富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

富山県の高校野球が弱い理由が見つかった。

2017年07月17日 | Weblog

まず、勝利よりも、チームワークが優先されている。チームワークは、勝利のための部分最適なのに、それが全体最適に置き換えられている。それは、教育的な配慮である。学生スポーツとしては、教育配慮を最優先することは妥当である。けれども、それでは人生の目標の指導としては、負けに飼いならされることになる。勝利者の栄光は、スポーツの全体最適を評価する唯一の目標である。

サッカーでは、富山第一高校が全国優勝を手にしたことがある。原因は、指導者の力量ではあるが、使用する試合ボールが、基本、幼児から同じボールである。4歳から始めると、16歳では、12年の競技経験がある。さらに、プロ球団の育成チームのリーグへ、普通高校のチームが参加できることである。野球は、長くプロとアマの交流が厳しく制限されてきた。教育優先の思想の名残が、富山人の心性にとりついている。これは、指導者の年功序列の権威主義が保守できるからだ。他府県から優秀なコーチを招いても、教師たちからなる富山県高校野球連盟の役員たちの役員投票権という株式相互持合いの構造は変化しない。

次に弱い理由は、小学4年から硬球を使用するリトル・リーグが存在しないことだ。すべて、先に軟式の野球に体をなじませているので、高校1年生で初めて硬式の球を扱う。すでに、硬式球で6年の体験差がついている。富山の高校3年の夏、硬式球の経験は、わずか2年と3か月である。この経験値は、小学生並みである。硬式球への恐怖心が、投げる、打つ、補球する、全ての動作に不馴れ感が目立つ。軟式と硬式では、走塁も違う。球に当たれば、死ぬ、という恐怖を克服できていない。捕球も体から取りにいかない。バッティングも、体の軸心がぐらぐら、金属バットに回され、バットの振りに波動がある。これは、硬式に求められる体感と体幹が、まるで出来ていない。死と隣り合わせの恐怖心を克服するには時間がかかる。脳がなれる時間がいる。結局、学力も、競技も、不完全燃焼におわる。

学問もチームワークを要するが、僕の場合、コミンテルン史観、毛沢東史観との「死闘」を個人として戦い抜いた。真理は、しばしが常識や、多数派の思い込みの逆のところにある。死と隣り合わせ、そこまで人生の勝敗の場を絞り込んでいないと、不戦敗を予定調和する心性になじむ。それでは、自他ともに認められる達成は得られない。貿易に使用される通貨の形態変化、交換比の変動から、16世紀から現代までの世界経済史は説明できるし、今後も、その視点から歴史の先読みができる。さらに、顧客への商品・サービスの専業性と先駆性という市場行動がステージの変化をもたらす。コミンテルン史観、毛沢東史観では、予言は、武力でしか証明できない。敵対勢力である彼らが、武装する集団であるから、僕は命がけの学問をしてきた。勝つためには、血の叫びがいる。仲良く、ぬるま湯につかる精神こそ、敗者の哲学である。

 

 


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人口数の縮小と、人口品質の高度化:日本の成長戦略

2017年07月17日 | Weblog

外国から多くの観光客が日本にくるから、受け入れる日本の人口数の減少は悲観材料となるだろうか?中国人の日本観光は、中国系の業者がする。在日の中国人が主体となる観光産業が発達する。同じことが、世界各地からの観光客を呼び込むシステムとなる。その場合、日本人は、多くの人口数を投じた観光産業人材を必要としない。日本の公共交通は、時刻が正確なので、外国人が限られた滞在時間を有効に使える。だから、経験者が経験者を呼び込む。リピーターは、自然に増加している。だから、日本列島の消費人口は外客をいれると極端に減少しない。原発の廃炉するべきは、出来るだけ早く除去し、安全を売らなくてはならない。

人口品質の問題は、教育の達成を全て資格化し、指導者講習の受講生の達成度を高めることに尽きる。「ナレッジワーカー」比率を高めることである。8000万人口の時代には、平成以後の生まれが主体となる。昭和前期組が消滅し、昭和後期組が高齢者の主体となる。SNSを全員が使いこなせる人口品質を身に着けている。「ナレッジワーカー」は、医療、福祉の分野でも、弱者にたいする優しさを生み出す原動力となれる。

日本人は、チーム力が強い。職能チームが収益性よりも、ミッション達成に満足度をおく職能倫理をもっている。それと、ソニーに代表されるように、ミニ化、軽量化と高性能化との両立が、日本の技術文明の基本である。

地方再生とか、地方創成という戦中・戦後の異常な農村部への人口還流の時代を夢みる必要はない。一県一県立高等学校、一県一国立大学に「縮小」させ、全寮制といっても、研究開発ラボのようなホテル型の「ナレッジワーカー育成」の新システムを考えることができる。

