兵庫県養父市にあるJR山陰本線の養父駅です。明治41(1908)年に、和田山駅と八鹿駅間が延伸開業したときに開業しました。開業時につくられたレトロな駅舎が、現在も訪れる乗客を迎えています。
この日は、前回、簡易委託駅になっている養父駅を訪ねたとき、駅スタッフの方からいただいた「但馬各駅停車の旅レシピ たじま漫歩手帖(以下「マップ」)」(但馬地域鉄道利便性向上対策協議会夢但馬2014推進協議会作成)を手に、養父市にある養父市場の町並み見ながら、養父神社まで歩いて来ました。
養父駅前には、古くからの街道である豊岡街道が通っています。写真は和田山側に向かって撮影した街道の写真です。写真の家並みの裏側には、円山(まるやま)川が、街道にほぼ並行して手前に向かって流れています。円山川の源流は、生野銀山で知られた兵庫県朝来市生野町にある円山(標高641.1m)。そこから北に流れ、豊岡市で日本海に注いている一級河川です。
養父駅前の広場から、左(北)に折れて旧街道に入ります。養父市は、平成16(2004)年に、旧養父郡の4つの町、八鹿(ようか)町、養父町、大屋町、関宮町が合併して成立しました。 旧養父町は円山川の中流域に開けた地域でした。そして、養父市場は旧養父郡の中核をなす地域として発展して来ました。養父駅から北に向かって2kmほどの、豊岡街道に沿って広がる地域でした。
左側を走るJR山陰本線と並行して歩いて行きます。この付近の山陰本線は、円山川の氾らんによる洪水対策で、養父駅のある堀畑地区の2ヶ所の山裾からトロッコで運搬した土砂を使って、3mほどの盛り土をして敷設されたといわれています。
右側に「円山川グラウンドゴルフ村」と書かれた看板と、芝のグランドゴルフコースがありました。昼休みの時間でしたので、プレーをなさっている人の姿は見られませんでした。
旧街道は、右に緩くカーブして進みます。 やがて、右後ろから流れてきた円山川と並行して進むようになりました。護岸工事が行われていました。
その先の猿岩踏切で山陰本線を渡ることになります。京都駅から「126k963m」のところにあります。
猿岩踏切の手前から見た猿岩トンネル(全長131m)です。ここから、山陰本線の左側を歩くことになります。
左側にあった地蔵堂です。養父市場で、これと同じようなお堂を他に2ヶ所見ることができました。
左側の丘の上に養父小学校の白い校舎がありました。
養父市場の町に入りました。養父市場は、古くから行われていた「但馬牛(たじまうし)」の牛市のある町として、豊岡街道の宿場町として、また、鯉の養殖が盛んな町として発展して来ました。今も、白壁や土塀のある格子づくりの重厚な民家が残っています。
その先の小学校に向かう通りを過ぎると、三差路に差し掛かります。右手前のお宅の庭の一角に石の道標が残っていました。
「右 京 大坂 はりま 左 いづし」と刻まれています。江戸時代に参勤交代で通った出石藩への道を示しています。ここは、出石藩へ向かう街道の分岐点でした。三差路を右に向かうと、山陰本線を米地(めいじ)踏切で渡り、米地橋で円山川を渡ることになります。その先で、県道104号の交差点を超えて進むと、豊岡市出石町に行くことができます。
米地橋の手前の右側にあった「やぶこいの街公園」がありました。ひらがなで書かれていますが、「養父鯉の街公園」という意味のようです。公園内の看板にあった養父市場の観光マップです。左上が養父駅方面で、右下に向かう街道に沿って集落が広がっています。三差路に戻ります。
10mぐらいで、「全但バス 養父グンゼバス停」がありました。明治26(1893)年、養蚕が盛んであったこの地に、平山節郎氏が養父製糸場を創業しました。その後、事業を拡大して合資会社養盛館になりました。
