せっかくなので前回のちょっとした続き。
とはいってもこの写真を撮ったのは今から二年弱前(もうそんなに経つのか!!!)、この地域に二度目に訪れた際の写真。
この時は兄貴と一緒で、首都アジスアベバから基本陸路で北部を一周した一部に同じ行程を組んだ。
特に指定はしていなかったのだがハウズィエンについてからのガイドは同じくゲブレさん。
ちなみに下の写真の右側がゲブレさん。
左側は若い奥さんで、というのは嘘で通りがかりの女性。恐らく20歳くらい。とはいっても顔なじみのようでった。
ゲブレさんの写真を撮るよ、と言ったら近くを通りがかった彼女を呼び止めて、一緒に収まった。
たいていのエチオピア人は写真を撮るとすぐにモニターで確認したがり、次来た時にはプリントして持ってきてくれ!と言ってくるのだがゲブレさんは全くそのようなそぶりを見せない人だった。
ゲブレさんはまだエリトリアがエチオピアだったころにエリトリアの大学を出たという。
彼の英語は実際かなり支離滅裂なのだが、その彼曰く、彼のイタリア語はほぼ完璧だという。
ちなみにエリトリアははイタリアと縁が深く、大学の公用語はイタリア語だったそうだ。
タイトルの写真の子供たちは僕ら兄弟がただ散歩しているとどこからともなく寄ってきて、楽しそうについてくる。
こんな感じで。ちなみにこの日本人は兄貴。(無断掲載)
エチオピアの公用語であるアムハラ語を僕は少ししゃべれたのだが、彼らはティグレ語という別の言語をしゃべる為、通じない。
でもフレンドリーで、小さい子を大きな子がしっかりと面倒見て居たりと見ていて楽しかった。
子供や大人まで、エチオピアの人たちは本当に表情が豊かで深い。無邪気で嬉しくなる。
我が父上と母上もエチオピアに来てくれたことがあるのだが、その際に言っていたのは「戦後の日本を見ているようだ」ということ。
これは別に悲観してでも良くいっているわけでもなさそうで、ただそう感じたらしい。
僕が帰国してから土門拳の昭和の写真をそれと知らずに見たことがあり、「どこだろ、エチオピアかな?」と思ったことがあるくらい、戦後の日本とエチオピアの風景は似ている、のかもしれない。
ちなみにこの場所の全景はこんな感じ。
これを見て「日本の戦後を見ているみたい」と言ったわけでは無いので悪しからず。
子供たちはただ着いてきていただけなのだが、それならばといざこちらが向かっていくとマンガのように転びながら後ずさりする。顔はもちろん大ピンチの顔をして。
転んだ女の子に近寄っていくと泣き出す。そしてなんだかすごい罪悪感をこちらは感じる。でもまた近寄ってしまう。
エチオピアではよくあることなのだが、子供から「ペンを頂戴!」と言われる。
ここの子供たちはあまりそういうことを言ってこなかったのだが、一人の少年が僕らに向かってそう言い、それをゲブレさんが見ていた。
そしたらとてもとても悲しそうな顔をして、怒るでもなく子供を諭していたのがとても印象的であった。
彼は外国人のためのガイドという、おそらく地域では一番稼ぎの良い方の人なのではないかと思うのだが、まったく奢ることもなく、そして最後にチップを渡そうとしても最初は断られた。
ゲブレさんは地域の子供にいろいろと教えたりして、模範を見せている、と言っていた。
実際にどこまで立派な人なのかは分からないが、二日間も一緒に居て、控えめで信頼のおける人であろう、ということは良くわかった。
エチオピアに行き、曲がりなりにも「世界」の一部を感じ、二年間を終えて帰ってくると何か人の役に立つ、それも何か大きな流れに対して何かできれば、と考えてしまう。
建築の場合であればよりたくさんの人に使ってもらえる建築にかかわる、ということになるのかもしれない。
しかし今帰ってきて一年ちょっとが経ち、まったく逆の視点を持っている。
人間一人が死ぬまでにできることなんて意外に限られているのかもしれない、と。
限られているかもしれないからこそ、大きく何かをしようと思わずに、できることから小さくても、小さく終わってしまうかもしれないとしても関わってみる、取り組んでみる。
そんなことが大事なのかもしれない。
そしてその小さなことや、自分の人生だけを本当にしっかりと進めようとすることは、とても難しいことなのだと最近痛感している。
人間一人が出来ることの小ささを前向きな意味で捉えることで、何か可能性が見えるのではないかと最近は考えている。
そして気が付いたらもしかすると、大きなことへの糸口が気が付かずに見えている時もある、のかもしれない。でも今はその大きなことをとりあえずは考えないでおこう、と思っている。
次回はこのハウズィエンの岩窟教会について書いてみたいと思う。
