トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

養父市場の町並みを歩く

2019年03月31日 | 日記

兵庫県養父市にあるJR山陰本線の養父駅です。明治41(1908)年に、和田山駅と八鹿駅間が延伸開業したときに開業しました。開業時につくられたレトロな駅舎が、現在も訪れる乗客を迎えています。

この日は、前回、簡易委託駅になっている養父駅を訪ねたとき、駅スタッフの方からいただいた「但馬各駅停車の旅レシピ たじま漫歩手帖(以下「マップ」)」(但馬地域鉄道利便性向上対策協議会夢但馬2014推進協議会作成)を手に、養父市にある養父市場の町並み見ながら、養父神社まで歩いて来ました。

養父駅前には、古くからの街道である豊岡街道が通っています。写真は和田山側に向かって撮影した街道の写真です。写真の家並みの裏側には、円山(まるやま)川が、街道にほぼ並行して手前に向かって流れています。円山川の源流は、生野銀山で知られた兵庫県朝来市生野町にある円山(標高641.1m)。そこから北に流れ、豊岡市で日本海に注いている一級河川です。

養父駅前の広場から、左(北)に折れて旧街道に入ります。養父市は、平成16(2004)年に、旧養父郡の4つの町、八鹿(ようか)町、養父町、大屋町、関宮町が合併して成立しました。 旧養父町は円山川の中流域に開けた地域でした。そして、養父市場は旧養父郡の中核をなす地域として発展して来ました。養父駅から北に向かって2kmほどの、豊岡街道に沿って広がる地域でした。

左側を走るJR山陰本線と並行して歩いて行きます。この付近の山陰本線は、円山川の氾らんによる洪水対策で、養父駅のある堀畑地区の2ヶ所の山裾からトロッコで運搬した土砂を使って、3mほどの盛り土をして敷設されたといわれています。

右側に「円山川グラウンドゴルフ村」と書かれた看板と、芝のグランドゴルフコースがありました。昼休みの時間でしたので、プレーをなさっている人の姿は見られませんでした。

旧街道は、右に緩くカーブして進みます。 やがて、右後ろから流れてきた円山川と並行して進むようになりました。護岸工事が行われていました。

その先の猿岩踏切で山陰本線を渡ることになります。京都駅から「126k963m」のところにあります。

猿岩踏切の手前から見た猿岩トンネル(全長131m)です。ここから、山陰本線の左側を歩くことになります。

左側にあった地蔵堂です。養父市場で、これと同じようなお堂を他に2ヶ所見ることができました。

左側の丘の上に養父小学校の白い校舎がありました。

養父市場の町に入りました。養父市場は、古くから行われていた「但馬牛(たじまうし)」の牛市のある町として、豊岡街道の宿場町として、また、鯉の養殖が盛んな町として発展して来ました。今も、白壁や土塀のある格子づくりの重厚な民家が残っています。

その先の小学校に向かう通りを過ぎると、三差路に差し掛かります。右手前のお宅の庭の一角に石の道標が残っていました。

「右 京 大坂 はりま 左 いづし」と刻まれています。江戸時代に参勤交代で通った出石藩への道を示しています。ここは、出石藩へ向かう街道の分岐点でした。三差路を右に向かうと、山陰本線を米地(めいじ)踏切で渡り、米地橋で円山川を渡ることになります。その先で、県道104号の交差点を超えて進むと、豊岡市出石町に行くことができます。

米地橋の手前の右側にあった「やぶこいの街公園」がありました。ひらがなで書かれていますが、「養父鯉の街公園」という意味のようです。公園内の看板にあった養父市場の観光マップです。左上が養父駅方面で、右下に向かう街道に沿って集落が広がっています。三差路に戻ります。

10mぐらいで、「全但バス 養父グンゼバス停」がありました。明治26(1893)年、養蚕が盛んであったこの地に、平山節郎氏が養父製糸場を創業しました。その後、事業を拡大して合資会社養盛館になりました。

バス停から右側に向かう通りを、円山川の堤防に向かって歩きます。明治29(1896)年、京都府綾部市で創業したグンゼ(郡是製糸株式会社)は但馬各地の製糸場を合併して、「日本のグンゼ」に発展していました。大正7(1918)年、養父製糸場は「グンゼ養父工場」として新たに出発することになりました。(「まちの文化財(148)グンゼ八鹿工場」養父市教育委員会編)

円山川の堤防の下に、更地になった広い空き地がありました。ここに、グンゼ養父工場があったと思われます。

その先、10mぐらい歩くと、左側に「西念寺」の石柱がありました。元治元(1864)年に起きた蛤御門の変の後、7月から翌年の4月まで、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が新撰組の目を逃れるため、ここ西念寺に移り、寺男に身をやつして潜伏していたと伝えられています。

西念寺の参道を歩いて進みます。左側にある鐘楼の手前に「木戸孝允公潜伏遺跡」の碑が建っていました。「元治元年蛤門の変 出石藩入り潜伏 時々墓吏・・(以下略)」と書かれています。

街道に戻り、先に進みます。左側の看板に「鯉料理 旅館 柏屋」と書かれていました。鯉の養殖が盛んであった養父市場では、「参勤交代の大名が宿泊する宿場町として栄える中で、鯉の洗いや鯉こくなどを郷土料理として振る舞い、むっちりと締まった身が美味と喜ばれてきた」と、いただいたマップには書かれていました。

鯉の養殖をしておられるお宅がありましたので、養殖池を覗かせていただきました。黒い鯉が泳いでいました。「養父市場の鯉の養殖は江戸時代頃に始まったといわれる。町筋につくられた水路に円山川から豊かな水を引いて、養蚕に最適の環境を整え、鯉の大好物である「さなぎ」を豊かにつくることができたため、最初は食用の黒い鯉が養殖されていた」そうです。また、「現在、全国に普及している黒の混じった黒ダイヤ系の品種は、すべてこの地でつくられたもの」ということです(旧街道にあった「説明」より)。

旧街道には通りの両側に、清水が流れる水路がつくられています。民家の前では、水路から清水を庭に引き込むことができるようになっています。そこから入った清水は塀の中の池に溜められて、鯉が飼育されていました。、

