トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR姫新線の駅舎を訪ねる ~その1~

2016年10月27日 | 日記
兵庫県西部の中心都市姫路市と、岡山県津山市を経由して岡山市西部の新見市を結ぶJR姫新(きしん)線。実際の運用は、姫路駅・佐用(上月)駅間、佐用(上月)駅・津山駅間、津山駅・新見駅間で、それぞれ区間運転を行っています。その中の、津山駅・新見駅間には個性的な駅舎が並んでいます。久しぶりに、姫新線の駅舎を訪ねることにしましたが、列車ですべて回るのは時間的に難しいため、今回は車で回ることにしました。

津山駅で出発を待っている姫新線の新見行き車両です。現在は、すべて、キハ120系のワンマン運転の車両が運用にあたっています。津山駅から新見に向かう姫新線は、作備線として開業し、「姫新線」と呼ばれるようになったのは、昭和11(1936)年のことでした。

JR津山駅を出て最初の駅、JR院庄(いんのしょう)駅に着きました。JR姫新線は、大正12(1923)年8月21日、津山駅・美作追分駅間が作備線として開業したことに始まります。院庄駅もそのときに開業しました。現在では、大正時代の駅舎の待合部分だけが、駅舎として残されています。木造平屋建て。駅舎の前には、乗客の自転車が整然と並んでいます。かつての駅舎にあった「駅名板」は、「昭和60(1985)年に無人駅になったとき姿を消した」(「岡山の駅」日本文教出版発行)のだそうです。

駅舎から見た駅前広場です。中央のロータリーの脇にタクシーが停車しています。形のいい樹木には見とれてしまいました。ここは、津山市二宮。激しい誘致合戦の末、津山駅と次の美作千代(みまさかせんだい)駅のほぼ中間地点に設置されたそうです。駅名の「院庄」は、鎌倉時代から室町時代にかけて、美作国の守護の館(院庄館)が置かれていたことに因ります。現在、そこには作楽(さくら)神社が鎮座しています。

駅舎の内部です。広くはありませんが、掃除が行き届いた清潔な待合室でした。

ホームから見た津山駅方面の風景です。1面1線の単式ホームです。平成26(2014)年度の乗車人員は34人だそうです。

院庄駅から4.8km、次の美作千代駅です。ローカル線にぴったりの趣のある懐かしい駅舎です。大正12(1923)年6月に建設されたときの姿で、今も現役としてがんばっています。木造瓦葺き、黒い下見板張りで貫禄ある姿です。手書きのような駅名板からも年月を感じることができます。それでも衰えは隠せず、入口の2本の柱は風化していて脇に新しい柱をつけて支えているようです。

駅舎の全景です。郵便ポストも懐かしい。新しいポストが使われていたのを、このレトロなポストにわざわざ取り替えたとのことです。写真の左端の電柱も、かつての雰囲気を残すために、木製のものにしたそうです。この駅を支えている人の思いが伝わってきます。

駅舎に入ります。出札口の窓枠がサッシになっているなど少し手が加わっていますが、それでも往事の雰囲気を感じとることができます。駅舎の入口にあった「建物財産票」には「鉄停 駅 本屋1号 大正12年8月」と書かれていました。

これもこの駅を愛する人がなさったのでしょう、「国鉄乗車券発売所」の掲示物も飾ってあります。無人駅になった今では、出札業務は残念ながらありません。1日の乗車人員は50人(2014年)だそうです。

ホームに出ました。ホームから見た津山駅方面の光景です。”秘境駅”のような雰囲気を感じます。現在は1面1線のホームになっていますが・・。

向かい側のホームが残っています。かつては、相対式2面2線のホームだったようです。線路も撤去され、その跡には、柵で仕切りがされていて、畑になっていました。女性が草取りに忙しくされていました。

向かい側のホームに残っていた構内踏切の階段の跡です。

ホームから見える駅舎内に「切り絵」が見えました。池田泰弘さんの作品です。

切り絵と同じアングルの駅舎です。美作千代駅は、鉄道路線が地方に次々と広がっていた時代につくられました。駅舎の設計の手間を省くために、鉄道省工務局は、昭和5(1930)年に「小停車場本屋標準図」を作成しました。駅舎の標準的な寸法等が示されていて、この時代につくられた地方の駅舎は、ほとんどこの標準図に従ってつくられていました。美作千代駅は、その典型的な姿を今に伝えてくれています。

事務所の中のようすです。かつて、駅員が常駐していた頃の、そのままの姿で残されています。だるまストーブもそのまま残っていました。これも古きよきものを大切にする地元の人たちのアイディアではないでしょうか?