人口「縮小」は、危機ではない。頭脳の縮小が危機である。全ての日本人の若者たちを均質にではなく、「個性あるナレッジワーカ」に育てるには、逆に20歳までは、均質な日本語教育、数学統計学、図形学、情報処理などの土台の標準化が必要である。だから、紙の教科書は、有償にする。反対に、タブレット端末は国有として、貸与する。すべての小学生から大学院生まで、タブレット端末は、国から貸与される。これは成長戦略である。当然、不適切なアプリは許可しない。


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習近平「核心」化とチャイナ7の役割分担

2017年07月17日 | Weblog

最新の公開資料により、習近平を核心とするチャイナ7の役割分担を分析する。結論は、確かに1強体制であるが、巧みな分業と責任分与がある。

富山大学の経済学部の馬駿教授と半年前に、先生の研究室で雑談したことがある。馬教授は、中国経済の前途、特に金融問題からの大破綻の危険を指摘された。僕は逆に、中国共産党の組織瓦解がないかぎり、金融問題はいくらでも「問題の先送り、無かったことにできる」という政治権力の効果を引き合いに危機接近論を否定した。なぜ、中村が中国経済を長期上昇とみるか?

僕は中国農村社会の研究を一つの専門としている。中国農村は、中国文明の発展とともに、伝統的な「城市」文明からの外延的なはみだしと実証分析している。論文は、日本では非公開。日清戦争の100周年の国際シンポで葉発表、人民出版社から印刷・発行。当時、討論会の場では、中国の農村は、明清時代に新たに成立したもので、中国は、「近代化」の時代に「農村化」した、と論じた。ある極めて賢い中国の教授は、「非常に高度な研究課題だ」と論評、その後、僕が上海の「華東師範大学歴史系客座教授」の推薦状に対し、中国歴史学会からの承認・同意書を政府でだしてもらった。

だから、現在、中国では、この300年間に新生した辺境の貧困農村を農村部の中核都市に吸収し、都市民と農民との戸籍上の大差別を大解消する制度改革が急がれていることを伸び筋だと評価している。これを行政担当しているのが、政治局常務委員の第7位の張高麗国務院副総理である。毛沢東の社会主義は、農民の犠牲と農民への差別により成立した。習近平は、これを180度反転し、伝統的な都市文明の国家として、中国の歴史発展の正方向への転換に成功しつつある。農村・農民の救貧に対し、国家の財政資金を支出し、社会主義的な扶養政策を推進している。かれは、核心として、極貧農の救済をトップの立場で指導している。「孫文」⇒(毛沢東・鄧小平)⇒「習近平」という歴史認識である。やがて、「孫文」⇒「習近平」という太文字に代わるだろう。これが、広東・福建・浙江三省の「旧国民党支配地域」のおける在地の中共党員(孫文主義を良く学びこんだうえで、中共を選んだ)の総意である。1トップが不動で強い指導性をもち、2トップ下、4MFという任務分担の隊形である。農村部の新都市に求められるのは、病院都市の機能である。経済苦と病苦とは、結合しているからだ。まだまだ、医療制度は、社会主義の初歩段階。でも、いつかアメリカには勝てるが、日本には勝てない。中国は、人口が多すぎるからだ。日本は縮小しながら高密度化する。ミニ化と高性能化の文明は、中国にはない。

 


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流木を観て、先人の人工洪水の知恵を思う

2017年07月17日 | Weblog

富山県では、人為の人工の洪水が、物流のために大いに利用されていた。「庄川町史」には、その記録がある。

山から伐採した樹木を、人力や馬でひきおろすような労力を要する「物流」など、原木のレベルではコストに合わないので、人工的に洪水を起こし、その鉄砲水の勢いを利用し、平野部に運んでいた。

渓谷に倒木など商品化できない木を組み合わせ、ダムを造る。そこへ、商品化できる材木の原木に、管理するためにの焼き印を施す。これが飛騨から富山への原木の「物流」の方法だった。いわゆる「鉄砲水」を計画的に行うわけである。

流れが弱くなる淵のある下流では、この流木を集めて、製材する。庄川の青島、神通川の笹津などが、製材拠点となる。富山の場合、水力発電のダムが、このような物流の妨げとなり、長期の地域紛争となった。しかし、このダムのお陰て、局地的な集中豪雨になっても、流木はダムでひとまず食い止められる。民家まで、流木が飛び込んでくることはない。改めて、木材の原木の物流には、ヘリコプター(航空機)の利用が考えられてもよい。

こ自然に倒れたような流木では、商品として木材にはならない。しかし、この膨大なセルロースから新素材が生まれたら、富山県の林業は完全に蘇生する。最近、九州の学生が富山県を学びにくる。富山の大学は、ここに着眼し、若者の人口流動を富山に導くことを考えるべきだろう。CMも九州ローカルは安い。大学の支援も、受験生の全国への告知がいる。こまめに勝る知恵はない。九州大学を筆頭に、九州はまだまだ遅れているようだ。九州のデザイン鉄道には、三協立山㈱のアルミ製品が使われている。九州にとり、富山は先進県である。