そんな池が今も残っていて、錦鯉を飼育しているお宅もありました。

その先の左側に、「錦鯉」の養殖をしておられるお宅がありました。旧街道にあった「説明」には、「錦鯉は昭和12(1937)年、13(1938)年頃に、新潟県から移入した。戦時中衰えたが、戦後に復活して盛んになった」と書かれていました。

この写真は、マップに「旧陣屋屋敷」と書かれていた写真を撮影したものです。江戸時代、豊岡藩や村岡藩、因幡国の諸藩が参勤交代の途中で宿泊した本陣跡で、「かつての造り酒屋」とも紹介されていました。また、『旧陣屋屋敷』には、殿様が宿泊された上座といわれる一段高い座敷造りや、床の間の壁が回転して逃れ部屋へと抜ける細工が残されている」とも書かれています。

錦鯉の養殖をしておられたお宅をふり返って撮影しました。江戸時代に参勤交代の大名が宿泊した本陣であった「旧陣屋屋敷」は、このお宅だと思いました。写真にはなかった正面の門や塀が新たに設けられているなど改修が進んでいたので確定はできませんが、母屋の虫籠窓の形や配置が、写真とよく似た造りになっていたからです。

これは、上の写真のお宅のお隣にあったお宅でした。正面の左側の構造や植木が、「陣屋屋敷」の「マップ」の写真とよく似た造りになっています。しかし、建物の2階部分の構造や窓の形は、「旧陣屋屋敷」の建物とは異なっていました。はやり、先ほどのお宅が「旧陣屋屋敷」だったようです。

その隣のお宅です。「マップ」の「重厚な表情を持つ家並み」の紹介に使われたお宅です。「マップ」の写真と同じ形状でした。かつての雰囲気を最もよく残しているお宅でした。

少し引き返して、錦鯉の養殖をおられたお宅まで戻り、旧街道の向かいの三差路にある建物を撮影しました。近くに「全但バス コミセンやぶ前」のバス停がありました。「コミセン」は「コミュニティセンター」を略したもののようです。「コミセンやぶ」の建物は、明治22(1889)年に発足した養父市場村の役場が置かれていたところに建てられています。なお、養父市場村は、昭和15(1940)年に養父郡養父町になりました。

バス停のそばに、周囲を鉄骨で囲われた四角柱の石碑がありました。石碑の3面に「従是北出石領」と書かれています。江戸時代、出石藩が建てた領境を示す領境石です。もともとは、「御分杭(ごぶんくい)」といわれ「杭」であったのが、延享4(1747)年から石柱になったと、出石藩の文書に書かれているそうです。出石藩の領地である養父市場と、生野代官所が支配する幕府領の堀畑村(養父駅もここにあります)との境界に出石藩によって建てたものです。1辺25cm、高さ170cmで、彫られた文字は21cm四角だそうです。下から1mのところで折れているため、安全のために鉄骨で支えているとのことでした。

旧街道をさらに進みます。左側にあった「但馬牛 黒毛和牛 平山牛舗」。「マップ」に、「松阪牛・神戸牛などのブランド牛の素牛である但馬牛(ぎゅう)などを取り扱うお肉やさん。但馬牛のお肉の取扱高は但馬地域でも有数との人気ぶり! 確かな目で厳選されたお肉をおみやげにどうぞ」と書かれている人気店でした。 駐車場の一角には、先に書いた「錦鯉」に関する説明板がありました。

旧街道にあった下水道のマンホールの蓋です。ここにも鯉が使われています。

旧街道をさらに進みます。緩やかにカーブした通りの先に「全但バス 大藪口バス停」がありました。右折して、円山川に架かる大藪橋をめざします。第七町浦踏切でJR山陰本線を超えて進むと、大藪橋があります。

大藪橋からふり返って見た、旧街道のあたりの光景です。養父駅は、明治41(1908)年、養父駅・八鹿駅間が延伸開業したときに開業しました。当初は「大藪橋の南に設置される計画だったが、用地が確保できなかったので、現在の地に設置されることになった」(「まちの文化財(46) 養父駅開業100周年」養父市教育委員会)といわれています。当初の計画にあった「大藪橋の南」はどのあたりか確認したかったのです。お一人で散歩をされている方がいらっしゃいましたので、お尋ねしました。「場所はわかりませんが、南は、円山川の上流側ですよ」といわれました。写真の左側の辺りに計画されていたようです。

旧街道に戻りました。建て替えられた民家もありましたが、旧街道沿いにはうだつのある民家がまだ残っています。格子や化粧壁のある、平入りのお宅が点在していました。

その先で、旧街道はJR山陰線と並行して進むようになりました。この日めざした養父神社が近づいてきました。養父市場のある但馬地方では、長命で、繁殖力も強い但馬牛(たじまうし)の飼育が、古くから行われていました。農耕や輸送に使う役牛としてだけではなく、食用牛としても人気が高く、養父市場や湯村市場の牛市で取引され、近畿地方の各地へ売られていました。養父市場で開かれた牛市は、中世には、養父神社の祭礼日に、境内で開かれていたそうです。

養父市場の集落が途切れたところに「養父神社」の石碑がありました。崇神天皇30年に鎮座したと伝えられ、「延喜式神名帳」に「明神大社」と記載されている式内社として知られています。「養父の明神さん」と呼ばれ、「農業の神」として多くの信仰を集める神社です。

鳥居をくぐって社殿へ向かいます。中世、養父神社の祭礼日だけに行われていた牛市は、後に町中での取引に発展し、さらに和泉や紀伊地方へも行商に赴いていたといわれています。 現在は、通って来た大藪地区で、牛のせり市が開かれているそうです。

社殿は、応永30(1428)年の建立といわれています。円山川を見下ろす山の中腹に鎮座していました。           

JR山陰本線の養父駅のレトロな駅舎を訪ねてやって来た養父市場でしたが、但馬牛の牛市や、参勤交代の宿場町、郷土料理の鯉料理など、見どころの多い町でした。歴史ある町並みをのんびり散策することができました。 いい一日になりました。