別棟のトイレの壁に掲示してあった「久米仙人」のキャラクターです。美作千代駅は津山市領家にありますが、この地は、平成の大合併の前は久米郡久米町でした。久米町は仙人の里で知られています。「ある日、久米仙人が飛行の術を使い空を飛んでいたとき、川岸で洗濯をしていた若い娘の太ももが目に入り、墜落してしまいました。やがて、久米仙人はこの娘を嫁にし、後に久米寺を建てた」という話があります(今昔物語巻11)。地元の久米商工会が実施した「村おこし事業」のキャラクターです。「仙人のようにいつまでも若々しく健康的な生活が送れるように」という願いが込められているそうです。

美作千代駅から4.8km、坪井駅に着きます。津山市中北上にあります。この駅も、大正12(1923)年に美作追分駅までの区間の開業と同時に開設されました。昭和61(1986)年11月1日に無人駅になりました。その後、開業以来の木造駅舎が撤去され、駅舎というより待合室の方がふさわしい駅舎に替わっています。新見駅に向かって左側に設置されています。

ホームから見た津山駅方面の光景です。2面2線のホームの端に、構内踏切が設置されています。津山駅方面への列車に乗車するには、ここで線路を横断して反対側のホームに進みます。

これは、以前、出雲街道の坪井宿を訪ねたとき(2012年3月3日の日記「車で2分」の小さな小さな宿場町)に撮影したキハ120系の新見行きの車両です。1日平均の乗車人員は22人(2014年)だそうです。

坪井駅から歩いて5分ぐらいのところにある、「出雲街道坪井宿」の入口の案内板です。出雲街道は美作国では土居宿、勝間田宿、津山城下町、坪井宿、久世宿、高田(勝山)宿、美甘宿、新庄宿の美作七宿(津山城下町は含まない)を通って、伯耆(ほうき)国(鳥取県)に入っていました。

坪井宿の現在のようすです。広い通りが残っています。慶長8(1608)年、森忠政が藩主として津山に入り、参勤交代の道として整備したことに始まる宿場町です。街道の中央に、七森川から引いた用水をつけ、両側にそれぞれ2間(3.6m)の道をつくりました。そして、北側の道を出雲街道として旅籠や家屋が並ぶ通りとし、南側の道は里道として、庶民が通行する通りにしていました。

坪井駅から5.6km、美作追分(みまさかおいわけ)駅に着きました。美作追分駅は、真庭市上河内にあります。大正12(1923)年、津山駅からこの駅まで開業したときに開設された駅でしたが、翌、大正13(1924)年5月1日に作備線は、久世駅まで延伸することになり、途中駅になりました。

モダンな印象を受けます。平成8(1996)年3月、駅の管理を担っていた旧真庭郡落合町が駅舎の改修にあたりました。そのとき、駅舎に併設して、イベントの時に開設する”キリタローの館”も建設したそうです。

正面から見た”キリタローの館”です。”キリタローの館”はどんなことに使われているのかと、何人かの子ども連れの方に、お聞きしたのですが、「トイレをお借りしに来ただけなので・・」という返事が返ってきただけでした。あまり、イベントも多くないのかもしれません。

駅舎の中に入ります。正面に柱状のものが立っています。単なる装飾品ではなく、柱のようです。上の梁を支えていました。施設は立派なのですが、無人駅で自動券売機もありませんでした。

ホームに出ました。写真は、1面1線のホームの津山駅方面の光景です。この駅も、かつては2面2線の相対式ホームだったようです。向かいにホームの跡が見えましたが、線路はすでに撤去されていました。この駅の1日平均乗車人員は26人(2014年)だそうです。

ホームから見た”キリタローの館”です。キリタローの家族の絵が描かれていました。このあたりは標高200m。霧が深いところで、信号機の取扱いに苦労してきたそうです。それを逆手にとって、霧を町のシンボルとして、町の活性化に利用しているようです。道路沿いの各所に立っているキリタローの家族が「福祉の村 河内」などと、住民に呼びかけている姿を見ることができました。

駅の広場の向かい側の丘には、「河内村立追分公園」の碑が建っています。ツツジの名所という案内もありました。「道が分岐するところが追分、川が合流するところが落合だ」といわれますが、JR姫新線は、この追分駅と落合駅が並んでいるめずらしい路線になっています。

