富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

高齢者対策で失う社会資産の消失

2017年07月12日 | Weblog

私は75歳。後期高齢者の一員である。聞くところによると、来年度から医療費の自己負担額は上昇する。一般会計から、高齢者の医療費を補てんすると、次世代に残すべき社会的な資本の遺産が目減りする。亡国への道筋を確実に歩んでいる。

それが分かりながら、個人としては、個人負担の増額には、懸念を覚える。それは、人情であろう。ただし、極めて底辺化した高齢者からは、負担をお願いする原資がないので、勢い数的な固まりのある中から下の勤労経験のある勤勉な集団に負担をしわ寄せすることになる。互助の精神があるから、勤勉な生産労働を経験してきた側にさらなる互助を強いる仕組みが企画される。

だから、単純な損得の比較論では、過去の高齢者は、恵まれすぎである。けれども、その分、現在の高齢者が、祖父母・父母への個人負担は軽減されていたといえる。問題は、ある時点までくると、高齢者は消滅する日がくる。その結果、日本の少子化社会モデルが落ち着くところに落ち着く。総人口が8000万人の「21世紀後半の新日本」を、悲観的に見るか、それとも、人類社会から比較的に尊敬を集める中規模国家に夢を持たせるのか。答えは、少子化による競争原理社会から、個人別の到達度を慶祝する互いに励ます互助原理社会への転換とみるかである。

孔子の儒学を漢代や、のちの宋代の注による変形された姿ではなく、東周時代の孔子が直面した課題から素直に原理、原則を組み立て直すことも必要かと考えている。富山藩校の広徳館の祭酒であった杏立つは、四書五経を裸にして、孔子と向き合う準備をした。こうした過去の遺産を今に生かすなら、目先の高齢者が医療費で食いつぶす社会資産の消失を補てんすることができる。


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中国では、経営学が農村問題の解決を導く・・・

2017年07月12日 | Weblog

日本の経営学者は、企業を対象としている。一部、例外的に、労働者の諸権利を基軸にして、労働の組織として企業を扱う学者もいる。しかし、基本、都市型の産業を対象とする経営学である。

中国では、管理学といわれる。中国共産党の統治の正統性は、江沢民政権では、「愛国主義」などの歴史意識にもとめる「党史」主導のたちばだった。それが、汚職の横行をゆるした。管理学が、中国共産党の指導原理に採用されたのは、胡錦濤政権の「科学発展観」においてである。ここでは、群衆管理という社会統治の面での「科学的管理」に力点があった。

現在、習近平政権では、農村・農民の貧困、不衛生などの困難に対し、国家財政による取り組みを強め、一時的には、村民自治に丸投げして、農民になかにもある「汚職体質」を泥として、表層化し、見える化したうえで、県、郷の単位の中共の基層党組織を再構成し、党が統治する農業、農村、農民の三つの農にからむ問題の解決にのりだした。そこに登場したのが、農業経営学、農村経営学の学問的な方法を指導原理とする「農村管理学」である。社会主義という国家指令型経済原理により、作物の生産を農村に委託する生産管理の規律を個々の営農指導に及ぼし、村の財政の安定の柱としている。そこでは、毛沢東時代からあった農業部門への税が廃止された。その結果、県政府、郷政府が徴税のために農村に介入する「官」から、村財政に財政収入を保証する「顧客」に転ずることで、在地の共産党員の個人力量の差異を克服するようになった。

このように、中国の経営学者は、援農の次元に視界を広げ、農政学者もマルクス主義の滓を棄て、農業を経営学の手法で改善する指導性に重きをおくようになった。地域的には、浙江方式、河北方式、山東方式がある。まだまだ、先進の事例が見出せる程度である。しかし、農村で暮らすことによるストレスなど、心理的な面にも切り込んだ農村管理学が生まれたことは評価できる。


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