JR山陰本線のレトロ駅、養父駅

2019年03月25日 | 日記

JR山陰本線の養父駅です。JR山陰本線は、京都駅と山口県下関市の幡生駅間を、日本海側を経由して結んでいます。昭和8(1933)年に、最後まで残っていた須佐駅と宇田郷駅間が延伸開業して、正明市駅(しょうみょういち駅・現在の長門市駅)と仙崎駅間の支線を含めて全線が「山陰本線」となりました。山陰本線には、その長い歴史を伝える開業当時からのレトロな駅舎が残っています。今回は、そんな駅の一つ、JR養父(やぶ)駅を訪ねて来ました。

JR姫路駅からJR播但線の列車で、山陰本線の和田山駅に着きました。そこで、福知山駅からやって来た豊岡駅行きの列車に乗り継ぎました。113系の2両編成、ワンマン運転の列車でした。

和田山駅から5分ぐらいで、次の駅である養父駅の1面2線のホームに着きました。下車しましたが、行き違いのため、列車は停車したままでした。養父駅は、兵庫県養父市堀畑にあります。和田山駅から5.2km、次の八鹿(ようか)駅まで7.0kmのところにありました。

到着してから4分ぐらいで、行き違い列車である、新大阪駅行きの”特急こうのとり14号”が通過して行きました。「養父」という駅名から、どうしても連想してしまうのは、「藪(やぶ)医者」ということばです。江戸時代の俳人、松尾芭蕉の門弟の森川許六(きょろく)が編纂した「風俗文選」の中には、次のような一節があるそうです。
「ある名医が養父に住み、土地の人々の治療を行っていたが、死にそうな病人を治すほどの名医だった。その評判を聞いて多くの医師の卵が養父の名医の弟子となったという。こうして、『養父の名医の弟子』といえば、病人もその家族も信頼し、薬の効果も大きかったという。『養父医者』は名医の代名詞となり、『自分は養父の名医の弟子』」と自称する医師が続出し、いつしか「藪医者」ということばが広がり、ヘタな医者を意味するようになった。」
「養父医者」ということばは、本来は、「養父の名医」を表すことばでしたが、それを悪用する人が出てきたため、「下手な医者」「藪医者」を意味するようになっていったようです。(「藪医者の語源は、養父の名医」養父市健康福祉部保健医療課)

ホームにあった木造の上屋が見えました。壁に掲示しているように、大阪方面行きが1番ホーム、豊岡駅方面行きが2番ホームを使用しています。特急列車の通過も多い駅ですが、1線スルーにはなっていないようです。

上屋の中に設けられていた待合室です。四面ともにガラス張りのつくりになっています。

写真は、待合室の内部です。つくりつけのベンチがあるだけのシンプルなつくりでした。ゴミ一つない清潔な待合室でした。

養父駅が開業したのは、明治41(1908)年7月1日、官設鉄道が和田山駅・八鹿駅間を延伸開業させたときでした。当時、福知山駅と和田山駅間はまだ開業していなかったので、和田山駅から姫路駅(現在の播但線)経由で大阪とつながっていたそうです。そのため、開業の翌年、線路名称が制定された時には播但線の駅になっていました(ちなみに、和田山駅・姫路駅間は、明治39(1906)年に開業しています)。 福知山駅・和田山駅間が開業したのは、明治44(1901)年。養父駅が播但線から山陰本線の駅になったのは、明治45(1912)年3月1日のことでした。養父駅は、開業から111年目を迎えています。待合室のある上屋の和田山駅側の柱に「建物財産標」がありました。「旅客上屋1号 昭和24年3月」と記されていました。上屋が設置されてからでも、すでに70年が経過しています。

長いホームを和田山駅方面の端に向かって歩きます。和田山方面に向かう列車が走る線路の左側に側線がありました。

豊岡駅方面に向かって引き返します。ふり返ると、先ほどの側線の車止めがありました。かつては、このスペースに2本の側線があったそうです。側線の外側のスペースの先には自転車の駐輪場がつくられていました。ここは、貨物の積み降ろしをしていたところで、駐輪場のあるところは、貨物の倉庫が建っていたところだったそうです。

養父駅は駅舎からホームの移動には、跨線橋を利用するようになっています。ここは跨線橋への出入口です。

跨線橋の出入口からさらに豊岡駅方面に進むと、ホームの端になります。そこから、駅舎と駅舎前の跨線橋を撮影しました。柵の上の跨線橋にプレートがありました。「養父駅こ線橋 設計 福知山鉄道管理局 着工 昭和55年11月20日 しゅん功 昭和56年3月19日」と、プレートに刻まれていました。昭和56(1981)年の竣工以前は、構内踏切で線路を横断していたようです。

跨線橋を渡って駅舎前に降りました。駅舎には、開業時からのつくりつけの長い木製のベンチが残っています。中央の改札口から、緑にペイントされた駅舎内に入ります。

駅舎に入った右側に、木製の棚や窓口の木の枠が懐かしい出札窓口がありました。木枠の中にあるガラスを上下させて、出札業務が行われていました。駅舎内の風景も、開業時のままの姿を残しています。傍らに「JR西日本乗車券発売所 営業時間 6:30~14:30」という掲示がありました。養父駅は昭和59(1984)年から、窓口業務だけを委託する「簡易委託駅」になり、養父市が受託しているそうです。この日は、高齢の男性が業務に就いておられました。

窓口の棚を支える金属製の装飾です。2つの窓口のうち片側だけに残っていました。これも、開業時からのものだそうです。

待合いのスペースです。木製の2脚のベンチが設置されていました。駅舎内の写真を撮っていたら、業務に就いておられた駅スタッフの方が、声をかけてくださいました。JRにお勤めだったといわれるスタッフの方から、養父駅に関するお話をお聞きすることができました。

駅舎から線路方向の光景です。今は進入禁止で柵が設置されていましたが、ホームに向かう構内踏切がありました。かつて、昭和天皇がこの駅においでになったとき、ここを歩いて駅舎に入られたそうです。

駅舎から跨線橋の付近に出ました。ホームの豊岡方面の端です。駅名標示や構内踏切に降りていくスロープも見えました。「もともとのホームは石垣の部分。乗客の安全のために嵩上げされた」とのことでした。

跨線橋の出口から見た豊岡方面です。右側の白い建物はトイレです。トイレの前のコンクリートのたたきのところで、「ポイントの切り替えを手動で行っていた」そうです。

トイレの向こうの駅舎前の庇も「開業当初からあった」とのことでした。

駅舎から駅前広場に出ました。明治41(1908)年に開業したときにつくられた駅舎です。寄棟造りの瓦葺きの駅舎です。雪国の駅らしく、屋根に雪止めがつくられていました。2機の自動販売機の間が出入口です。駅舎の外には庇がつくられており、自動販売機やベンチが設置されていました。