美作追分駅から、7.0km、次の美作落合駅に着きました。真庭市西原にあります。合併前の真庭郡落合町で、落合町の市街地は旭川をはさんだ対岸にあります。落合町は、その名の通り、旧上房郡から流れてくる備中川が、本流の旭川に合流する地域に発展していました。美作落合駅は、大正13(1924)年に作備線が久世駅まで延伸したときに開業しました。

駅舎には多目的室が併設されており、この日は、岡山県知事選挙の真庭市第16投票区の投票所として使われていました。この美作落合駅は、当初、作備線の鉄道路線に入っていませんでした。当時の落合町長は、上房郡の人々の応援を受けて運動を続け、現在のルートになったといわれています。美作落合駅の先で北に向かって90度の急カーブになルートになっているのは、そのためです。作備線の計画が進んでいた大正時代の中期には、落合の人々が岡山市に出るには、高瀬舟で旭川を福渡まで下り、そこから、中国鉄道(現在のJR津山線)に乗り換えて行くのが唯一の方法でした。大正時代の末には、岡山市へ向かう乗り合いバスが通じていましたが、運賃が高くだれもが乗れるものではなかったようです。それだけに、作備線が開通した時の落合の人たちの喜びは、大変なものだったのではないでしょうか。

駅舎内に入ります。JR乗車券発券所です。美作落合駅は簡易委託駅になっており、事務所では女性が勤務しておられました。この駅舎は平成17(2005)年に建設されました。待合室の上に時計塔がつくられています。この駅もモダンで上品な印象を受けます。

待合いのスペースを抜けてホームに出ます。2面2線のホームです。向こう側のホームとは跨線橋でつながっています。写真の左のホームは新見方面行きの列車が停車しますが、その向こう側に、かつてはもう一本線路があり、2面3線のホームになっていました。

右側の線路が新見方面行きの線路です。ホームに設置された待合室には、太陽光発電装置が取り付けられています。デザインだけでなく装備もモダンな駅なのです。

駅舎内の天井部分、あの時計塔の部分です。空間になっていますが、照明装置が集中して置かれていて、待合室全体を明るく照らしています。

待合室にあった絵です。現在の駅舎になる前の大正時代の駅舎です。あの時代の小規模駅舎の典型的な形式の駅でした。

駅前広場から見たJR美作落合駅の全景です。この駅の1日平均乗車人員は、223人(2014年)だそうです。この先で、JR姫新線は、旭川に架かる落合橋の手前で、右に90度カーブします。旭川に沿って北に向かって進んでいきます。

美作落合駅から3.7km、古見(こみ)駅に着きました。真庭市落合町古見にあります。一般県道329号から20mぐらい入ったところに古見駅のホームに上がる階段がありました。

ホームに入ってすぐ左に待合室があります。鉄骨づくり平屋建て、屋根はスレート葺きの簡素な待合室です。その前に1面1線の単式ホームがあります。周囲は収穫の終わった田んぼが広がっています。古見駅は、昭和33(1958)年4月に新設・開業しました。姫新線の中で最も新しく、最も簡素な駅でした。1日の乗車人員は、61人(2014年)だそうです。

古見駅の次は久世駅。真庭市の政治の中心地で、真庭市役所が置かれています。

古見駅から4.3km、久世駅に着きました。大正13(1924)年、美作追分駅から久世駅まで延伸開業したとき開設され終着駅になりました。しかし、翌大正14(1925)年3月15日に中国勝山駅までが開業したため、通過駅になりました。

久世駅は、真庭市久世にあります。国の重要文化財に指定されている遷喬(せんきょう)小学校で知られています。久世駅の入口にあった門には、遷喬小学校と早川太鼓が飾られています。

これは、以前、旧出雲街道久世宿を歩いたときに撮影した写真です。雪の積もった寒い冬の日でした(2012年2月26日の日記)。岡山県工師の江川三郎八の設計によるルネサンス風の校舎で、明治40(1907)年に、3年の工期を経て完成しました。総工費1万8千円は、当時の久世町の年間予算の3年分にあたるものでした。久世の将来を担う人材の育成に込めた町民の強い思いを感じます。校名の「遷喬」は中国の古典「詩経」の「出自幽谷 遷于喬木」(鳥が低い谷間から出て高い木に遷(のぼ)る)から、幕末の漢学者で備中松山藩の藩政改革にも携わった山田方谷が命名したといわれています。

