梨木香歩の文章を読む悦び(よろこび)を、どう表現したら好いのだろう?
まだ目覚めたばかりの夏の朝、露をまとった植物たちが朝陽に輝き始める瑞々しいあの瞬間…
そんな風景を喚起するシナプスがスパークするような言葉が立ち上げる悦び。
例えば…平松洋子の「夜中にジャムを煮る」から喚起する梨木香歩のイマジネーションが奔放に大空に駆ける。
≫モノクロの画面に一ヶ所だけ赤い色彩が映える、そういう映画の一シーンのように、世界がしんと静まって、すべての雑音が消える真夜中、
ジャムを煮る音とにおいに五感が集中する。そのきりりとした心地よさ。
本文はそれから、翌朝出来上がったジャムを味わう至福へと移っていく。
この夜中の不思議な時間の流れ方の描写に私はとても共感した。
真夜中の台所でグツグツ変化してゆく真っ赤な苺を見つめる、その心もちを、
たとえば真昼のスクランブル交差点を渡っているとき、ふと引き寄せて、空を仰ぐ。
わずかに見える都会の空に浮かぶ雲の種類から、その雲と自分との距離を測ってみたりする。
刷毛ではいたような巻雲なら一万メートルほど。
そこには西風が吹いている。
五感を喧噪に閉じて、世界の風に開く。≪
なんてカッコいいんだ。
この気持ちが空間の広がりの中に解き放たれる清新さ。そして言葉が放つ潔さ。
本作は、こんな文章が喚起する風景の立ち上がる瑞々しい瞬間を、何度も目の当たりにすることになる。
冒頭の「堅実で美しい」は転居した庭先の草々のなかに貝母(ばいも)を発見した喜びから、
昨日紹介したサスティナビリティ(持続可能なこと)へと繋がってゆく。
ロハス(LOHAS)の最後のSであるサスティナビリティという時代の流れを象徴する言葉も
エコロジーやスローライフのように次第に消費されてしまう運命にあると憂いながら、
「本来は美しい言葉だ。あれもこれもと、欲望の加速のかからない心理メカニズムのための羅針盤のような」と結ぶ。
「たおやかで、へこたれない」では、転居の度に移植するダメージにも負けず、健気に根を張るクリスマスローズの逞しさに触れ、
≫けれども彼女は(クリスマスローズは)そのたび新しい場所でけなげに茎を上げ、葉を起こしてきた。
花姿は楚々として、たおやかだが、決してへこたれない。
積み重ねてきた努力が水泡に帰する様な結果になっても、またその場から生き抜くための一歩を踏み出す。
いつだって生きてゆくことに、ためらいがないのだ。
彼女が新しい場所で根付く様子は私に良いエネルギーを与えてきた。
失ったものに思いを残さず、ぼろぼろになってさえ、いつもここからがスタートラインという生き方。≪
あぁ読んでいて涙が滲んでくる(笑)
こんな清新で潔い文章に触れる悦び。
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