白い自動販売機の脇の出入口の柱に、「建物財産標」がありました。「建物財産標 本屋1号(駅本屋)明治41年3月」と記されていました。養父駅のある養父市は、平成16(2004)年、養父郡内の4町(八鹿町・養父町・大屋町・関宮町)が合併して成立しました。養父駅のあるあたりは、合併前の養父郡養父町で、町の中心は、養父駅から豊岡駅方面に向かって2kmぐらい離れた養父市場付近にありました。計画では、養父市場に駅を設置することになっていましたが、用地の確保が難しく、現在地に設置されたそうです。鉄道が通ると蒸気機関車の煙で洗濯物が汚れる、騒音でうるさいなど、安穏な生活に支障が出ることを恐れたのではないかといわれています。堀畑地区では、地元にあった御所森神社を移設して駅を建設したといわれています。駅名の中に「養父市場」が残っています。 

窓には、たくさんのガラスが使用されています。開業当時、ガラスは大変な貴重品だったそうです。駅舎の前には庭園が整備されていました。手入れも行き届いていてきれいでした。山陰本線は、円山川に沿って敷設されています。そのため、洪水対策として水田から3m高く土を盛り上げて線路を敷設していったそうです。そのための土砂は、堀畑地区の2ヶ所からトロッコで運ばれたと伝えられています。

駅舎の外側にあった毛筆の駅名標です。長い歴史を感じます。

駅舎の瓦にあった文様です。どんないわれがあるのでしょうか。

駅舎に向かって左側(和田山側)にあった自転車駐輪場と駐車場です。養父駅はかつて貨物の取扱いが盛んでした。旧養父町の中心、養父市場では、但馬牛の牛市が開かれていました。「その牛市で買われた子牛が一度に貨車50台に積み込まれていた」ということです。また、「日曹鉱業株式会社は、加保鉱山の鉱石を運搬する専用貨物ホームを、昭和15(1940)年に建設した」そうです。鉱石の輸送では、山中鉱山、明延(あけのべ)鉱山、十二所鉱山なども養父駅から積み出していたそうです。また、地元産の木炭の出荷基地にもなっていたといわれています(養父市教育委員会「まちの文化財(46)養父駅開業100周年」)。隆盛を誇った貨物輸送も、モータリゼーションの発達により、昭和45(1970)年、廃止となりました。

駅前広場の先に、旧街道の面影が残る通りがありました。線路の敷設のとき、3mの盛り土をしたため「表側から見ると2階建てですが、裏側から見ると3階建てになっていますよ」と、駅のスタッフの方はおっしゃっていました。

家並みの裏側のようすです。右の石垣の上に旧街道や駅前広場があります。石垣の手前に1階部分がつくられていて3階建ての建物になっています。

駅から養父市場方面に向かって下り坂の旧街道を10分ほど歩いたあたりの山陰線です。3mの盛り土をしたことがよくわかります。

開業当時の面影が残るJR山陰線養父駅を訪ねてきました。
駅スタッフの方のお話しと養父市教育委員会が制作された「まちの文化財(46)養父駅開業100周年」が大変参考になりました。










朝鮮通信使の寄港地、牛窓の町並み(2)

2019年03月19日 | 日記

岡山県瀬戸内市牛窓町は、”日本のエーゲ海”と称し観光業によって町の活性化を図っている岡山県東部にある町です。この町は古くから内海航路の風待ち、潮待ちの港として知られており、江戸時代には将軍の代替わりに来日し、江戸に向かった朝鮮通信使の寄港地としても知られていました。写真は、朝鮮通信使の資料を展示している海遊文化館と、朝鮮通信使が4度宿泊した本蓮寺です。前回は、海遊文化館でいただいた「しおまち唐琴通り散策まっぷ(以下「マップ」)」を手に、岡山藩が整備した、岡山城下町と牛窓をつなぐ牛窓往来(唐琴通り)を、本蓮寺から関町まで歩いて来ました。

マップの左上から町並みの間を抜ける、緑で示された通りが唐琴通りです。前回は、4つ目のオレンジ印の右(東)のミニ広場のあたりまで歩き、石段を上って菅原道真を祀る「天神社」まで行ってきました。

マップに「関町ミニ公園」と書かれている広場です。道端に、牛窓往来の往来の説明板が白く見えています。

その手前にあった「フードショップ ナカニワヤ」のお店の脇を右折して進みます。

港の手前に乗車してきた東備バスの終点、牛窓バス停がありました。右側には、「仕出し料理寿司 寿司勝」のお店がありました。通りがかった人は「ここは以前3階建てだったよ」と、相手の方に話しておられました。

海岸沿いの道を右折して、海遊文化館方面に向かって引き返します。前島フェリーの”第七からこと”が入港するところでした。フェリーは、目の前にある前島と牛窓とを結び、1日20便が運行されています。

フェリー乗り場にあった観光センター「せとうちキラリ館」です。観光案内とおみやげの販売も行っています。

唐琴通りに戻ります。「関町だんじり」の収納庫の向こうに「写真のマサモト」のお店。その先に和風の建物が見えました。丘の上の白い建物は「あいの光病院・牛窓」ですが、以前はここに牛窓東小学校があったそうです。

和風の豪壮なお宅は”牛窓・備中屋・高祖の酒「千寿」”のブランドで知られる高祖酒造の発祥の地です。天保元年(1830)年創業。木造2階建て本瓦葺きの主屋は、正面1階は出格子で、2階はなまこ壁と黒漆喰でつくられており、明治25(1892)年頃に改装されたそうです。裏には赤煉瓦の煙突と白壁の土蔵が残っています。高祖酒造は、現在は瀬戸内市牛窓支所の前に移転して、醸造を続けておられます。

裏に回りました。かつては板塀で敷地を囲んでいたそうですが、現在は取り壊されていました。赤レンガで、長い面と短い面を交互に積んでいくイギリス積みの煙突は、昭和7(1932)年頃につくられたといわれています。基底部は1.2m、高さは15mあるそうです。見えにくいのですが、東面と西面には「千壽」の文字も残っています。”牛窓港の赤煙突”として親しまれてきました。主屋や煙突、蔵座敷、井戸洗い場は、平成19(2007)年、国の登録有形文化財に登録されています。