真庭市役所です。平成の大合併で真庭市が新たに誕生したとき、久世町に市役所が置かれました。

久世駅からまっすぐ商店街に向かう道の右側に早川八郎左衛門正紀(まさとし)の胸像が建っています。早川正紀は、天明12(1787)年に久世代官として、この地に赴任して来ました。当時の久世は、津山藩主森家の改易(家名断絶 家財没収)により、幕府領となっていました。赤子間引きの禁止、庶民教育の振興、吉岡銅山の再興、ベンガラ生産の保護、虎班竹(トラフダケ・天然記念物になっている)の保存などに力を尽くし、領民から慕われた名代官でした。転任に際しては、4度の留任願いが出されたそうで、14年間に渡って久世代官をつとめた人です。早川代官の胸像は、代官が死去してから2年後の文化7(1810)年に、代官を慕う領民が建立したものといわれています。駅の入口にあった「早川太鼓」も、代官を慕う人々によって名づけられたものでしょう。

駅舎の中に入ります。簡易委託駅で事務室には男性の方がつとめておられました。

待合いのスペースです。椅子には座布団が置いてありました。その奥の部屋の入口には「真庭ライオンズクラブ」の看板が見えました。

ホームに出ました。新見方面を撮影しました。2面2線の相対式のホームで相互に跨線橋で結ばれています。写真の右側にあるゴミ缶の右に見える木製のベンチは、駅舎と一体化した造りになっています。

ホームの津山寄りから見た駅舎とホーム。市役所の所在地の玄関にしては、寂しすぎる雰囲気が印象に残ってしまいました。正面の一部の窓が欠けているところは、ホームの待合室になっています。ちなみに、1日の乗車人員は211人(2014年)だそうです。

駅舎に戻ったときに気がつきました。ホーム寄りの明るい日差しが注いでいるところに、「自主学習スペース」が設けられていて、国語辞典や漢和辞典も置かれていました。

ここまで、JR姫新線の院庄駅、美作千代駅、坪井駅、美作追分駅、美作落合駅、古見駅と久世駅と訪ねてきました。大正期の駅舎が残る美作千代駅、”キリタローの館”が楽しい美作追分駅、モダンな美作落合駅など、個性あふれる駅が楽しい路線でした。 中国勝山駅から先は、次回にまとめたいと思っています。





三条大橋から追分へ、旧東海道を歩く

2016年10月06日 | 日記

京都の三条大橋です。江戸から西に向かう旅人にとっての京への入口、江戸時代の東海道の終点でした。この日、私は地元のバス会社が企画した「中山道69次を歩く」というツアーに参加して、たくさんの仲間とともに、ここ三条大橋から、東海道が伏見街道(奈良街道)と分岐する追分まで、三条通りを歩くことにしていました。

中山道69次の68番目になる草津宿からは東海道と同じルートになります。今回のルートは、かつて、現在京都市営地下鉄になっている京阪電鉄京津(けいしん)線の跡地をたどって歩いたとき(2014年12月12日の日記)と、半分程度が同じルートになります。京津線は大正元(1912)年、浜大津駅までの11.2kmが開業しました。しかし、平成9(1997)年に、三条駅から御陵(みささぎ)駅までの区間が廃止され、京都市営地下鉄東西線になりました。写真は、現在京都市営地下鉄東西線に乗り入れている京阪電鉄京津線の車両です。

三条大橋の西詰にある、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で知られる弥次郎兵衛と喜多八の像を見ながら三条大橋を渡ります。東詰には京阪電鉄三条駅があります。慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は、本拠地の江戸と京を結ぶ伝馬制度を創設しました。里程124里8丁(487.8km)を53の宿場で結んでいました。これが東海道です。ちなみに、53番目の宿場である大津宿(中山道では69番目)と三条大橋間は3里(12km)ありました。京阪電鉄三条駅でトイレをお借りしてから出発しました。

三条大橋の東詰から見た三条通りです。左側の建物は京阪電鉄の三条駅です。かつての京津線の京津三条駅は現在の三条駅の南(右)側の奥まったところにあったそうです。そこから大きく右カーブしながら三条通に出ていたそうです。

京阪電鉄京津線は、京都御所に向かって土下座する高山彦九郎像のあるあたりから三条通りに出ていました。この先は、東海道のかつての面影をたどって歩く旅になりました。

その先で白川を渡ります。白川橋を越えた右側(東詰南側)にあった道標です。「是よりひだりちおんゐんぎおんきよ水みち」と、京からの旅人に向けて知恩院、祇園、清水寺方面への近道を案内しています。北面には「三条通 白川橋」、南面「京都為無案内人旅人立之 延宝6年午3月吉日 施主 為二世安楽」と刻まれていました。延宝6(1678)年の建立で、京都に現存する最古の道標とされています。

