会いたくて仕方がない相手から連絡があると年がいも何もなく、喜んでしまうものである。それほど電話の向こうから百合から連絡があったことを伝える仲林の声は弾んでいた。
春分の日の前夜にご都合がよろしければまた父がお会いしたいと申している、先日よりもっと具体的詳細に商談として話を進めたい。ついては、いくつか書類もご持参の上、どこそこの中華料理店にご足労願えないか云々といった内容を、欽二は律儀なメッセンジャーとして伝えた。やったな、やったぞと二人とも他愛なく喜び、指折り数えてその日を待つ。
その日は暖かいような、寒いような天気であった。と言い方をすると我々の知性というか、頭の程度が疑われかねないが、実際に頭の辺りはぽやぽやと暖かいのに、脚の方は冷えるといった奇妙な天候だったということで、ご納得いただきたい。ともかく晴れてはいた。いや別に雨が降ろうが、槍が降ろうが、この二人にはどうでもいいのである。欽二などは1時間も前に店に到着し、その豪奢な入り口を見て、「まるで日光東照宮のようだ」とつぶやいて、周りを下見したりしていた。まるで初めてデートする中学生である。窮屈そうに似合わない背広を着ている。我らが主人公はそこまではしない。せいぜいいつもよりヒゲを丹念に剃って、2個所ばかり切り傷を作ってしまったのと……いや、煩わしい言い方はやめて一言で言おう。約束の時間の5時より5分前に時木父娘が現われた時、二人は既に少々お疲れ気味だったと。
一応向こうが招待したのであるから、食前酒、料理の選択といった七面倒なことは、獅子男に基本的に委ねておけばよいのである。それがわかっている宇八と、わからないでウェイターが脇に来るたびにドキドキしてしまう欽二とでは、更に疲れ方、酔い方に差が出る。獅子男が紹興酒だの茅苔酒だのを(我々も違いはよく知らない)頼むのに、欽二は同調するのに忙しく、宇八は平然とビールを注文する。獅子男がここは飲茶が得意で50種類はできると言って、全種類を最終的には平らげてしまうつもりだが、順番なり、何人前ずつ頼もうかとあれこれ品評するのを欽二はいちいち反応したり、追随したりするが、宇八はウェイターが「翡翠餃子2人前でございますね」と確認するところで、「いや、3人前だ」と口を挟んで自分の分を確保するだけですませる。
それよりは今夜の百合の装いの鮮やかさに見入っていた。赤、ピンク、緑、青、紫などが細かいモザイクのようなプリント模様のワンピースに大きめの南洋真珠のネックレスとイアリングをしている。ふだんの宇八なら南洋真珠なんぞ白目をむいたみたいでいやだくらいは言うのだろうが、不思議なほどその日の百合には似合っていると思った。彼女がテーブルの上に置いた指を少し動かしていることで、彼はあまり大きくない音で『トゥーランドット』が流れているのに、初めて気付いた。二人の視線のやり取りからか、獅子男も気付いて言う。
「ほう、今日はクラシックか。この間は、胡弓なんぞを大きな音でやっておって、通俗的だぞと叱ったんだが」
「あら、プッチーニなんて素敵よ。ねえ羽部さん」
こう言われてしまうと、あのオペラにはやたら首をちょん切りたがるお姫様が出てきたなと考えていたくせに、宇八の答えは自動的に「プッチーニは大好きです」となる。
「羽部さんは作曲家でもあるそうですな。その辺りの薀蓄もたっぷりお聴きしたいものだ」
宇八はモーツァルトがいつ頃生まれたとか、ベートーヴェンがどこで死んだかとかになるとさっぱりわからない人間なので、折角のチャンスなのに「はあ」と彼らしくない反応をしてしまう。それを素人相手には話せないぞというように獅子男が取ったかどうかは定かではないが、店長を呼びつけ、何やら耳打ちした。
たくさんの蒸籠が並べられ、蓋がうやうやしく開けられて、湯気が上がる。獅子男と宇八がフカヒレや蟹や貝柱を使った焼売や蒸し物をぽいぽいと口の中に放り込んでいく間に、欽二は小龍包の熱さに頬の裏を焼き、百合は静かに北京ダックを箸で巻いて食べる。
「最近は『不確実性の時代』とかいわれておるようですが、どうなんでしょうな、お二人はどのように見ておられますか? これからの経済というか、日本を」
小さな盃ではまどろっこしいとグラスに注がれた紹興酒をぐいぐい開けながら、獅子男が訊いた。ビールをかぽかぽ飲みながら、大海老のチリソースを殻ごとバリバリ齧っている宇八が先に言えと欽二に目で合図する。
「石油危機から続いていた不況からようやく脱したとは言え、かつてのような所得が倍になるような時代ではもはやないんでしょうか。政府の言うような安定成長ということで、本当に安定するならそれはそれでいいんでしょうが、我々のような弱いところは不安がありますね」
獅子男は軽く頷き、宇八を促す。
「今は何か起こるのを待っているってところですか。……いやちょっと違うな。何か起こそう、犯罪でもなんでも、人をあっと言わせて、どうだおれはこういう人間なんだ。そうさ、おれは機械じゃない、人間だから、こんなひどいことができるんだ、それが自己表現だって思う奴が増える。そんな奴らに陰気な喝采を送る連中が出てきそうな、いやな時代が来るような予感がしますな」