高祖酒造の前からあいの光病院・牛窓に向かう通りがあります。その脇に、白壁の建物と屋根のついた井戸がありました。白い建物は下見板張りの壁が白く塗られています。「関町だんじり」の収蔵庫の並びにあった「写真のマサモト」の以前のお店だそうです。明治20(1887)年、初代の正本平吉氏創業のお店です。

高祖酒造の建物の向かいにあった「学校の井戸」です。気候温暖で雨も少なく、大きな河川もなかった牛窓では、昭和34(1959)年に上水道が完成するまで、各所に共同井戸がつくられ活用されていました。この井戸は、昭和43(1968)年までこの丘の上にあった牛窓東小学校も使用していたため、このような名前がついたといわれています。

関町ミニ公園に戻りました。唐琴通りを東に向かって歩きます。

高祖鮮魚店、割烹旅館川源の裏を過ぎると左側に空き地があり、通りの脇に「中屋発祥の地」「高祖保生誕地」の石碑がありました。中屋という屋号の高祖家があったところで、戦後は洋品店を営んでいたそうです。戦前、詩人として活躍した高祖保は、ここで生まれました。そして、8歳のときに父金次郎が亡くなったため、母の実家のある彦根に移り、18歳までを彦根で過ごしました。その後、詩人として活躍していましたが、昭和19(1944)年、陸軍中尉として応召され、翌年34歳のとき、ミャンマーで戦死しました。今は閉館していますが、高祖保の資料を集めた「私設手づくりミニ資料館 なかなか庵」があり、彼を慕う人たちが訪れていたそうです。

その先の左側に、伏見稲荷を連想させる、小さな鳥居の並ぶ参道がありました。その先に拝殿と銅板葺きの本殿がありました。最一(さいいち)稲荷神社です。マップには「『由来記』によれば、明治4(1871)年、北側の山にいた老狐がここで天寿を迎えました。霊狐は神のように人の願いをかなえるようになり、明治7(1874)年京都伏見稲荷から神璽(しんじ)を賜った」といわれています。残念ながら「近日、撤去予定」と、マップに書かれていました。

西町を歩いています。左側に、地元西町の保存会の人々によってつくらえた「金刀比羅宮・荒神社」の道標がありました。

牛窓は神社・仏閣は山の上に建てられているようです。金刀比羅宮の境内に来ました。正面の海には、元禄8(1695)年、岡山藩主池田綱政が津田永忠に命じてつくらせたまっすぐな波止め、「一文字波止」が見えました。岡山藩の新田開発や土木事業に大きな功績を挙げた津田永忠は、近くの犬島から運んだ花崗岩を使って、10ヶ月という短期間に完成させた、堅牢な波止でした。この完成によって、牛窓は北前船の寄港地になるなど、物資の集散地として発展していくことになりました。

こちらは、東方向です。遠くの甍は、妙福寺(東寺)の観音院。目の前には、ドイツ製のレンガが鮮やかな「街角ミュゼ牛窓文化館」(以下「街角ミュゼ」)が見えました。

唐琴通りに降りてきました。さらに歩きます。すぐに、街角ミュゼが見えてきました。この建物は、大正4(1915)年、旧牛窓銀行本店として、建設されました。牛窓銀行は、地元の豪商の人たちが、明治10(1877)年、貯蓄と利殖のために、株式会社集成社を結成したことに始まります。明治16(1883)年から金融業を始め、明治26(1893)年に、銀行条例に準じて「牛窓銀行」と改称しました。

本店を建設してからは、金融合併を繰り返し、昭和5(1930)年、中国銀行牛窓支店になりました。その後、昭和55(1980)年に中国銀行は新店舗に移ることになり、牛窓町に寄贈されることになりました。そして、平成9(1997)年、現在の街角ミュゼ牛窓文化館になりました。また、同年、国の登録有形文化財に登録されました。牛窓町で最初の登録でした。

内部です。吹き抜けになっており、白い漆喰で仕上げられています。上の窓を開閉するためにキャットウオークもつくられています。現在は牛窓の歴史や文化を伝える展示場として使われています。

町角ミュゼの手前の道に「御茶屋井戸」(マップには「通信使ゆかりの井戸」と書かれています)への案内板がありました。行ってみることにしました。

御茶屋井戸です。近くにあった「井戸枠」には、「御茶屋で通信使を迎えるために、承応3(1654)年6月、岡山藩によって掘られた井戸」と書かれているそうです。井戸枠はこれまで何回か取り替えられており、現在の井戸枠は、明治10(1877)年に取り替えられたものだといわれています。残念ながら、私には井戸枠の文字を読むことはできませんでした。

朝鮮通信使の宿泊などの接待のためにつくられた御茶屋は、寛文9(1669)年に岡山藩主の別邸があったところに接待所を増築して整備されたそうです。マップを見ると、御茶屋は、街角ミュゼの向かい側、今はレストランになっている長屋門のあるお宅のあることろにあったようです。

海側から見た御茶屋跡の光景です。広々とした敷地に、御茶屋がつくられていたことがわかります。

御茶屋跡から見た港のようすです。マップには、海に突き出した突堤の付け根のあたりに、港を管理する岡山藩の「港在番所」があり、その先には、そこに仕えていた人たちの「足軽屋敷跡」があったと書かれていました。

さらに進みます。通りには、かつての雰囲気を残す景色が残っています。右側のお宅は、木崎商店です。前回、関町の旧牛窓町役場の跡地付近に、「和洋船舶用品店 木崎商店」という宣伝広告があったのを思い出しました。今は、閉店されているようです。通りの右側は、足軽屋敷が並んでいたところのようです。

その向かいにある空き地には、かつてバスターミナルがありました。大正7(1918)年に、牛窓・尾張間と牛窓・西大寺間で乗り合いバスの運行が始まったとき、ここがバスターミナルになっていました。「5、6人乗りの乗合バスが2~3台、ここに発着していた」と、当時を知る人のお話が紹介されていました。乗合バスの会社は大正15(1926)年に邑久自動車と改称され、昭和30(1955)年に両備バスに併合されたそうです。その先に海が見えるようになりました。