その先、右側にあった「坂本龍馬 お龍 『結婚式場』跡」の石碑。元治元(1864)年8月初旬、ここにあった青蓮院の塔頭の金蔵寺の本堂で内祝言を挙げたそうです。お龍の亡くなった父が青蓮院に仕えた医師だったことから、この地が選ばれ、金蔵寺住職の智息院が仲人をつとめたそうです。二人の結婚については、一般には、慶応2(1866)年に西郷隆盛(中岡慎太郎という説も)の媒酌で行われたといわれていますが、明治32(1899)年のお龍の聴き取りを根拠にしている、こちらの説の方が信憑性が高いそうです。ちなみに、お龍は、明治39(1906)年に亡くなったそうです。

左側に平安神宮の赤い鳥居が見えました。さらに、先に進みます。

粟田神社の鳥居です。鳥居の前に「粟田焼発祥の地」の石碑が建っていました。この先、蹴上(けあげ)の近くに「粟田口」という地名が残っています。粟田口は「京の七口」の一つで、山科方面からの京への入口になっていて、室町時代には関銭を徴収していたようです。石碑にもあるように、粟田焼で知られていました。

建て替えられていますが、京の町屋風の民家が点在する道を歩いていきます。

蹴上の交差点にあるウエスティン都ホテル京都です。私たちに同行している案内の方のお話では、旧東海道はこのホテルの敷地内を通っていたそうです。

ウエスティン都ホテルに隣接している京都市の浄水場です。旧東海道はこの中も通っていたようです。

三条通りの左側に展示されているインクライン(傾斜鉄道)の線路の下の蹴上トンネルです。かつて、琵琶湖疏水を通って南禅寺の船溜(ふなだまり)に着いた船を、台車に乗せて坂を乗降させていました。これがインクラインです。蹴上トンネルはその下につくられています。蹴上から南禅寺に向かう小さなトンネルで、「ねじりまんぽ」と呼ばれています。中のレンガは南禅寺にある水路閣と同じ素材で、負荷に耐えられるように斜めに積まれています。「ねじり」は「ねじった」、「まんぽ」は「間歩」。大森銀山の坑道である「間歩」は「まぶ」と呼ばれていますが、「ねじれたトンネル」という意味なのでしょう。

「ねじりまんぽ」を過ぎると、日岡峠に向かって上っていきます。その先で、東山ドライブウエーの高架の下をくぐります。現在は繰り返し行われた掘り下げ工事でかなりなだらかになっていますが、江戸時代にはかなりの急勾配で、旧東海道の難所の一つでした。

これは、九条山バス停(道路の向こう側を撮影したもの)です。日岡峠を越えたあたりにありました。以前、京津線の跡地を歩いたとき、地元の方から「京津線の九条山駅は、九条山バス停付近にあった」とお聞きしていました。

三条通りの右側に「粟田口刑場跡」の説明版がありました。粟田口には、江戸時代に刑場が設置されており、磔(はりつけ)、獄門(ごくもん)、火刑(ひあぶり)などの重罪犯の処刑が行われる場でした。その所在地については、「京津線の旧九条山駅付近の山手側にあった」とか、「蹴上浄水場から京津線の九条山駅の間にあった」、「東山ドライブウエーの陸橋の西から、浄水場の東付近の間にあった」などと言い伝えられているそうです。この案内板は、最初にあげた「京津線旧九条山駅の山手側」に設置されているようです。

その先の山裾に「萬霊供養塔」(右側)、「南無阿弥陀仏」(左側)と刻まれた供養塔がありました。刑死した人々への供養塔だそうです。

その先で休憩になりました。旧東海道の難所を上り、下りしていた荷車の便宜のため、旧東海道には花崗岩の車石が敷かれていました。たくさんの牛車が通ったため、車石についた轍(わだち)の跡がくっきりと残っています。

ここは、京阪電鉄京津線の軌道跡だそうです。展示されているのは轍の跡のついた車石です。

これは、山科に掲示してあった車石の説明です。当時の運送業者の苦労がしのばれます。

この先で三条通りは大きく左にカーブします。旧東海道はここで三条通りから離れ、右側の細い通りに入ります。

三条通から別れ、旧東海道に入りました。旧東海道は「大海道」であり、「道幅6間(10.8m)」と規定してされていましたが、実際には川崎宿から保土ヶ谷宿の間が3間(5.4m)で、それより西は2間から2間半(3.6mから4.4m)となっていたようです。ここの道幅も3~4mぐらいです。当時の雰囲気を感じる通りになっています。

