戦後は今から思えば何もなかった。
自給自足・稲わらでぞうりを編み通学や遊びに使った。
その後ゴム草履になったり下駄になったり・・・。
運動靴は配給制で、
1年に1クラス(45名)に
ほんの3~5足でくじ引きで分配した。
観光地で買い求めた。
我が家の玄関に飾ってある。
家内も山行に出かけるため『足元が一番大事』という意味から
出かけるとき先ず身支度の確認。
草履の編み方
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今日のメモ
子供たちへの伝承文化記録(覚書)
最近の記事にショイタ、ゾウリ、半鐘、囲炉裏と昔の道具、
農家の暮らしを伝承文化として掲載しています。
縄文人は農家の貧しい家に育った。子供たちに断片的に話したことがあるが
全体像、具体的なものは何も語り継いでいない。
細かいことを話しても、現代とあまりにもかけ離れていて
『ばかばかしくて話にもならない・・・・・今は違うよ・・』と、子供たちは
聞こうともしないし、また話す本人も熱意が薄れてもきた。
子供たちも大きくなり孫がいる歳となりギャップも大きい。
こうして毎日書き綴っているのは、縄文人の半生、幼少期の農家の暮らしの
懐古(ノスタルジック)の面も多分にある。
後日に読んで何か読み取ってもらえれば幸いと思っている。
そんな意味から
『子供たちへの覚書=語り部』のつもりで記録している。
CDに保存している。
この『道具と伝承文化記録』を書くきっかけになったのは、
山梨県・忍野村に行ったときでした。
戦後の食糧難時代に農家が盛んにもてはやされ、
大事にしかも便利に使われていた農道具が、いとも簡単に
農家に軒下に風雨にさらされていた。
何か、いとうしくなり自分の心を傷つけていたように思えた。
昭和の子供たち写真集
石井美千子人形作品集から
参考文献
農家のモノ・人の暮らし大館勝治・宮本八恵子著
私も貧しい家に育ちましが
すこしだけ縄文人さんより後の生まれなので
こうして縄文人さんに忘備録を書いていただくととても嬉しいです。
私も知らない事が沢山で。
7日に井戸の傍で出会ったおじさんも80歳とおしゃっていましたので、
今度また出かけたときには尋ねてお話を聞きましょう~~
失礼山の距離は平地に比べるとX2ぐらいで計算しないと。三角形の斜線の計算忘れていました。
我が家では自給自足できないので雑貨屋で買ってもらいました。
昨年、妻が布草履を何足か作りました。室内で履くと健康に良いそうです。
わたしは疎開先で母が編んでくれた草履をはきました。片道2キロを往復すると草履は2日と保ちませんでした。稲藁を長い時間掛けて叩いてほぐし、一足編むのも大変だったろうと思います。
あまりに早く擦り切れるので情けながって、布で編んでくれたことがありました。
土地の子から、上草履を履いてるとはやされました。
当時、自分で編んだとすれば、縄文人さんは古希を過ぎていますか?
わらぞうりは小さい頃遊びで作ったことがあります。
形が上手くまとまらず履物にはなりませんでした。
終戦直後は、下駄の歯にタイヤのゴムを打ちつけて歯が減らない様な工夫もしました。
縄さんのブログは昔を思い出させて呉れて懐かしい、サンキュウー。
何はともあれ書くこと、書き残すこと、つれずれなるままにキイを叩く事それがストレスの解消にもなるし、自己消化にも繋がる自己満足。
人は皆新し物を知ろうとすること、知ったことを自分なりに噛み砕き消化し人に伝授、伝承したいという欲望があります。
blogがこれほど急速に庶民の間に広がったのは、
・書くことへの自己満足、
・それを知らしめようという欲望の現われなのかもしれません。
森林とは大きく包み込んだ語で、そこには龍目を基本とし雑木林、信用ぢゅ理に、広葉樹林と限りない山物語が繰り広げられるからです。
水源涵養林もあれば、風致林もありわれわれの暮らしを守ってくれます。
森の中で大きな深呼吸をすると汗への大きな希望がわいてきます。
そんな林、森林のタモトで暮らせるなんて・・・・・・・。
龍目→立木
信用じゅ理→針葉樹林
間違いが多くて歳を取りたくありません。
今健康草履を作る。上履きにする。
健康のつぼは足元からとよく言われます。
したがって足のつぼを刺激するからいいのでしょう。
もちろん作ったことがあります。
ぼろきれをフンダンに使い、これを編みこむと長持ちもしますし、布の柄が出てとてもカラフルで部屋履きにはもってこいでしょう。きれいに仕上がります。
我が家は、貧農で食べるものはありましたがお金はありませんでした。
二宮金次郎ではないですがショイタを背負い、草履を編んだのです。
もう少し勉強をすれば尊徳翁のようになって居たでしょう?