第に若者の継承が難しく、平均年齢が高くなってきています。もう一度人と人が濃密な関係を持てることが、この後継者問題の緒ではないかと考えています。ぜひ成功させたいと念願しています。


 


 

「臍(へそ)曲がり新佐」藤沢周平著

2012-02-21 13:05:30 | 私の本棚
2月21日(火)

 良い天気です。でも起き掛けの駐車場は、10センチくらいの積雪です。このところ我が家の軒先に吊るしている干し柿を狙うヒヨドリが毎朝姿を見せています。屋根からの落雪ですっかり軒先も見えないくらいにうずたかく雪が壁になっているので、鳥からも見えにくいのにと思っていました。それに網の袋に入れて干しているのですが、そういう状況でよく食べ物があるとわかるものだなと感心しています。

 さて、そんな早朝に藤沢周平著「臍曲がり新佐」(321ページ中132ページ)を半分ほど読み進みました。今朝読んだのは「臍曲がり新佐」と「一顆の瓜」です。

 「臍曲がり新佐」ですが、正式な名前は「治郎新左衛門」といいます。主人公は、窓際族に位置する役職に今は身をやつしています。
 若い頃は戦場を駆けまわって活躍したが、今は閑職の馬印を警衛する役職を与えられ暇な日々を送っているのでした。
 臍曲がりという名がつくのは、それほどの変わり者、偏屈な者ということです。素直ではない、故に藩内では嫌われ者、煙たい存在と皆が思うような58歳の男なのです。その頑なさは、昨日今日のものではありません。しかしそれは嫌味ではあっても、一寸の虫にも五分の魂というような矜持があるのです。出世とか物欲は打ち捨てても、清廉潔白こそを好む武士の中の武士なのです。
 剣術の腕はそれでいて筋があり、大義があれば相手が上司であれ斬り殺す迫力を持ち合わせてもいます。
 娘と二人暮らしの彼には、隣の屋敷に住む若者が娘に対して軽々しい振る舞いで関わろうとするのが日常の気にいらないことの一つとなっています。
 しかしその隣りの若者が粗忽ではあるが、武士としてのぎりぎりの納得できる力を持っていることにやがて新佐は気づきはじめます。
 他人を受け入れるまでの過程には、どうしても距離を感じざるを得ない時期があるのでしょう。一見頼りなさそうな男に見えても、ある出来事の中で発揮するその男の力が際立って見えることもあるのです。

 そのように読み進むうちに、次第にあるときは新佐の立場が理解できたり、そしてまた隣のうつけ者のような若者として見られている若いころの自分の姿にも見えてくるのでした。
 私も婿入りしたときは、おそらくこんな具合に舅姑は見ていたのではないかと思えて懐かしいような気持になっています。
 

アンニョン!

2012-02-20 06:50:53 | 私と福祉とであいの旅
2月18日(土)

 昨夜は同僚のお父さんの通夜。幹部職員はとりあえずお手伝いをすることにして、PM4:30にセレモニーホールへ集まりました。しかしお父さんの前に勤務していた会社の部下30名が受け付け全般を行っており、われわれの出る幕もありませんでした。生前の故人の人柄を忍ばせるかのように会場は生花であふれ、300人を超える会葬者でいっぱいでした。
 私は少し風邪気味でもあったために、少し距離をとろうと思って会場の後ろ側にいたのでした。しかし故人と親交のあった保育園長Sさんに一番前の席に座らせられて、面識のある役者さんで山崎之也さん、NHKアナウンサーの山本さんなどと一緒に座ることになりました。咳が出て苦しいときに、気を使う場所も拷問のようで困りました。
 それにしても最近の葬祭の環境も大きく変わりました。自宅での葬儀などはほとんど皆無に近く、以前は地元懲戒の集会所での葬儀もありましたが、現在はほとんど葬儀屋さんのセレモニーホールで簡単に行われるようになりました。高齢化というのもひとつの背景にあるのか、畳の会場に座って行う葬儀は敬遠されているようです。通夜というのはそもそも故人を偲んで行うものだと思いますが、現在は読経ほか弔辞などあわせてもほとんど1時間程度で通夜は終わり、会場での飲食もまったくありません。そういう意味では、簡単かつ効率よくというのか、人と人のつながりも薄れるばかりです。
 私が今回の葬儀で感じたもうひとつ、それは故人の笑顔いっぱいの写真が素敵だなと思いました。私にはこんなに素敵に笑っている写真はほとんどないなあと思いながら、残されるものにとってもきっと笑顔でいつも見守っていてほしいだろうと思えば、そういう写真があればいいなあと思いました。


