山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

アカ(メディア)が煽動し、バカ(な読者)が追従する「靖国参拝批判」

2013-04-27 20:48:40 | Weblog
4.23、靖国神社春季例大祭に国会議員が集団参拝したことに、毎度のことながらアカ(メディア)が煽動報道し、バカな読者・視聴者を追従批判させるべく躍起になっている。
安倍政権の泰然自若の姿勢に、反日工作メディアの社運を賭けた最終挑戦にも見えてくる。
自民党本来の姿こそが、現状姿勢(安倍政権)であるべきであって、これまでの(野中・加藤・古賀等)赤化議員内包の状態こそがイレギュラーであったものである。
ブログ子は「占領体制打破」と表してきたが、晋三さんは「戦後レジュームからの脱却」と言って来た。
「占領憲法」なる表現も最近になって、やっと目に付くようになった。
GHQ占領軍の目的は日本国の解体・弱体化、戦争責任の加害者化が使命であった。
そこには歴史の真実を覆い隠し、求める結果から導き出すシナリオの脚色化作業であった。
安倍首相が予算委員会で答弁しているが、「自国の散華者に粛々と参る」ことは、世界中の不偏的礼儀である。
礼儀を失した特亜蛮国こそ、中国・朝鮮半島2国である。
このような国は自国の特定墓地に参ることさえ制限しているのであるから、まともに答えていたら限がないのである(異形民族性の違い)。
2007.6、訪中した中曽根康弘元首相が希望した(1989.4死去で天安門事件の引き金となった)故胡耀邦総書記の墓参をも拒否された。
このような異形国家の言いなりに追随する融和こそが、国家主権の根幹に通じる問題に発展するのである。
もとより、首相が答弁しているように国際法上「侵略戦争」なる明確な定義はいまだなされていない。
それぞれ言い分があるとするのは、通常裁判上ありうることで、いわゆる加害者側が認めなければ簡単ではない。
左翼は必死に(日本敗戦)占領期の構図を死守しようとしている。この基本形が(占領)憲法であり、侵略戦争と見る「靖国参拝批判」の左翼反日運動である。
数百年前の史料限定の歴史解釈ならまだしも、幕末以降の近現代史においては多量な史料分析から、世界に類を見ない日本人の勤勉実直さの行動は明らかである。
これを歪めてきた共産主義者の浸透、戦後の教育界・メディア工作、中国文化大革命以降の日本共産党による司法界工作(1966.10、第10回大会)などの情報操作が、これまで既成メディアにより日本社会で席巻されたきた。
ネトウヨなどと評される向きこそ、自存自立のセンター軸であり、右傾化懸念を叫ぶアカ(メディア)が煽動し、バカ(な読者)が追従する「靖国参拝批判」の実態が検めて明らかにされてきている。
迫る政治課題は多いが、国家百年の大計を論じれば、日本人の政権選択として「(占領)憲法改正と靖国神社参拝」を凛として求めたい。
ここから波及する解決策で安倍首相が掲げる「日本を取り戻す!」は、相当程度実行できるであろうし、巡り合い「天の時」でもある。
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映画「おしん」山形ロケがクランクアップ。10月公開予定

2013-04-05 19:10:40 | Weblog
映画「おしん」の山形県内ロケがクランクアップ。
県産米「つや姫」の出荷期に合わせた、10月公開予定とされる。
2月5日の製作発表から、実質ロケ期間は一ヶ月半の短期集中である。
ヒロイン(浜田ここね)の春休みに合わせたのも、30年前のNHKドラマの小林綾子と同じである。
さて、製作発表会のとき、原作者橋田壽賀子の「(朝ドラ「おしん」脚本過程で、奉公期の)子役は期待していなかった」の覚めたコメントが記憶に残っている。
(1982年当時)脚本の橋田壽賀子とNHK制作者たちは、ドラマ「おしん」に「高度経済成長の中で、(日本)現代人が見失ってしまったものを提示し、問いかけよう」と意図した。
橋田は「おしん」ブームのなかでも、「辛抱ドラマ(が意図)ではない」と語っている。
奉公編は(「おしん」全編50週の6週で12%)一代記のプロローグでしか無かったのである。
日本国内を上回る視聴率を記録した世界各国での「おしん」放映。
「おしん」に魅せられた世界の放映国関係者を招き、1991年2月に国際シンポジウム「世界は、おしんをどう見たか」が開催された(NHKインターナショナル主催)。
当然のことながら称賛されたのは、日本のある一人の女性(おしん)の生涯に渡る生き方に、時代と国境を越えて共感を呼んでいる万国の評価であった。
一編100分程度に納める映画と、30年前の全297回の朝ドラ「おしん」とを対比する対象でもないのだが、週刊某紙で両方に出演している泉ピン子も、この映画と朝ドラ「おしん」との視聴者評価の行方如何に触れていた。
また、橋田が製作発表会の前日に「(発表会に)出たくない」と言い張り、ピン子に諭されて出席した旨の逸話がなされている。
奉公編だけを切りぬいた「辛抱ドラマ」は、橋田の本意ではなかったことをいまさらながら示したものかと感じ取れる。
30年前も「おしん-奉公編」に絞ったアニメ版は、全編朝ドラとは打って変わって不調に終わった。
二の舞にならないように願いたい。
裏付けの無い想像の域であるが、日本人の生涯平均年齢が伸びているが、「おしん」幼少期の精神年齢像は今より高かったのではと思う(よほどしっかりしていた)。
昨今の、カメラに向かって一様にピースサインをする無邪気な幼稚さは日本人だけだそうである。
1980年頃を境に高度経済成長後半のなかで、重厚長大から軽薄短小に産業構造の転換過程に入る。
橋田が「おしん」執筆を提案したころでもある。
産業構造だけでなく日本人そのものが軽薄短小人間に陥ってしまったのではと危惧してしまうこのごろである(お笑いバカ芸人の漫才ブームも1980年頃から始まる)。
世界が評価する「おしん」への理解が、日本人(山形県民)にはまだまだ足りない。
過般会った某市長は「おしんは、貧乏のイメージがあるからなァ」と言い切った。
が、おしん幼少期の20世紀初頭は(都市部などの一部を除き)日本中のほとんどの地域は電気さえなかった時代であることを知っているのだろうか。
某市長の生家地では間違いなく電気はなかったはずである。
わずか百年ほど前には、(世界中も)そのような時代だったのである。
それが解かる歴史観の持ち主こそ「おしん」を高く評価しているのであろう。
現在まで86の国や地域で放映されてきている。
近年、放映後発となった中南米地域でも「おしん」ブームとなっているようだ。
携帯・スマホに興じる子供たちに、祖父母・曾祖父母の時代を身近に教え伝えるのも責任世代ではなかろうか。
国際シンポ参加者の一人は「おしんという人物のイメージ、特にその民族精神、これは、全世界の共有する尊い財産だ」と語っている。
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