TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その183 『松本市内・中町通り』 その1

2017年03月24日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
松本城探索のあと、松本市内を少し歩いてみました。
松本市は400年に及ぶ城下町で、中町通りは西から東へ抜ける善光寺街道 (北国街道西街道)沿いにあり、主に酒造業や呉服などの問屋が集まり繁盛してきました。



1970年創業の松本市の名店、老舗のカレー屋です。
建物は明治に建てられたもので、昔の建物をそのまま利用していて趣があります。



栗菓子の店で有名な竹風堂です。
松本市中町蔵の会館は、蔵の町・中町の拠点となっています。
もともとは造り酒屋で、母屋、蔵、離れの3棟を移築、改修したものです。
軒先には、その象徴である杉玉がゆれています。



蔵シック館の喫茶店は明治建造の蔵です。
城下町松本の商家の繁栄を伝える土蔵造りの建物が、現代に伝えられています。



創業100年の老舗漆器店の伊原漆器専門店です。



中町通りは、主に酒造業や呉服などの問屋が集まり繁盛してきました。
しかし江戸末期や明治に南深志一帯が大火に見舞われ主要な施設や町家が多数失われました。
再三にわたる火災から守るため、商人たちの知恵で「なまこ壁の土蔵」が造られました。



千国街道、野麦街道、伊那街道、北国西街道が交差する要衝として発展してきた松本には、土蔵造りの商家や店舗が数多く残っています。



江戸末期や明治に南深志一帯が大火に見舞われ主要な施設や町家が多数失われました。
市内には町のあちこちに井戸があり、綺麗で冷たい水を楽しむことができます。



なまこ壁の土蔵の白と黒との簡潔なデザインが、古き松本の雰囲気を漂わせています。



中町通りは民芸・工芸などの店が集まり、松本でも一種独特の町並みをつくっています。



これから縄手通りに向かいます。

続く...............................................................。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その12

2017年03月23日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
長きにわたり松本城を紹介してきました。
今回が最後の紹介です。
日本の主要名城は150ほどありますが、国宝に指定されているのはわずか5城です。
2015年に松江城が追加されたので、現在『彦根城(滋賀県彦根市-1606年(慶長11年)』、『松江城(島根県松江市-1607年(慶長12年)』、『姫路城(兵庫県姫路市-1609年(慶長14年)』、『犬山城(愛知県犬山市-1601年(慶長6年)』、『松本城(長野県松本市-1597年(寛永10年)』の5城です。



現存天守があるのは弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城、の12城です。
江戸時代以前から残っているお城で、改修・修復等はありますが、焼失したり倒壊したりすることなく約400年以上、残っている貴重なお城の一つが松本城です。



「埋の橋」越しの松本城は記念写真の定番スポットです。



松本城の歴史をもう一度振り返ってみます。
松本城は、もともとは山に囲まれた松本盆地に作られた山城が元になっています。
16世紀前半に、当時の信濃守護であった府中小笠原氏によって築城され、当初は、松本城ではなく、深志城と呼ばれていました。



武田信玄は、深志城を筑摩・安曇野地方の郡代(代官)を置き、松本一帯を支配し、その後、越後の長尾景虎と争い、信濃を統治することになりました。
武田氏の支配は、おおよそ30年ほどにわたって続けられました。
武田氏が滅亡した1582年に、小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾を受けて深志城を復興した際に、松本城という名前に改称しました。
その後徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代わって石川数正が松本城に入ります。
石川数正は城の大改築に乗り出し、本丸、二の丸、三の丸などの整備を始めます。
改修工事は息子の康長に受け継がれ、1592年(諸説あり)、現在に残る国宝指定の天守・乾小天守、渡櫓が完成しました。



松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した戦うための漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城です。
石川康長は大久保長安事件により改易となり、再度小笠原氏が飯田藩から再び松本に入りますが、小笠原氏も播磨明石へ転封となりました。
その後は、徳川家光の守り役として知られている松平康長、松平(越前)直政など、城主が次々と変わりました。



さらに1633年(寛永10年)に入封した松平直政によって辰巳付櫓、月見櫓が付けられた。



城主が落ち着いたのは、松平康長を祖とする、戸田松平家の松平光慈が移ってきた江戸時代の半ばごろでした。
その後、明治時代まで戸田松平氏によって治められました。



松本城の五重天守は姫路城とともに現在2基しか現存していない非常に貴重な建物となります。
また天守の外壁は、どの階も下部を黒漆塗りの下見板で覆っていることもあり、松本城は別名、烏城ともいわれています。
松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のしるしといわれています。



明治時代になると、城郭破却という新政府の意向で、日本各地で城郭が壊されていきました。
松本城も解体される危機となりましたが、危機を乗り越え保存会が結成され、老朽化によって傾いていた天守は、明治36年から10年かけて大修理が行われました。



トッポパパもこれが最後の松本城訪問でしょう。
富士山、日本のお城などは、やはり日本の顔ともいえるので、これからも大切に保存されることを願っています。
この後松本市内を、少し歩いてみます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その11

2017年03月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
ひととおり松本城内部を見学してきたので、本丸御殿跡に戻りました。