ちなみに、不二越は長崎人が創業した企業である。


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流木を観て、国土の保全義務を思う(1)

2017年07月17日 | Weblog

九州の集中豪雨が、流木の被害の深刻さを改めて国民に日本の危機を知らせている。

国防教育には問題があったが、国土保全は、根源的に国民の義務である。近現代の、日本国憲法には、納税により国家機関が国土保全の義務を負っているようである。しかし、古代の国家では、里山は自分たちで管理する。だから、ムラという経営組織が自然に出来上がった。国民であるまえに、村民である。国民一人一人が、理論上、国土保全に義務を負う。富山の場合、農家は水路の保全義務を負う。富山県政は、山林保全、治水、水系管理を基本として成立した。明治16年、富山県が生まれるまでは、水田のまわりに防風林と、稲を乾燥させるために「ハザ」といわれる樹木が植えられていた。富山県の県庁農政は、これを伐採させて、水田の日照を最優先し、品種の改良を行ってきた。県庁が、水田の風景を100%変えてしまった。

さて、山林行政はどうだろうか?今回、林業で有名な「日田市」の流木災害をみると、日本の危機は、森林のなかで進行しているというよりも、都会的な文明が日本を破壊する動力減となっていることがわかる。県立高校を卒業し、郷里を棄てた人たちは、義務として、30年間、年々、「故郷税」を負担するべきである。そうしないと、「県民権」を失い、老後の帰郷に際し、一時金として「帰郷税」を支払わせるべきである。県政は、「村」という経営組織の集合体であり、国家の行政機関の下請けではない。このことを流木被害が教えてくれる。

それと、あの膨大な流木、焼却するのですか?せめて、製紙原料や、バイオマス発電の燃料に使われるのでしょうね。国民に過剰な国土防衛義務を負わせている北朝鮮を嗤ってはいけない。山林の利を棄てた民族の国家には、未来がなくなる。

他山の石に学べる力、それがマネジメント学の基本である。


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今こそ、富山人は内省力と語学力を強めるべし

2017年07月17日 | Weblog

富山マネジメント・アカデミー:不二越の本間会長の発言に怒りを覚えるのは自由である。でも、不二越があったおかげで、1945年に富山大空襲の被害があったというバカが多い。違うのです。第二次世界大戦は、新聞と大衆の「熱狂」の産物。これが歴史研究者のだした結論です。大衆の「熱気」を新聞が紙面で煽ることで、戦争と外交、さらには経済の合理性まで失います。日本が満州事変で、第二次世界大戦の口火を切った、これは世界史の定説です。ここには、内省力と語学力を踏まえた歴史の分析があります。中村哲夫著『日中戦争を読む』という著書に書いてあります。無論、真の戦争原因は、ケインズの通貨改革論が理解できなかった金融・財政の学力の低さに起因します。だから、日本の歴史研究者は、きちんと英語で深い内省力のある日本近代史を書くべきです。それなのに慰安婦問題をめぐり、世界の反日運動に魂を売っている弁護士グループがいます。富山にも、その仲間たちがいます。朝鮮半島に祖先をもち、日本の学校で教育をうけ、日本人として司法試験に合格したり、大学研究者になった植民地被害者の子孫は、子々孫々、「反日本帝国主義批判」を続けます。大メディアも、そのような立場の主張に耳を傾けます。

実は、富山人は歴史研究者としてみると、非常に優秀な日本の民衆コアーなのです。女子力が優れているのです。男の子たちは、何でケンカばかりするんだろう、という眼で世界を眺めています。富山人は、基本、祖母系の社会意識が強いのです。戦争、政治、選挙、派閥闘争、・・・これらをダメな男の子たちのゲーム、遊戯だと、根本、生活次元から突き放してみています。女子力とは、まず、内省をあまり必要としません。わざわざ外国へ行く苦労も選択しません。ほどよい生活環境を守ることに専心します。スーパーのレジ袋をエコバッグに変えた力は、富山人です。富山人は、祖父母系の社会意識にあります。ですから、男の子たちに狂気の熱狂を眺めています。たまに頑張られ、と声をかかますが、本心は、自分の扱いやすい男をそれとなく飼育することに静かな情熱を傾けています。このような富山女子論が富山人を論じる「序論」部分なのです。この夏、富山近代史研究会は、女性が主役、女性史をテーマにするそうです。そこには、内省力、語学力はありません。

不二越の本間会長は、経営者としては、大失格です。経営者に必要な基礎教養が不足しています。私は社員教育に失敗しました、と告白しただけなんです。


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