 18日は午前中、保護者会の交流会が温泉であり、午後からは藤崎町での農業と福祉のコラボレーションネットについての「パネルディスカッション」の予定。ちょっと疲れ気味なのか、咳がなかなか治りません。それでも気を奮い立たせて、なんとか会場に足を運びました。
 温泉では昼食をともにしただけで時間が過ぎ、来年度の法人の事業計画などを少し話させていただき、そのまま次の予定場所へ移動。かみさんは友人の娘さんのピアノリサイタルを聞くとかで、別の会場へ移動。

 約2時間の農業で町おこしをしようというグループへの講演とパネルディスカッションです。予定のもう一人の講師が体調不良でドクターストップを受け、ピンチヒッターの方のコーディネートと講演で幕開けです。会場は男性だけの異様な雰囲気意でしたが、気持ちよく私の話を聞いていただけたようです。

 2月19日(日)

 午前中には少し太陽ものぞいて、絶好の除雪日和?ということで、私はすっかりうずたかくなった家の周辺の雪と格闘です。車庫の上に積もった雪下ろしをしました。約1メートルはある積雪の屋根に上って、硬く固まっている雪を、豆腐のように切って投げ、約2時間近くかかって作業を終えました。今月が厳寒の雪も山場を迎えています。2メートルを超えた家の周辺の雪は、我が家の台所の窓を隠し始めています。

 PM6:00から町会の役員会があり、帰宅は7時30分。休日の二日間も休んだ気持ちがどんどん薄れていく中、娘たちが帰宅している我が家はいつもどおりあったかな雰囲気でした。
 

愛する娘たちに何を遺すか・・・

2012-02-17 07:14:15 | つれづれなるままに
2月17日(金)-7℃

 昨日は同僚の父上が11日に逝去され、火葬の日であった。2月に入ってお悔やみ欄を見ると本当に亡くなられる方が多い。季節の変わり目ということもあるのだろうか、そのことで結果斎場やお寺様、セレモニーホールが混んでしまって結局6日目に火葬となったらしい。
 斎場で私は少し風邪気味ということもあって、控え室に入るのを遠慮してホールの休憩室で過ごした。喪主の同僚が気遣って私のもとに来て、父君の亡くなるまでの壮絶な生き延びようとした経緯を語ってくれた。行年満年齢で64歳だから、まだまだそういう年ではないのだ。自分の予期せぬ人生の出来事に、対峙して病に倒れながらも最後まで残される妻への危惧を減らそうと努力されたという。
 
 私は必ずやってくるその時を手を拱いて待つのではなく、今から娘たちや家内へ何を残せるのか考えようと思っている。それがこれからの私の宿題です。

「龍を見た男」読了

2012-02-16 06:51:21 | 私の本棚
2月16日(木)

 朝からまた真冬に戻って、細かな雪が降っている。
 じわりインフルエンザの波が「であいの家あうん」にも届き始めていて、昨日も学校の子どもA君の家庭からインフルエンザと診断されたという電話が入った。A君といえば昨日は急遽送迎車が故障して動かなくなったために、私の車を動員して任意保険の年齢制限あるために私が運転して自宅へ送り届けたのだった。
 幸いにも今のところ少しの風邪症状だけしかないから、一生懸命手洗いと、うがいをしながら予防しているものの、今は潜伏期間だとしたらそれこそお手上げかも知れない。体力と健康には自信はあるものの、熱には至って弱いのが困る。そして何よりもきょうから22日までスケジュールが埋まっていて、一旦発症とわかればその日から約1週間は自宅待機しなければならないので、それらのスケジュールをドタキャンをする勘定になる。
 極力最近は講演依頼をお断りしている自分ではあるが、どうしても断れないものがある。すでに来年度4月移行に1回90分授業を2回での大学での講義も決まっていて、ちと自分としては今回を最期にという思いを強くしている。たまたま「障害者福祉」のテーマだと断れないこともある。私の経歴を熟知している方だから、断るのも申し訳なく思うのだ。今の私に社会的役割があるとすれば、社会的な障壁となっている「差別・偏見」などとともにある「共生社会」というテーマが、もう一つの目標かもしれないと思っている。今回はそれがテーマでもある。

