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【50】聖ジェルマン拍爵・ドーナツ穴

 使用済みプラズマドリンク【49】の法人格だと考えられている博識ある貴族。二千年もの間、ジェル状の肉体で都市にうなだれかかったまま書物の独り言を聞いて過ごしてきたが、ある日スパインおばさんの置いたドーナツの穴に足を踏み外し、自らの体内に閉じ込められてしまった。長い幽閉生活で分裂症を患ったものの、個別に市民権を取得することによって克服した(彼らは各々が元から別々の人間だったことを忘却していた)。ジェル状だった体も血肉に還元され、一都市の人口を満たすほどに頭数は増えたものの、相変わらずドーナツもどきに圧迫されたまま何も出来ずにいた。
あるとき拍爵たちは右手首に鈍い痛みを覚えた。触れてみると腫れ上がって脈動している。彼らは半透明の穴あきドーナツもどき越しにうなずきあうと、右手首を同時に噛みきった。密室に満たされていたドーナツもどきの嵩がみるみるうちに減っていった。分厚い粘膜に裂け目ができ、外に零れ落ちているのだ。それと同時に手首の傷からも小さなドーナツもどきが流れ出ている。拍爵たちは壁の裂け目に手をかけて押し開いた。
ドーナツを紙袋につめていたスパインおばさんは、お客さんが目を見開いているのに気づいて手を止めた。どうしたのですよう、と言いながらお客さんの眼球を鏡にして目を凝らすと、記念のオーナメントとして壁に飾ったドーナツの穴から男の頭と片腕が飛び出ているのが見えた。男は肩を激しく揺らしてもう片方の腕を穴から抜き出すと、両手でドーナツの縁を固く握りしめ、前転しながら引きずり出した足をゆっくりと降ろし、背筋を反らせた姿勢でスパインおばさんの背後に着地した。
スパインおばさんの叫び声が街中のドーナツ穴を貫いた。聖ジェルマン街に軒を連ねる〈スパインおばさんのドーナツ屋さん【43】〉に飾られたすべての複製オーナメントから、男たちが這い出してきた。彼らは錬斤術師となって店舗を練りはじめ、ひどいですよう、と涙目で訴えるスパインおばさんたちを駆逐した。こんがり焼き上がった店舗がすべてパン屋さんになった。
錬斤術師たちは長きにわたって小麦粉を自在に操り、考母【334】を魅了した。小麦粉が金属に取って代わったフランス革命後は、錬金術師に職業を改めたものの、結局はそのほとんどが出家した。
いま〈スパインおばさんのドーナツ屋さん〉は、聖ジェルマン街の周りをドーナツ状に取り囲んでいる。

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【43】ドーナツ・スパインおばさんのドーナツ屋さん 【15】フランスパン

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