マップに、「番所跡」と書かれた広場に着きました。正面に灯籠堂が見えました。灯籠堂の手前には「恵比須宮・竜王宮」が、左側の石段の先には、航海の神として尊崇されている五香宮が祀られています。

五香宮の境内から見た灯籠堂です。江戸時代の延宝(1673~1681)年間、航行する船舶が増えてきたのに対応するため、、岡山藩主池田綱政が夜間の航行の目印(灯台)として設置しました。出崎の突端の岩盤の上に、割石積みの基壇を築き、その上に木製の灯籠台を建てていました。明治になって取り壊されていましたが、昭和63(1988)年に復元されたそうです。基壇の下部は東西、南北ともに4.9m。上部は東西、南北ともに4.3m、高さは2.2m。岡山藩がこのとき建設した4ヶ所の灯籠台のうち、完全に残っているのはここと大漂(大多府)の2ヶ所だけだといわれています。灯籠堂の向こうは前島です。

五香宮の境内から見た東町の光景です。牛窓は、木造船をつくる船大工の人々が多数居住していたところです。そのため、船材を扱う木材問屋で財を成した商人も多かったといわれています。その町をめざして歩きます。

灯籠堂の基壇にあった「これより造船の町 東町」の案内にしたがって、さらに海岸沿いの通りを進みます。

通りの右側にあった建物です。入口の上にある白い看板には「岡本造船」と書かれていました。このあたりは東町字新町です。「文政(1818~1829)年間には、船大工頭の平兵衛という人がおり、その配下には150名の船大工と300人を超す木挽きがいました。岡山藩主から五香宮付近の東町字新町に屋敷地を賜り名字帯刀も許されており、灯籠堂の管理も任されていた」(「牛窓みなと文化」による)そうです。

通りの左側の空き地の上に、妙福寺の観音院が見えました。創建は天平勝宝(749~756)年間。現在の建物は、鬼瓦の銘から、江戸時代の延享3(1746)年に再建されたものだといわれています。入母屋造りの本瓦葺きで、江戸時代中期の密教寺院の本堂の様式を残している建物だそうです。左側には五香宮があるはずです。

東町に近づいてきました。たくさんの船が停泊しています。その向こうに草木造船の工場が見えます。

海岸沿いの通りが、左右の通りにぶつかります。そこにあった道標です。右折して東町に入ります。造船の町である東町は、江戸時代の前期に開発された町で、寛文11(1671)年頃から、東に広がった町に材木問屋や棟大工の人たちが集まってできた町だそうです。

通りの右側の海岸沿いの空き地には多くの船舶が並んでいます。造船の町らしい光景が続きます。

通りの左側に食事処「潮菜」の入口がありました。ギャラリーで雑貨などを見ながら食事を楽しむお店だそうです。ここから東に向かって、広大な敷地の邸宅がありました。若葉屋の東服部邸です。文政元(1818)年、梶屋の木材部門が分家してできた店でしたが、材木問屋として発展しました。また、名主をつとめるなど、この地で大きな影響力を持っていた商家でした。

明治時代になると、「牛窓は、阪神地方に近いという地の利を活かし、港湾の艀(はしけ)を大量に受注するようになり、造船業が発展して行きました。それに伴って、牛窓では材木商が造船業に進出し大規模な造船所を設立するようになりました。若葉屋は、大正6(1917)年東服部合資会社を設立し、造船部(後に牛窓造船所になる)をつくり、機帆船時代の造船業界をリード」(「牛窓みなと文化」)していたそうです。

写真は、若葉屋の土蔵です。現在の東服部邸は、明治43(1910)年から15年をかけて完成させたもので、750坪の敷地に茶屋、裏屋敷、土蔵などが配置されているそうです。

二回に分けて、朝鮮通信使の寄港地、瀬戸内市牛窓町を「しおまち 唐琴通り 散策まっぷ」を手に歩いてきました。
朝鮮通信使が宿泊した本蓮寺、牛窓の赤煙突が残る高祖酒造の発祥の地、旧牛窓銀行に始まる街角ミュゼ、岡山藩が築いた灯籠堂、そして、若葉屋の邸宅など、牛窓の豊かな歴史を伝えているたくさんの文化遺産が残る美しい町でした。






朝鮮通信使の寄港地、牛窓の町並み(1)

2019年03月14日 | 日記

海岸に白い船が並ぶ、岡山県瀬戸内市牛窓(うしまど)町です。”日本のエーゲ海”と称し、観光業によって、町の活性化を図っている町です。牛窓は、古くから内海航路の風待ち、潮待ちの港として知られており、江戸時代には、北前船の寄港地となり、様々な物資の集散地として栄えました。また、将軍の代替わりに来日し、江戸に向かった朝鮮通信使の寄港地としても知られていました。この日は、岡山県東部の町、牛窓町を訪ねました。

JR赤穂線の邑久駅から牛窓行きの東備バスに乗り継いで、牛窓に着きました。バスの終点の一つ前「本蓮寺下バス停」で降車しました。バス停は牛窓海遊文化館(以下「海遊文化館」)のすぐ前にありました。青い空に映える真っ白な建物の海遊文化館は、朝鮮通信使との交流資料、そして船型のだんじりと和船を展示する資料館になっています。もともとは、西大寺警察署牛窓分署として、明治20(1887)年に建設されました。その後、名称は変更されましたが、昭和52(1977)年まで、警察署として、この地の治安維持のために使われていました。玄関ポーチには、今も金色の警察のマークが残っています。建物は、平成10(2008)年に国の登録有形文化財に登録されています。

海遊文化館の裏の丘の上に建つ本蓮寺の三重塔が見えました。元禄3(1690)年の建立(棟札による)で、岡山県の重要文化財に指定されています。朝鮮通信使は、永和元(1375)年に足利幕府3代将軍、足利義満が派遣した「日本国王使」に対し、当時の朝鮮の高麗王朝から「信(よしみ)を通わす使者」として派遣されたことに始まるといわれています。豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって、両国の国交は断絶しましたが、江戸時代になって再開されました。一般には「朝鮮通信使」といえば、江戸時代の李氏朝鮮からの使者を指すことが多いようです。外国との交流が制限されていた江戸時代には、朝鮮は琉球王国とともに正式な国交のある国とされていました。