本丸御殿跡も、これから春になるともっと緑濃いきれいな広場になるのでしょう。
本丸御殿跡の手前に桜の木が1本あります。
これは「清正公駒つなぎの桜」と伝えられているものです。
豊臣秀吉の家臣として仕えた加藤清正が、熊本城主となり、熊本から江戸に出向いた際、帰りにこの松本城に立ち寄り、その時にこの木に馬を繋いだとされています。
こんなエピソードがネットで紹介されていました。

当時城主だった石川玄番頭は、遠くからわざわざ寄ってくれた清正に対して、2頭の馬を見せ「土産にどちらでもお気に召した方を1頭差しあけましょう」と言いました。
すると清正は「貴殿の目利きで取り立てた駒(馬)を、我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない」と言い、
そしてなんと、「2頭とも申し受けるのが礼儀と心得る。」と言って、2頭とも持って帰ってしまったというのです。



松本城の天守の高さは29.4mもあり、ビルの高さにすると、ほぼ10階建てに相当します。



黒門より外に出ます。
気がつけば、立派な石灯篭がいくつもあります。



もう一度、甲冑武者と記念撮影です。



内堀の外側を回ってみます。
ネット情報で、月見櫓の建立理由の記述がありました。
将軍家光は京都からの帰りに善光寺参詣するため、松本城に立ち寄ることになり、直正は家光のために急遽、辰巳櫓と月見櫓を造りました。
この時、時代は太平の世となり石川康長が造った戦国末期の松本城の雰囲気とはまったく違った、風雅な建物が増築されたのです。しかし、中山道のがけ崩れにより家光の善光寺参詣は中止され、松本城を訪れることはありませんでした。



天守の築造年代は文禄2-3年(1593~4)と考えられています。
松本城は、激動の歴史を乗り越えてきた500年以上の長い歴史を有しているお城です。
何度も存続の危機に遭いながら存続してきた貴重な城であるとわかります。



姫路城は、白鷺城とも呼ばれる事からわかる通り「白い城」である事に対し、松本城は別名「烏城」と呼ばれるほどに「黒い城」です。
これらの色は、実は築城の際、徳川家康と豊臣秀吉のどちらが関わったかで決まっているようです。



家康の息がかかったお城は白い城(宇和島城など)、秀吉の息がかかった城は黒いお城(大坂城など)となっています。
大阪城も、戦国当時は金箔の瓦と黒漆の壁で造られたお城だったそうです。
家康と秀吉の趣味の違いが顕著に反映された結果と紹介されていました。



続く.................................................................。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その10

2017年03月21日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
急な階段なので足を踏み外さないように、ゆっくりと月見櫓まで下りていきます。



月見櫓から大天守の本丸側です。
戦国大名が領国をめぐる争いを繰り返してきた戦国時代、常に敵と戦う備えを持っています。



松本城は戦うことを想定した大天守・渡櫓・乾小天守の三棟が戦国時代末期に、それから40年後の江戸時代初期の平和になった時代に、戦う備えをほとんどもたない辰巳附櫓・月見櫓の二棟が建てられました。



月見櫓から見る内堀です。



月見櫓は東西四間×南北三間で、月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部です。



朱色の漆が塗られた刎ね勾欄を施した回縁が巡っています。



月見櫓の前からは、大天守・乾小天守が臨めます。



本丸御殿は5棟、部屋数は60余り、建坪は830坪の広さでした。



藩の正政庁で、城主の居館でしたが、享保12年(1727)火事により焼失しました。



御殿は、城主の住居であると同時に、家臣がその主従関係を確認する対面の儀式が行なわれる場や藩政のための庁舎であり、城内で最も重要な施設でした。



続く..................................................................。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その182 『松本城』 その9

2017年03月20日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
これから松本城の最上階まで上がります。



4階から5階への階段の勾配は60度に及び、階段というよりハシゴに近いです。



最上階の6階へ通じる階段は、天井が高い分途中で折れ曲がる構造になっています。
床と天井の間は4mあるため、斜度があり、踏み板の幅が狭く踏み板の段差も高くなっています。
有事に簡単に敵に昇らせないように、とにかく昇降しにくく造られています。



上り下りが交錯するので、上った人も下りるタイミングに躊躇しています。



天守六階は、3間の一部屋となっています。
無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能で、階段を除き、京間16畳の大きさとなります。
有事には、司令塔(城主の座所)となるところでもあります。



天守最上階の天井は、柱が複雑に入り組み、瓦屋根の軒先が重さで下がらないようにする桔木(はねぎ)構造と呼ばれます。
テコの原理を使い、太い梁を井の字に組み、四方へ出て軒をつくる垂木の下に軒先を支えるための桔木を放射状に配置します。
鎌倉時代の寺院建築から採用されている技法です。



天井中央にまつられているのは、二十六夜神という松本城を守る神様です。



奥に見えるのは、天守内部から見た千鳥破風です。
格子窓がつけられ、内側に数人が入れるスぺースを設けて攻撃拠点にしています。



天井板は無く太い梁が縦横に走り、天守は層塔型のため四方に窓があり遠くから真下まで見ることができます。



本丸御殿跡の広さがよくわかります。



6階の床面は、地上22.1m、堀水面上23.9mあり、東は美ヶ原高原、南は塩尻・木曽方面、西は安曇平が広がり、その向こうに北アルプス、北は城山方面が一望できます。



続き.................................................................。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加