バス停から右側に向かう通りを、円山川の堤防に向かって歩きます。明治29(1896)年、京都府綾部市で創業したグンゼ(郡是製糸株式会社)は但馬各地の製糸場を合併して、「日本のグンゼ」に発展していました。大正7(1918)年、養父製糸場は「グンゼ養父工場」として新たに出発することになりました。(「まちの文化財(148)グンゼ八鹿工場」養父市教育委員会編)
円山川の堤防の下に、更地になった広い空き地がありました。ここに、グンゼ養父工場があったと思われます。
その先、10mぐらい歩くと、左側に「西念寺」の石柱がありました。元治元(1864)年に起きた蛤御門の変の後、7月から翌年の4月まで、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が新撰組の目を逃れるため、ここ西念寺に移り、寺男に身をやつして潜伏していたと伝えられています。
西念寺の参道を歩いて進みます。左側にある鐘楼の手前に「木戸孝允公潜伏遺跡」の碑が建っていました。「元治元年蛤門の変 出石藩入り潜伏 時々墓吏・・(以下略)」と書かれています。
街道に戻り、先に進みます。左側の看板に「鯉料理 旅館 柏屋」と書かれていました。鯉の養殖が盛んであった養父市場では、「参勤交代の大名が宿泊する宿場町として栄える中で、鯉の洗いや鯉こくなどを郷土料理として振る舞い、むっちりと締まった身が美味と喜ばれてきた」と、いただいたマップには書かれていました。
鯉の養殖をしておられるお宅がありましたので、養殖池を覗かせていただきました。黒い鯉が泳いでいました。「養父市場の鯉の養殖は江戸時代頃に始まったといわれる。町筋につくられた水路に円山川から豊かな水を引いて、養蚕に最適の環境を整え、鯉の大好物である「さなぎ」を豊かにつくることができたため、最初は食用の黒い鯉が養殖されていた」そうです。また、「現在、全国に普及している黒の混じった黒ダイヤ系の品種は、すべてこの地でつくられたもの」ということです(旧街道にあった「説明」より)。
旧街道には通りの両側に、清水が流れる水路がつくられています。民家の前では、水路から清水を庭に引き込むことができるようになっています。そこから入った清水は塀の中の池に溜められて、鯉が飼育されていました。、
そんな池が今も残っていて、錦鯉を飼育しているお宅もありました。
その先の左側に、「錦鯉」の養殖をしておられるお宅がありました。旧街道にあった「説明」には、「錦鯉は昭和12(1937)年、13(1938)年頃に、新潟県から移入した。戦時中衰えたが、戦後に復活して盛んになった」と書かれていました。
この写真は、マップに「旧陣屋屋敷」と書かれていた写真を撮影したものです。江戸時代、豊岡藩や村岡藩、因幡国の諸藩が参勤交代の途中で宿泊した本陣跡で、「かつての造り酒屋」とも紹介されていました。また、『旧陣屋屋敷』には、殿様が宿泊された上座といわれる一段高い座敷造りや、床の間の壁が回転して逃れ部屋へと抜ける細工が残されている」とも書かれています。
錦鯉の養殖をしておられたお宅をふり返って撮影しました。江戸時代に参勤交代の大名が宿泊した本陣であった「旧陣屋屋敷」は、このお宅だと思いました。写真にはなかった正面の門や塀が新たに設けられているなど改修が進んでいたので確定はできませんが、母屋の虫籠窓の形や配置が、写真とよく似た造りになっていたからです。
これは、上の写真のお宅のお隣にあったお宅でした。正面の左側の構造や植木が、「陣屋屋敷」の「マップ」の写真とよく似た造りになっています。しかし、建物の2階部分の構造や窓の形は、「旧陣屋屋敷」の建物とは異なっていました。はやり、先ほどのお宅が「旧陣屋屋敷」だったようです。
その隣のお宅です。「マップ」の「重厚な表情を持つ家並み」の紹介に使われたお宅です。「マップ」の写真と同じ形状でした。かつての雰囲気を最もよく残しているお宅でした。
少し引き返して、錦鯉の養殖をおられたお宅まで戻り、旧街道の向かいの三差路にある建物を撮影しました。近くに「全但バス コミセンやぶ前」のバス停がありました。「コミセン」は「コミュニティセンター」を略したもののようです。「コミセンやぶ」の建物は、明治22(1889)年に発足した養父市場村の役場が置かれていたところに建てられています。なお、養父市場村は、昭和15(1940)年に養父郡養父町になりました。