海に面して建つリゾートホテルの”リマーニ”の前まで、バスで来た道を引き返します。

ホテルリマーニの前に、かもぼこ屋の中光商店があります。その前から見た光景です。右側の海岸沿いの通りは、引き返して来たバス道。左側に道幅のやや狭い通りがありますが、この道が、江戸時代の寛文から延宝年間にかけての時代(1661年~1680年)に、岡山藩によって整備された牛窓往来で、岡山城下町から商業の中心地牛窓まで、6里28町(約27km)を結んでいました。今は、この通りは「しおまち唐琴通り(以下「唐琴通り」)」と呼ばれています。海遊文化館でいただいたパンフには「牛窓町の東部に位置する町並みで、港町として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影を多く残しています」と書かれていました。関町までは、江戸時代の道幅のまま残っているそうです。

パンフに載っていたマップです。見えにくいのですが、緑で示された通りが唐琴通りです。マップの左(西)から右(東)に向かって歩きます。

唐琴通りに入ると、左側に「立正安国 王佛冥合」と刻まれた門があります。本蓮寺の参道です。その先に石段と山門が見えます。本蓮寺は山号は経王山。創建は正平2(1347)年。大覚大僧正(京都妙顕寺の住職)が、法華経信仰による仏堂、法華堂を創建したときに始まるといわれています。備前国で最初に建立された法華宗の寺院だともいわれています。

本堂に上っていく石段の途中から見た本蓮寺の書院(謁見の間)です。朝鮮通信使が宿泊したところだそうです。海遊文化館に展示されていた資料によれば、朝鮮通信使は、江戸時代を通して12回、来日し江戸をめざしていました。第3回(寛永元(1624)年来日)から、第6回(明暦元(1655)年来日)までの4回は、朝鮮通信使の中心的な役割を担う、正使・副使・従事官の三使が本蓮寺に宿泊していました。岡山藩が接待所として設けた御茶屋が完成した、第7回(天和2(1682)年来日)以降は御茶屋に宿泊するようになりました。本蓮寺境内は、朝鮮通信使の宿泊場所という役割を担っていた場所ということで、平成6(1994)年、国の史跡に指定されました。

書院の入口です。本蓮寺に宿泊した朝鮮通信使の人たちは、訪ねてくる地元の人たちと筆談で交流をしていたということです。また、本蓮寺には、朝鮮通信使が作った詩も残されており、寛永20(1643)年の第5回朝鮮通信使として宿泊した従事官の詩のレプリカが、書院に展示されていました。「寺は古さびて 僧侶もわずか (中略) 静寂そのもの 投宿した旅人は 万感こもごも 眠らずに夜半を過ぎ、蚊のうなり声だけが勢いよく やかましい」。直筆は、岡山県立博物館で保存されているそうです。 

山門を入って右に進み、本堂や三重塔の並ぶ高台に上る石段に向かいます。朝鮮通信使は、どんな旅をしていたのでしょうか。第9代将軍の位に就いた徳川家重の就任祝いのために来日した第10回朝鮮通信使(正使・副使・従事官以下475人)の一行は、寛延元(1748)年に、李氏朝鮮の都、漢陽を出発しました。漢陽から日本海側の港町釜山まで2ヶ月をかけて移動。釜山を2月16日に出発し、対馬の鰐浦に上陸、厳原から壱岐に向かいます。その後、現在の山口県の赤間関(下関)、西口浦(笠戸)、そして、鎌苅、竹原、忠海、鞆浦を経て、4月16日に日比(岡山県玉野市)に着いています。4月17日に日比を出た一行は、牛窓にその日のうちに到着しています。牛窓を出発したのは4月19日。室津、明石、兵庫を経て、大坂に上陸してからは、陸路、江戸をめざして進みました。そして、6月に将軍家重に謁見したといわれています。

そして、江戸からの帰帆の途中、牛窓に着いたのは7月9日。このときは、休憩をした後、その日のうちに牛窓を離れています。漢陽から出た朝鮮通信使は、江戸までを往復するのに最長で10ヶ月程度かかる、長い長い旅をしていたようです。石段を上って中門をくぐった左側に本堂がありました。明応元(1492)年の再建で、「室町調の端正な美しさを見せる」として、国の重要文化財に指定されています。また、くぐってきた中門も、本堂と同じ明応元年頃の建立とされ、国の重要文化財に指定されています。

写真は、海遊文化館の入口付近に展示されていた朝鮮通信使の服装です(許可を得て撮影しました)。「説明」には、「李氏朝鮮の上位の文官は、2羽の鶴を刺繍した衣服を着用し、下位の文官は1羽の鶴のみのものを、武官は虎を刺繍した衣服を着用していた」と書かれています。

中門から入った左側に本堂、正面に祖師堂がありました。本堂の並び、祖師堂の脇に、番神堂が設けられていました。説明では「法華経を守護する三十番神を祀った神堂」だそうです。番神堂に入る門が左に傾いています。一緒に見学していた団体の人も見入っておられました。

傾いた門を入ってすぐにわかりました。門の脇に、大きな楠の切り株が見えました。今は切られていましたが、この楠の根が門の片側を押し上げたため傾いてしまったようです。

江戸時代の中期につくられた覆屋(おおいや)の中に、写真の手前から東祠(とうし)、中祠(ちゅうし)、西祠(さいし)の三祠が祀られています。この三祠は室町時代後期の建築様式の祠だそうです。番神堂も、国の重要文化財に指定されています。

享保4(1719)年の第9回の朝鮮通信使では、通信使一行が通信使479人など総勢2,500人と65艘の船で到着しました。岡山藩からの役人542人と民間から徴発された252人が接待にあたりました。岡山藩から動員された船は合計943艘、それに関わる海民は3,855人。宿泊には、約200軒の町屋も提供されました。特に、通信使一行の宿に使われた町家に住む人は、来日から帰帆まで、数ヶ月に渡って自分の家に立ち寄ることができなかったといわれています。食料は1日分が米8石2斗余、酒2石7斗余、タバコ7貫余。これを6日分(帰帆時は5日分)準備したそうです。牛窓での滞在は1泊だけでしたが、岡山藩の負担は約3000両(現在の貨幣価値では3億円)だったといわれています。藩も町屋の人々も、接待する側の負担はとても重いものだったようです。

