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2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

田老「第一防潮堤」の今(2)

2013年06月24日 | どうなる田老

(前ページからつづく)

どこも壊れていない、というより、津波の襲撃に耐え、所期の目的を達した見事な建造物であった第一防潮堤がなぜ、人間の手によってこのように破壊されなければならないのか?



 
断面図(1)


今のところブロックの撤去とコンクリート天板のはつり工事という二重苦の破壊であるといえる。これだけの工事で津波遺構のイメージは変わる…。更に上に高さを継ぎ足すためといえ、これで本体の防潮堤が弱体化する事は明らかだ。

 

 

工事は第一防潮堤の物理的弱体化をもたらす

 

鉄筋を切断し、コンクリートを削ったのである。人体に医学的メスを入れる事でさえその後の回復を困難にする。一部分であるとはいえ第一防潮堤のこのような工事上の処置が修復しがたい弱体化を招く事は誰にでも分かる事だ。本末転倒だ。70センチの地盤沈下に対して防潮堤を70センチかさ上げするというもっともらしい理由で防潮堤の強度を犠牲にするものと言える。


 断面図(2)         



地盤沈下した分は防潮堤のかさ上げで挽回(ばんかい)するというが…『かさ上げは堤体頂部に「パラペット工」(波返し工)と呼ばれる高さ平均70センチ、厚さ50センチのコンクリート壁を積み上げ、元の高さにする』ものだという。(毎日新聞の記事と聞いているが)文字面からでは何も伝わってこない。どんな工法かは分からないが恥を覚悟で完成断面図を書いてみると…
 

<海側><陸側>

断面図(3)

 

<海側><陸側>


断面図(4)


断面図(3)や断面図(4)等が考えられるがいずれも強度が落ちている事は分かる…。地盤沈下は第一防潮堤にだけ起こっているわけではない。広範囲の一帯の土地に、平地や港湾や海底に起きているのである。「かさ上げで挽回」などという発想がもともと的はずれな事である。さらに、これらの断面図からは前にあったブロックの隊列の「意味」「高さ」「効用」も無視されている。

 

これでは防潮堤としての弱体化は明瞭である。既に鉄筋は切断されている。ポイントである新旧コンクリートの接合などはどのように進めるのだろうか? 新たにどのような強化策が施されているのか? 強力な津波パワーには外からのコンクリートの張りつけは無力なのだ。ジャーナリズムを通じて、あるいは直接工事者から聞き取って住民の合意をとらなければならないものばかりである。…本来マスコミなどが立ち入って取材し、工事主催者は的確に広報するべき事柄なのであるが…


 

 地盤沈下は理由にならない

 

地盤沈下は第一防潮堤の工事の理由にはならない。地盤沈下とは民族移動や、高台移転や、縄文海進などのレベルの地球規模の地殻変動由来のものである。そのような自然そのもののひずみをどうして第一防潮堤のかさ上げでカバーできるというのか? 笑止千万、自然哲学の欠如。第一防潮堤の沈下自体もそこからはなれた発想でフォローされるべきものであった。むしろ、よほど強固な作りであったのだろう、地盤沈下にも耐えたというべきで、災害のプラス遺産としてあるがままに長く保全されるべきものだったのである。

今の田老地区では10~20メートル(10,000~20,000センチメートル)の津波の高さが問題なのであって、とってつけたように第一防潮堤だけに地盤沈下70センチを云々するのには無理がある。誰もがその工事主義を見抜くべきなのだ。


 

第一防潮堤の破壊は取り返しのきかない失政
第一防潮堤は本当の津波遺産だった 

 

田老第一防潮堤の物理的弱体化の事は先に書いた。それよりもっと大事な事は防災遺構、災害遺跡としての第一防潮堤の勇姿の消滅である。これら断面図はもはや元の第一防潮堤の姿ではなくイメージが大きく逸脱している。すでに宮古市では遺構に指定しているが、そのものが、そのものの本当の姿がなくなってはその精神性が後世に伝わらない。あってはならない事だ。弱体化を含めこのような安易、独善の修理工事は宮古市、岩手県、国の取り返しのきかない失政である事は明らかである。

 昭和8年の三陸大津波を起点として昭和33年に完成するまでの第一防潮堤の田老村、田老町の歴史はそのまま日本の津波防災の良質の精神史であった。当時70歳であった関口村長は現地の指揮を執りながら、徒歩で、汽車で盛岡に向かい、岩手県知事の石黒英彦氏を伴って上野行きの汽車に乗った、と「大津波を生きる」(高山文彦著)にある。政府や国会議員に田老村の復興、とりわけ防潮堤の建設を説いて回ったのである。最初は、高台移転派の県や政府の許可が下りなかったが、村単独の予算で第一防潮堤事業は始まっていた。東京府庁から技術職二名を田老村に招聘して、今に残る、今でいう都市区画整理事業も発足させた。村民、村議会、漁業団体など村をあげて復興に取り組んだのである。

── 第一防潮堤にかぎらず、田老地区の復興・防災の物語はまだまだ語り尽くされてはいない。そのためにもその成果物である第一防潮堤はもとの姿のまま残すべきであった。これからの日本のため、世界のために…

 物語一部は上記「大津波を生きる」に詳しい。第一防潮堤とは関口松太郎村長以下地域が一体になり県や国が一体になって後押しした希有な成功遺構なのである。そんじょそこらにはない精神史の薫るポジティヴ世界遺産なのである。(その一端になるのかもしれない。当時、関口村長を強力に援助したの岩手県石黒知事が作詞した「津波の歌」が残っている。歌うのは盛岡の主婦の方々…。)








上から工事の下見?(写真は web 毎日新聞地方版より 2013.5.11)



(3)につづく


(1)にもどる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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