今回書こうと思ったけど出し惜しみします。
とはいってもこの写真を撮ったのは今から二年弱前(もうそんなに経つのか!!!)、この地域に二度目に訪れた際の写真。
この時は兄貴と一緒で、首都アジスアベバから基本陸路で北部を一周した一部に同じ行程を組んだ。
特に指定はしていなかったのだがハウズィエンについてからのガイドは同じくゲブレさん。
ちなみに下の写真の右側がゲブレさん。
左側は若い奥さんで、というのは嘘で通りがかりの女性。恐らく20歳くらい。とはいっても顔なじみのようでった。
ゲブレさんの写真を撮るよ、と言ったら近くを通りがかった彼女を呼び止めて、一緒に収まった。
たいていのエチオピア人は写真を撮るとすぐにモニターで確認したがり、次来た時にはプリントして持ってきてくれ!と言ってくるのだがゲブレさんは全くそのようなそぶりを見せない人だった。
ゲブレさんはまだエリトリアがエチオピアだったころにエリトリアの大学を出たという。
彼の英語は実際かなり支離滅裂なのだが、その彼曰く、彼のイタリア語はほぼ完璧だという。
ちなみにエリトリアははイタリアと縁が深く、大学の公用語はイタリア語だったそうだ。
タイトルの写真の子供たちは僕ら兄弟がただ散歩しているとどこからともなく寄ってきて、楽しそうについてくる。
こんな感じで。ちなみにこの日本人は兄貴。(無断掲載)
エチオピアの公用語であるアムハラ語を僕は少ししゃべれたのだが、彼らはティグレ語という別の言語をしゃべる為、通じない。
でもフレンドリーで、小さい子を大きな子がしっかりと面倒見て居たりと見ていて楽しかった。
子供や大人まで、エチオピアの人たちは本当に表情が豊かで深い。無邪気で嬉しくなる。
我が父上と母上もエチオピアに来てくれたことがあるのだが、その際に言っていたのは「戦後の日本を見ているようだ」ということ。
これは別に悲観してでも良くいっているわけでもなさそうで、ただそう感じたらしい。
僕が帰国してから土門拳の昭和の写真をそれと知らずに見たことがあり、「どこだろ、エチオピアかな?」と思ったことがあるくらい、戦後の日本とエチオピアの風景は似ている、のかもしれない。
ちなみにこの場所の全景はこんな感じ。
これを見て「日本の戦後を見ているみたい」と言ったわけでは無いので悪しからず。
子供たちはただ着いてきていただけなのだが、それならばといざこちらが向かっていくとマンガのように転びながら後ずさりする。顔はもちろん大ピンチの顔をして。
転んだ女の子に近寄っていくと泣き出す。そしてなんだかすごい罪悪感をこちらは感じる。でもまた近寄ってしまう。
エチオピアではよくあることなのだが、子供から「ペンを頂戴!」と言われる。
ここの子供たちはあまりそういうことを言ってこなかったのだが、一人の少年が僕らに向かってそう言い、それをゲブレさんが見ていた。
そしたらとてもとても悲しそうな顔をして、怒るでもなく子供を諭していたのがとても印象的であった。
彼は外国人のためのガイドという、おそらく地域では一番稼ぎの良い方の人なのではないかと思うのだが、まったく奢ることもなく、そして最後にチップを渡そうとしても最初は断られた。
ゲブレさんは地域の子供にいろいろと教えたりして、模範を見せている、と言っていた。
実際にどこまで立派な人なのかは分からないが、二日間も一緒に居て、控えめで信頼のおける人であろう、ということは良くわかった。
エチオピアに行き、曲がりなりにも「世界」の一部を感じ、二年間を終えて帰ってくると何か人の役に立つ、それも何か大きな流れに対して何かできれば、と考えてしまう。
建築の場合であればよりたくさんの人に使ってもらえる建築にかかわる、ということになるのかもしれない。
しかし今帰ってきて一年ちょっとが経ち、まったく逆の視点を持っている。
人間一人が死ぬまでにできることなんて意外に限られているのかもしれない、と。
限られているかもしれないからこそ、大きく何かをしようと思わずに、できることから小さくても、小さく終わってしまうかもしれないとしても関わってみる、取り組んでみる。
そんなことが大事なのかもしれない。
そしてその小さなことや、自分の人生だけを本当にしっかりと進めようとすることは、とても難しいことなのだと最近痛感している。
人間一人が出来ることの小ささを前向きな意味で捉えることで、何か可能性が見えるのではないかと最近は考えている。
そして気が付いたらもしかすると、大きなことへの糸口が気が付かずに見えている時もある、のかもしれない。でも今はその大きなことをとりあえずは考えないでおこう、と思っている。
次回はこのハウズィエンの岩窟教会について書いてみたいと思う。
今回書こうと思ったけど出し惜しみします。