日韓両国に残る朝鮮通信使に関する文書や書物など333点は、平成29(2017)年10月31日(日本時間)、ユネスコの世界記憶遺産(「世界の記憶」)に登録されています。 国の史跡や重要文化財が並ぶ本蓮寺から、唐琴通りに下りて来ました。ここからは、江戸時代から昭和30年頃までの面影を残す通りを歩きます。海遊文化館の白い建物が右側に見えました。

海遊文化館の先を右に進みバス道に出ます。港の入口に設けられた一文字波止(いちもんじはと・パンフでは「波戸」を使っています)が見えました。元禄8(1695)年、当時の藩主、池田綱政が郡代の津田永忠に命じて築造させた、長さ373間(678m)高さ1間半(2.7m)の文字通りまっすぐで堅牢な波止めでした。近くの犬島の花崗岩を使って、わずか10ヶ月で完成させたといわれています。岡山藩の新田開発や土木事業に大きな功績を残した津田永忠は、自ら牛窓で朝鮮通信使の接待にあたったことがあり、海からの強い風を防ぐため、波止の必要性を強く感じており、綱政に築造を進言していたのだそうです。一文字波止が築造されてからは、牛窓には北前船も寄港するようになり、物資の集散地として発展して行きました。津田永忠が築造した波止は、平成4(1992)年から始まった改修工事の結果、現在のような姿に変わっています。

唐琴通りに戻り、先に進みます。左側に、白い洋風建築がありました。昭和10(1935)年の建築で、国の登録有形文化財に登録されています。昭和12(1937)年から、材木問屋を営んでいた人が特定郵便局を始めたそうです。現在は、”喫茶 牛転”になっています。「牛転」は「うしまろび」と読むそうです。伝承によれば、神功皇后が三韓征伐の途中、この地で、頭が8つある大牛の怪獣「塵輪鬼(じんりんき)」に襲われ、弓で射殺したそうです。その後、皇后一行が新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼になって再度襲って来たとき、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ倒したそうです。このような経緯で、この場所を「牛転(うしまろび)」といい、それが訛って牛窓になったということです。

その先、右側にあった大きな土蔵。上野家の「土倉」とパンフには書かれています。すぐ脇にある商家をしのぐ、3階建てといってもいい高さのある蔵でした。

土塀が続く道になりました。土塀の先に、材木問屋だった松屋の分家の長屋門がありました。江戸時代には、庶民は長屋門を建てることを禁じられていたため、明治になってから建てられたものです。入口には、屋久杉の柾目板が使われているそうです。門に架かっているのは「牛王本蓮寺寶印」で、新年にお寺から授与された護符だそうです。江戸時代には、沖合にある小豆島にキリシタンの拠点があったそうで、キリシタンではないという証明のために授与されていたともいわれています。今は魔除けのために使われているそうです。

長屋門の向かいにあった「牛窓まちかど交流プラザ 風まち亭」です。

岡崎家の長屋門です。江戸時代から材木問屋を営み、木造船の船材などを手広く扱っていた旧松屋本家の建物でした。明治時代になってから武家屋敷構えで建てられたそうです。

「見返りの塔」の案内です。「ここから見た本蓮寺三重塔がもっとも美しい」と書かれていました。

歩いてきた唐琴通りを振り返って見ました。商家の屋根の上に、本蓮寺の三重塔が見えました。地元の人のいわれるとおり美しい姿でした。

その先に、「潮風志る古」(しおかぜしるこ)と書かれた金属の看板がありました。写真は正面から撮影したそのお宅です。木造3階建ての建物ですが、今はどなたも居住しておられないようです。窓には、映画のポスターが貼り付けられています。パンフに「カンゾー先生 ロケ地跡」と書かれているところです。「映画カンゾー先生」は、患者を「肝臓炎」としか診断しないことからカンゾー先生と呼ばれるようになった医師と、彼を取り巻く人々を描いた喜劇映画で、カンヌ国際映画祭の特別招待作品。主人公には、今村昌平監督の父親の姿が投影されているといわれた作品でした。

前にあった、ミナトシネマのポスターと、石碑です。石碑には「映画 カンゾー先生 牛窓ロケ地 1997年 今村昌平監督作品」とありました。関町に入りました。通りの正面は、中庭と呼ばれている広場になっています。

ロケ地跡から、天神社に向かって上ります。天神社からの「眺めがいいよ」と聞いていたからです。前方の右側に、門柱がありました。

門柱があるところは「旧牛窓町役場跡」でした。現在は、関町コミュニティハウスになっています。

左側の建物の壁にあった看板です。古くから木造船の船大工の人々が居住していた牛窓らしい看板です。「和洋船舶用品店 木崎商店」とありました。

石段を上りきると、菅原道真を祀る天神社に着きます。扁額には「天満宮」と書かれています。九州に流される途中、この山に登り、遠く讃岐の山々を見て涙を流したと伝えられ、地元の人々が祠を建ててお祀りしてきたものです。約250年前に大宰府からご神体を勧請したそうです。拝殿の裏には、前方後円墳の牛窓天神古墳(全長85m)があります。牛窓にある5基の前方後円墳で最初に築造されたものだそうです。

菅原道真の歌碑が設置されているあたりから見た牛窓沖です。目の前には前島(写っていません)。写真の左側の「黒島」、その右が「中の小島」、その右が「端の小島」です。写真からは見えませんが、端の小島の右側に、「百尋魚礁」があるそうです。牛窓と前島を結ぶ前島フェリーの”第7からこと”が牛窓港に入港中です。  先に、牛窓の地名は「うしまろび」に由来するとして、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼になって襲ってきたとき、住吉明神が牛鬼を投げ倒したことに由来すると書きましたが、その時に滅びた牛鬼の身体が、牛窓の島になったという伝説も残っています。頭の部分が黄島に、胴体の前の部分が前島に、胴体の後ろの部分が青島に、お尻の部分が黒島になったという伝説です。

江戸時代に朝鮮通信使が寄港した牛窓の町を、本蓮寺から関町まで、「しおまち唐琴通り」に沿って歩いて来ました。
次回は、関町から東町まで歩くことにしています。