多弁だが、いつものように陽気にまくし立てるのではなく、暗く低い声で言う。
「なるほどおもしろいですな。しかし、そういう連中は食えませんな、まずそうだ」
「そう、吐き出すしかないような連中だ」
「お父様ったら、また人を食べ物に喩えたりして」
空の蒸籠とビール瓶に取り巻かれるようになっていくと、音楽がいつの間にか変わっている。あれはなんだろう、ああ『春の祭典』じゃないかと宇八は思う。
「ほう。さすがに気付かれるのが早い。そうわたしが命じたのです。少しヴォリュームを上げさせましょう」
まだ始まったばかりだ、この曲のおもしろいのは第1部の終わりのところの……。
「はは、よくご存知のようですな。ストラヴィンスキーはお好きですかな?」
この後、『詩篇交響曲』、『兵士の物語』とどんどん作風を変えて、カメレオンと言われていたんだ。
「ほう、その2つがお好みですか?」と畳み掛けてくる。
少し飲み過ぎているのかと、タバコに手を伸ばす自分の手を見ながらはっと気付いた。まだ注文した料理の半ば過ぎだ。そう、こちらから訊いてみよう。
「時木さんは、人を食うのがお好きなようですな。まるで昔の宰相だ」
「はは、バレましたか。何もかもお見通しのようだ。……そう、わたしは物を考えませんのでな。なんで自分で考えなきゃならんのだ。たくさんいる他人の中から、飛び切り頭の良い奴を選んで、そいつにうんと考えさせればいい。そうやって、考え抜いた奴を食べるんですよ、こうやって」
蜂蜜に漬け込んで八角や丁子で香りをつけたスペアリブを手づかみでかぶりつく。百合は海燕の巣入りのスープを優雅に口に運びながら、「ものの喩えですから、お気を悪くしないでください。……父がこういう話をする方は本当に気に入った方だけですから」とあまりそう思っているふうもなく言う。
そう言われても欽二は疲れも手伝って食欲をなくしていて、長い象牙の箸を持ったままぼんやりしている。宇八はそんなことより、音楽に気を取られている。この変拍子が……。
「そう、ここからがおもしろいんですな。だがこのリズムはどうやって取ればいいんでしょうな?」
「ふむ。確かに取りにくいですが、例えば5拍子なら右手で2拍子、左手で3拍子というふうに分ければいいんです」
そう言いながら右手の箸と左手のグラスを少し動かすと、すかさず、「ああなるほど、これなら取れる。おもしろいもんですな」と返事が来る。ふーん、右手で二重唱、左手で三重唱ならいけるぞ、そうかそうすればもつれた糸も。……
「おやおや、羽部さんはご自分の芸術の世界に入られたようだ。うらやましい限りだ」
なぜこの男は、おれが考えていることがわかるんだ? おれは言葉では考えないようにしているはずだったのに。同じようなことをさっき言ったな。こいつはおれも頭から食おうとしているのか? ダメだ、考えると食われる。……いや別にいいじゃないか。こいつも入れて出たとこ勝負の六重唱だ。よしと思って口を開いた。
「はは、時木さんはそうやって人を食ってしまうんですな。これはわたしとしてもぜひ作品にご招待申し上げなければ」
「はっは。さすがに羽部さんは早い。食べるつもりが食べられてしまいそうだ。だが、わたしはまずいですぞ。……さあ、デザートだ。わたしはこれでお暇させていただきますが……ああご持参いただいた書類はわたしがしかと預かりましょう、資金の方はまた後日ということで。商談としてはこれで十分でしょう? 百合は置いていきますので……よくお相手をしなさい」
そう言って再び店長を呼びつけ、二言、三言言うとさっさと出て行った。しばらく3人とも無言でとろけるような香りの杏仁豆腐を口にしている。『春の祭典』がいつの間にか終わり、再び『トゥーランドット』に戻っている。いちばん有名なアリアが聞え、ようやく宇八も欽二も目が覚めたような気がしてきた。
「お父様はユニークな方ですね」と欽二が感に堪えない様子で言う。
「百合さん、お父さんの楽しい話で盛り上がったところで、ちょっとバーでも行きませんか?」
酔っているように見せながら陽気に振舞っているだけと見て誘うと、欽二の心配そうな目をするのを気にするふうもなく、「ええ」と返事が返ってくる。
外に出ると二人とも改めて足元がふらつくのがわかる。近くに磨きこんだ年季の入ったカウンターのバーがあったので、そこに入って、男二人はオン・ザ・ロックスを頼むと百合はブラディ・マリーを注文する。店の中にはブルーノート系のジャズが静かに流れている。
そこで百合と話をした内容は二人ともあまりよく憶えていない。実のところ話をしたのかも定かではない。グラスを重ねた後、カウンターの向こうに見知った人間がいたような気がするが、お互い酔っ払っているからと思い、口にすることはなかった。……
コミカルなかけ詞が楽しいです。次はどうなる??