パソコン作業をした後に家の洗面所で手を洗っていた。
ふと、あと約二ヵ月半後、この洗面台で手を洗うことは一生無いんだな、と思った。
ちょっと錆びた排水溝、汚れの目立つ真っ白な陶器、パイプから水がたまに漏れて水浸しになる床、タイルの手触り、ドアを閉める音。
すると今までエチオピアで過ごしてきたありとあらゆる時間が頭の中に駆け巡った。
ほとんど全てが何てことの無い、そして何の記憶であるかはっきりと分からない断片的なシーン。
誰かと家で喋っている記憶、仲の良いエチオピア人友達の笑顔、仲の良い大家の顔、家の前の砂利道、スックのおばちゃん、強い日差し、田舎の風景、道行く人、街角、喫茶店、ほんとにありとあらゆるいつどこでの記憶か、それともここで過ごしてきた全ての時間から自分が想像で作り出した、当たり前だった全ての風景か。
全てが懐かしく思えた。
正直この国が大好きであるかと問われると良く分からない。
よく分からないと言う事は大好き、ではないのだろうと認識している。
でも好きである。真ん中より好き寄り、ということだろう。
そんな国で過ごしてきたなんてことの無い全てが愛しく思えて仕方が無い。
そして同時にあと二ヵ月半で、今までそんな風に振り返ったことのないこの二年間が一気に過去のものとしてこの国に置いて行かれてしまうのではないかと感じてしまっている。
置いてきてしまうのであろうか?恐らくそんな事はない。
そんな事はないと分かってはいるけれども、帰る、という行為と同時にそれらを置いてきてしまうのではないかと恐れてしまっている。
恐れてしまっているのか?その言葉もしっくりとは来ない。
それとも自分がこの国に、いやこの二年間の記憶に置いていかれると感じているのかもしれない。
自分の選択で二ヵ月半後に帰ると言うよりも、時間が来たからはい終わりですよ、と誰かに言われているみたいに。
でもそれらは紛れもなく30年生きてきている自分の人生の一部であり、蓄積されていくはずである。
なのに今は考えれば考えるほど自分とこの時間が切り離されてしまう気がしてならない。
絶えることなく連続するはずの時間が今はひとつの塊となって後ろを着いて来ている。
どうか離れないで着いて来てくれよ!
ふと、あと約二ヵ月半後、この洗面台で手を洗うことは一生無いんだな、と思った。
ちょっと錆びた排水溝、汚れの目立つ真っ白な陶器、パイプから水がたまに漏れて水浸しになる床、タイルの手触り、ドアを閉める音。
すると今までエチオピアで過ごしてきたありとあらゆる時間が頭の中に駆け巡った。
ほとんど全てが何てことの無い、そして何の記憶であるかはっきりと分からない断片的なシーン。
誰かと家で喋っている記憶、仲の良いエチオピア人友達の笑顔、仲の良い大家の顔、家の前の砂利道、スックのおばちゃん、強い日差し、田舎の風景、道行く人、街角、喫茶店、ほんとにありとあらゆるいつどこでの記憶か、それともここで過ごしてきた全ての時間から自分が想像で作り出した、当たり前だった全ての風景か。
全てが懐かしく思えた。
正直この国が大好きであるかと問われると良く分からない。
よく分からないと言う事は大好き、ではないのだろうと認識している。
でも好きである。真ん中より好き寄り、ということだろう。
そんな国で過ごしてきたなんてことの無い全てが愛しく思えて仕方が無い。
そして同時にあと二ヵ月半で、今までそんな風に振り返ったことのないこの二年間が一気に過去のものとしてこの国に置いて行かれてしまうのではないかと感じてしまっている。
置いてきてしまうのであろうか?恐らくそんな事はない。
そんな事はないと分かってはいるけれども、帰る、という行為と同時にそれらを置いてきてしまうのではないかと恐れてしまっている。
恐れてしまっているのか?その言葉もしっくりとは来ない。
それとも自分がこの国に、いやこの二年間の記憶に置いていかれると感じているのかもしれない。
自分の選択で二ヵ月半後に帰ると言うよりも、時間が来たからはい終わりですよ、と誰かに言われているみたいに。
でもそれらは紛れもなく30年生きてきている自分の人生の一部であり、蓄積されていくはずである。
なのに今は考えれば考えるほど自分とこの時間が切り離されてしまう気がしてならない。
絶えることなく連続するはずの時間が今はひとつの塊となって後ろを着いて来ている。
どうか離れないで着いて来てくれよ!