道路の右側にあった「旧東海道」の標石。

民家の壁につくられた「旧東海道」の案内板です。東海道の道筋では案内がとてもていねいです。地元の人々の東海道に寄せる思いを感じます。

しばらく進むと公園の中の道を渡ります。思い出しました! 京阪電鉄京津線の線路跡の公園「稜ヶ岡みどりの小径」です。かつて歩いた道でした。ここは横断して道なりに進みます。

その先で三条通りに合流して右方面に進みます。正面にJR琵琶湖(東海道)線の高架が見えます。

そして、陵ヶ岡みどりの小径と合流します。冠木門がある公園の出入口で休憩します。写真の中央にセブンイレブンがありますが、京都市営地下鉄東西線はこのセブンイレブンの向こう側で、地下から地上に上がっています。

再度、出発しました。三条通りを先に進み、JR琵琶湖線の高架下をくぐります。三条通りを進んでいきます。

三条通りです。道標もたくさん設置されています。

山科駅前方面に向かって歩きます。一緒に行った人たちの歩く姿が見えます。

進行方向右側に「五条別れ道標」がありました。北面に「右ハ 三条通」、東面に「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大仏 今く満きよみず道」、 西面「願主 沢村道範建立」、南面「宝永四丁亥年十一月吉日」と刻まれています。ここから、左に進めば 五条橋 今熊野観音寺、方広寺の大仏 清水寺付近にいたる さらに西に進むと 東本願寺 西本願寺に行くことができる道」と、大津方面から来た旅人に、五条橋 伏見方面への近道を示しているのだそうです。宝永4(1707)年に沢村道範によって建立されたものだそうです。

その先、旧東海道の左側にあった愛宕常夜灯です。これも、旧街道時代の面影を今に伝えてくれています。

山科駅前交差点の手前、進行方向の左側のビルの下に「旧東海道」の石碑がありました。

山科駅前の通りを越えて進みます。道路幅は広く交通量も多いのですが、それでも旧街道の雰囲気が伝わってきます。

住居表示です。「安朱東海道町」と書かれています。「東海道町」とはめずらしいと思い撮影しました。しかし、帰宅してから調べると「とうかいどうまち」ではなく、「ひがしかいどうちょう」でした。正しくは「あんしゅひがしかいどうちょう」と読むそうです。

徳林庵山科地蔵です。京の旧街道の入口、六カ所にある地蔵尊で、六地蔵と呼ばれています。六地蔵は天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道に迷い苦しむ人々を救済するために発願された仏様のことです。この六地蔵は、保元2(1157)年、伏見六地蔵の地にあったものを、この地に移して安置し、以後、東海道の守護仏になったそうです。

三井寺観音への道との別れ道。このまままっすぐ進むのは「小関越え」で、大津宿へ向かうメインルートである逢坂峠越えのコースになります。

旧街道沿いにあった車石です。ここに掲示されていた絵を最初の車石の説明のところで使わせていただきました。このあたりは大津市横地一丁目。いつの間にか、大津市に入っていました。

目の前に国道1号線が迫って来ました。旧東海道が国道1号線の擁壁のために行き止まりになりました。

その先にあった案内板です。旧東海道を進む人は、60m先を横断陸橋を使って渡るように案内がなされています。

横断陸橋に上りました。下に見えている通りが、歩いてきた旧街道です。

こちらは、その延長線上の通りです。自動車展示場の前から分断された旧街道が復活しています。

このあたりが追分です。東海道と伏見街道が分岐するところです。逢坂の関から1kmほど京都側に下ったところに位置していますが、古くから諸国の産物が行き交い、その荷馬を「追い分ける」ところから「追分」の地名になったといわれています。江戸時代には、ここ追分から逢坂の関にかけては、人家や土産物を売る店や茶店が立ち並び、大変な賑わいだったようです。


三条大橋の下の三条河原で昼食を済ませてからスタートした旧東海道を歩く旅でしたが、追分に着く頃には、秋の日はすでに陰っていました。ここまで、約7km。休憩を十分とりながら歩いて来たせいか、全員が余裕をもって到着したようです。この先でバスに乗車して帰路に着くことになっています。