バス停のそばに、周囲を鉄骨で囲われた四角柱の石碑がありました。石碑の3面に「従是北出石領」と書かれています。江戸時代、出石藩が建てた領境を示す領境石です。もともとは、「御分杭(ごぶんくい)」といわれ「杭」であったのが、延享4(1747)年から石柱になったと、出石藩の文書に書かれているそうです。出石藩の領地である養父市場と、生野代官所が支配する幕府領の堀畑村(養父駅もここにあります)との境界に出石藩によって建てたものです。1辺25cm、高さ170cmで、彫られた文字は21cm四角だそうです。下から1mのところで折れているため、安全のために鉄骨で支えているとのことでした。
旧街道をさらに進みます。左側にあった「但馬牛 黒毛和牛 平山牛舗」。「マップ」に、「松阪牛・神戸牛などのブランド牛の素牛である但馬牛(ぎゅう)などを取り扱うお肉やさん。但馬牛のお肉の取扱高は但馬地域でも有数との人気ぶり! 確かな目で厳選されたお肉をおみやげにどうぞ」と書かれている人気店でした。 駐車場の一角には、先に書いた「錦鯉」に関する説明板がありました。
旧街道にあった下水道のマンホールの蓋です。ここにも鯉が使われています。
旧街道をさらに進みます。緩やかにカーブした通りの先に「全但バス 大藪口バス停」がありました。右折して、円山川に架かる大藪橋をめざします。第七町浦踏切でJR山陰本線を超えて進むと、大藪橋があります。
大藪橋からふり返って見た、旧街道のあたりの光景です。養父駅は、明治41(1908)年、養父駅・八鹿駅間が延伸開業したときに開業しました。当初は「大藪橋の南に設置される計画だったが、用地が確保できなかったので、現在の地に設置されることになった」(「まちの文化財(46) 養父駅開業100周年」養父市教育委員会)といわれています。当初の計画にあった「大藪橋の南」はどのあたりか確認したかったのです。お一人で散歩をされている方がいらっしゃいましたので、お尋ねしました。「場所はわかりませんが、南は、円山川の上流側ですよ」といわれました。写真の左側の辺りに計画されていたようです。
旧街道に戻りました。建て替えられた民家もありましたが、旧街道沿いにはうだつのある民家がまだ残っています。格子や化粧壁のある、平入りのお宅が点在していました。
その先で、旧街道はJR山陰線と並行して進むようになりました。この日めざした養父神社が近づいてきました。養父市場のある但馬地方では、長命で、繁殖力も強い但馬牛(たじまうし)の飼育が、古くから行われていました。農耕や輸送に使う役牛としてだけではなく、食用牛としても人気が高く、養父市場や湯村市場の牛市で取引され、近畿地方の各地へ売られていました。養父市場で開かれた牛市は、中世には、養父神社の祭礼日に、境内で開かれていたそうです。
養父市場の集落が途切れたところに「養父神社」の石碑がありました。崇神天皇30年に鎮座したと伝えられ、「延喜式神名帳」に「明神大社」と記載されている式内社として知られています。「養父の明神さん」と呼ばれ、「農業の神」として多くの信仰を集める神社です。
鳥居をくぐって社殿へ向かいます。中世、養父神社の祭礼日だけに行われていた牛市は、後に町中での取引に発展し、さらに和泉や紀伊地方へも行商に赴いていたといわれています。 現在は、通って来た大藪地区で、牛のせり市が開かれているそうです。
社殿は、応永30(1428)年の建立といわれています。円山川を見下ろす山の中腹に鎮座していました。
JR山陰本線の養父駅のレトロな駅舎を訪ねてやって来た養父市場でしたが、但馬牛の牛市や、参勤交代の宿場町、郷土料理の鯉料理など、見どころの多い町でした。歴史ある町並みをのんびり散策することができました。 いい一日になりました。