 朝方5時30分から目覚めて、藤沢周平著「龍を見た男」の最終部を読了した。
 寝ながら本を読めるのは文庫本だからで、結構本を持つ腕は疲れるものだ。
 309ページの編集で、「帰ってきた女」から「切腹」までの9編が短編で収められていた。1編が50ページ程度なので、気持読みやすい気がしている。

 藤沢氏の小説で心うたれるものがあるとすれば、それは勧善懲悪とかスーパーマン的な力を持たない、さらには武士でも位もそう高くないなどの身分の者の心理描写がとても新鮮なことだ。泥棒の主人公銀助が悪事を働きつつも、虐待される赤子を黙ってみていられない。それは自分の幼少時の記憶がそうさせるのだ。それはまた、泥棒の中にもいささかの良心があることを物語っているのではないだろうか。その赤子を最後は自分を追いかける子なしの岡っ引き夫婦のもとに置いてくるシーンは、涙が湧きそうなシーンでもある。
 
 これから「臍曲がり新左」を読み始める。単行本で文藝春秋社刊、約300ページである。

終末期

2012-02-15 07:12:02 | つれづれなるままに
 このところ終末期の話題や声が耳に滞留している。それは身の回りにそういう境遇にある人たちが現実にいて、耳が自然にそういう話題に止まりやすいのかも知れない。
 今朝のNHKラジオ深夜便の中で、「最愛の妻の死を乗り越えて」(2回)国立がんセンター名誉総長 垣添忠生氏の話は眠気の覚めるような話であった。
 たまたま昨日は癌の末期をどこで過ごしたらよいのかという話題を、施設においでになったPT(理学療法士)さんと話したこともあった。
 私が最も注目するのは、病院で週末を迎えるのか、それとも自宅か?という問いである。垣添氏は本人の強い希望もあって、奥さんの最期を年末の自宅で迎えさせたという。白いカラーで統一された病院と違って自宅は生活感が溢れ、これから仮に死ぬことになろうともその自分を納得させ得る環境がそこにあることを語っていた。病床につくまでの家族生活の記憶は、天井のシミや庭の記念樹などにも残されているのである。年末年始ということもあり、看病はご主人が一人対応した。そして下の世話もすべて対応したといっている。
 病気が悪化する前に気分転換をさせるつもりで奥さんに新調した洋服を、彼は死に装束としてなくなった後着せたという。
 死の直前奥さんがこん睡状態から目覚めて、がばっと起き上がり目を見開いてご主人と目を合わせて固く握手をした後そのまま息を引き取ったという場面は何とも壮絶でもある。言葉以上にその行為は感謝に満ち溢れた行為として、後々ご主人の精神的な支えにもなったと語っていた。

フル稼働の日曜日

2012-02-13 07:17:34 | つれづれなるままに
2月12日(日)

 「のれそれ雪とろけ隊」の活動日です。
 朝から降雪かつ-8℃のスタート。弘大正門前に7名の学生を迎えに出ました。弘大正門前には、ジャンボタクシーが2台停車していました。タクシーの運ちゃんに尋ねると、市内堀越への移送を依頼されているということでした。雪かきボランティアの、学生たちの町会への派遣タクシーでした。
 「のれそれ雪とろけ隊」は前に参加したメンバー5名と、学生事務局の4年生の女性を含む7名です。この日は総計13名での活動となりました。
 

 旧岩木町の3件の高齢者世帯が今日の活動対象です。凍(しば)れが厳しく、屋根の雪がなかなかトタンを滑って落ちてはくれません。一件目のお宅では、老婦人が自分一人ではどうにもならない高さの屋根に、SOSでした。私たちボランティアでも、危険は冒すことはできませんので、どうしても無理な時にはお断りをしなければなりません。
 
 

 2件目はこれも高い屋根の二階家でした。このお宅は男性の高齢者です。私たちが訪問するのは今シーズン2度目です。雪止めがついていない二階の屋根はとっても危険で、学生たちを上げるわけにはいきません。
 
