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2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

リメンバー田老3.11 (その5)津波の歌

2012年03月31日 | どうなる田老

津波の歌

この津波の歌を、盛岡の主婦らの合唱クラブの歌声と初音ミクさんの歌声で聴いてしみじみと田老の事を思いました。田老の人たちはばかじゃなかろうか?と。今、津波の歌=復興の歌をもって話題に出来るのは全国で田老だけでしょう(このことがばかということではありませんよ)。しかも昔は歌っていた。今でもたいていの人は歌える。「おお~つなみ~~~」と私も歌えそうです。避難訓練のときに学校でも歌っていたとか…。
それに校歌。小学校でも中学校でも歌詞に「防浪堤」が書き込まれている校歌なんて。びっくりした。こんなのどこにもない。いまも歌い継がれている。田老の人は自分たちが特別だという事を…

私は、田老の今次津波の死亡者・行方不明者の数を、鍬ヶ崎のそれと比較して何度も述べました。比較して田老の数が多すぎるのは防潮堤に対する過信にあったためと婉曲的に言ってきました。しかし、未曾有の事態にもかかわらずほとんどの人が助かったこと。これは防潮堤のせいではなく、口伝や教育による避難訓練のたまものであった、と書いています。両方とも同じ田老の事を言っています。そして、両方とも、今になって、ばかな言い方をしたものだと自分で反省しています。
町民が津波を歌い、復興を歌い、校歌に防浪堤を歌う程の人たちが、…私につべこべ言われる事は何もないだろうという思い。なんだやっぱり、田老人は生まれながらの津波民族であったという思い。それなのになぜ津波で人が死ぬんだ、という思い。田老ほどの田老で、人が死ぬという事は許されない、という怒りの感情さえありました。生きて助かった田老人はもっともっと反省しなければ…。ミクさんのでさえ「おお~つなみ~~~」の歌声はなくなった方々の慟哭に聞こえます。安易なコンクリート依存はきっぱりやめましょう。



「防浪堤」

先人は不退転の思いで「防浪堤」を築きました。工事も、当時の村長や村民の思いを請けて堅牢に工事しました。防浪堤の高さは海抜10mで止めました。津波の越流(えつりゅう)は覚悟の上だったと思います。越流は田老ほどの人たちなら、漁港防波堤でも岸壁でも、山王岩などの自然断崖でも、いつでも日常的に見ている景色です。大きな津波は当然どこもかしこも越流して来る…

聞きますが、いつからですか?越流を防ぐというように考え始めたのは?「防浪堤」をやめ防潮堤と言い始めたのはいつからですか?呼称はいいです、よくないのは工事に理屈をつけて、なおかつ手抜きが始まったのはいつからですか?たかが越流で、無惨に崩壊したのは第一線堤のたっぱの大きい新しい方だったというではありませんか。東大の先生が調べたらそこには鉄筋も入ってなかったという事です。上と下のコンクリートブロックは噛み合わせの切り込みもなかったというのは本当ですか?本当だと思います。住民もそこは必ず確かめてください。(確かめるといっても写真1枚、図面1枚、一般の人が手に入れるのは難しいと思います。市会議員や県会議員の調査権にたのんで市なり県のデータを見せてもらうのがいいと思います)


悲願だった防浪堤工事が終わり、いつからか政治、行政、土木建設業者の公共工事の防潮堤工事に変わってきたのです。ずさん工事というだけでなく「越流も許しません」「安心安全の防潮堤です」と慢心工事になったのはいつからですか?いつからか、何かが変わったのです。宮古湾沿岸だけでなく、東北地方沿岸は、今次津波にやられたコンクリート施設が死屍累々とつづいています。

歌を聴いて、校歌を読んで、田老では、一人の犠牲者も出してはならなかった、の思いが湧きあがります。

 


やっぱすっ。田老町だべ~なぁ~!ブログ<わがってだっすか?復興の歌編>へのコメントから。写真も同ブログより



大津波 くぐりてめげぬ
雄心もて いざ追い進み 参い上らまし









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