 女学生は初めてのチャレンジだったのですが、とっても新鮮だったのか最後までスコップを離さずに屋根に上がっていました。


 時折強い吹雪となり、気温も上がらず厳しい作業となりました。

 三軒目の家は、現在関東の娘さん宅に身を寄せている高齢女性宅でした。こちらも二度目です。通常生活していないお宅の屋根の雪下ろしはしないのですが、春にはまた戻ってくるお宅でもありみんなで行いました。
 
 こうしてこの日は3件の対象世帯の雪下ろしを終え、達成感のある午前中でした。参加した弘前大学のボランティアの皆さんは、八戸や七戸町という太平洋側の学生さんと、中には神奈川県横浜市の学生、女学生は宮城県でした。みなさんが参加されるようになって、本当に作業がはかどって助かっています。

 昼食後学生たちを大学までお送りして、私は家内のパン教室に回りました。

 パン工房・ゆいまあるでは、4名のスタッフがパンの講習会にチャレンジです。

 午後からは焼きあがった菓子パンをいただきながら、講義を受けていました。

 スタッフ自身が起訴をきちんと身に着けていないと、メンバーさんたちの支援もおろそかになるのです。ゆとりを持ちながらも、日ごろ気になっていることを振り返ることも大切なことだと感じました。少ないメンバーですが、気軽に日頃自分の課題となっている原因など指導を受けていました。

 PM4:30 帰宅後は自宅の雪かきでした。運動不足とはいえ、なんだか心身ともに疲労し、早々の就寝です。
 ああ、春が待ち遠しいこの頃です。 
 
 
 

災害ボランティア「虹」活動報告会

2012-02-11 16:18:59 | 東日本大震災
2月11日(ド)AM9:30~AM11:30 青森市アウガ研修室

 青森公立大学の災害ボランティアネットワーク「虹」の活動報告会が、きょう青森市のアウガで開催された。家内と二人で出かけた。青森公立大学の虹は昨年6月に結成されて、現在まで活動を継続してきた。チームオール弘前とは異なり、宿泊滞在型の災害ボランティアである。
 8/21~8/27まで気仙沼市の南三陸町まででかけたということである。彼らは宿泊滞在型ボランティアなので、キャンプ地の宮城県登米市にベースキャンプを置き、そこから活動現場へ移動するという方法をとっていた。活動時間はほぼ我々と同じで、AM9:00~16:00であった。活動内容も、救援物資の仕分けや、ボランティアの給食づくり、後片付けなどで、ボランティアのためのボランティア活動と言っていた。
 また気仙沼市はカキの養殖場所でもあり、筏にカキの稚貝を吊るす作業なども手伝いを行ったらしい。しかしこちらも時間の経過と共に、ボランティアが激減し、まだボランティアニーズはあっても人が集まらないという傾向にあるらしい。
 
 この他全国組織の「ユナイテッドアースレインボーフラッグプロジェクト」という社会貢献協力組織があり、それへの参加を行なって、47都道府県ごとに、虹の旗への寄せ書き活動を行い、それを本部に送って大きな虹の輪を旗で作ったという。これは国民がこの災害をいつまでも忘れずに、復興の希望を失わないようにするという意識啓発の運動でもあるらしい。

 11月からは次期の虹の若手である二期生が中心になって宮城県に青森大学と共に13名が出かけた。ガレキの撤去活動や仮設住宅の冬の準備活動手伝い、道の駅での秋祭りの手伝い、福島県福島市での福島の未来についての語り合い活動への参加状況が報告された。

 
 研修会の最後はグループ別に分かれてのワークショップが開催された。
 継続は力であるという言葉があるが、現地の人々への支援活動をどのような形で継続していくかという命題が大きな課題でもある。弘前から参加した学生から、共通目標を持つ学生同士、連携した活動を呼びかけていたが、そういう発想が今後の活動を活気づけていくのではないだろうか。
 何れにしても、学生という次代を担う若き力が、現在的な社会の課題に目を向けて考え活動をしていこうとすることは、新たなウエーブともいえる。市民としてもこのムーブメントに、支援していきたいと強く思ったひとときでもあった。