tonton

tontonの日常

27年前

2017-08-28 12:43:23 | 日記
27年前
隣の市の市民講座でパソコンのことを教えてくれるという事で、職業訓練校だったかに申込に行った

その同じ足で次男の掛かっていた病院にも行った
夏休みだから本人の受診をするようにと言うことだったと思う
それまでは月に1度親だけが、てんかんの薬をもらいに行ってたから

その時も、次男は頭が痛いと言っていて
次に頭が痛いときは、翌日の朝の様子を診たいから入院して下さいということだった

このときまでに次男がてんかんではなくて、他の病気だと、主治医が認識をしてくれたら
次男は脳室内出血も、脳梗塞も起こさずに済んだかもしれないのにと、何度も繰り言のように思った

この1週間後の9月3日に脳室内出血を起こしたから、私は、ああ、入院だなあと思いながら、本当は救急車を呼ぶべき所を自分の車で連れて行った

私はその時、普通にただの母親で専門家じゃない
けれど、医療の専門家のはずの医師が次男を診たのに、看護師さんが普通じゃないと思って早くカルテを廻してくれたのに
医師は夕方5時まで入院病棟のベッドに寝かせたまま
他の医師の巡回でおかしいという報告を受けてCTを撮った

5時過ぎの誰も居ない廊下で、心細い思いの親が居るところで、キャンキャンと大きな声で、あら~、○○さんお久しぶり、奥さんお元気?と、検査技師と軽口を聞きながら・・・

5分もしないで出てきて、脳室に出血しています、ここには脳外科が無いのでメディカルセンターに転院します、お父さんと連絡は取れますか?

と言われた

講座は先着40名だったと思うから、受講できなくなったことを伝えた、他の人が申し込めるように

長いこと患者会に関わるようになって、昔の体質を私が変えてしまったことで、最初の数年はけんか腰のような会議だった

そのあと落ち着いて数年が過ぎ、昔から居る世話人は、2,3人となり
その中のひとりに言われた

この前テレビを見ていて
拉致被害者の会のお母さんがなんだかあなたとダブって見えたわ
あなたも子どものために必死に勉強したのよね…

なんて
私はそんなふうに思ったことはなかったけど

でも今思う
拉致被害者のお母さんも、地下鉄サリンの被害者の駅長さんの奥さんも
会の代表となって動いているのを見たとき

この人達も人生が変わったんだなって
ふつうのおかあさんであり、ふつうのおくさんだったとき、会の会員を引っ張って行動することなど本当は無縁だっただろうに

その方々を知らないから、それまでにもそういう力が有った人だったのかどうかわからないけど

そして一患者会の私のような特別何もしていない世話人のひとりがその人達と比べるような立場ではもちろんないけど

それでも、27年前の9月3日は、次男だけではなく、私にも大きな影響のある日になったわけで

箱入り主婦の私があちこち出掛けるようになるなんて思ってもみなかった
出掛けるときには、誰かの後をついて行けば良かったのだから

もっと大きな患者会に関係していたときには
国会議員会館で議員の先生や秘書さんの前で、患者会の現状を発言したこともある
自分の患者会でも、司会や挨拶をする
そんなときにもあまりあがらない私は、自分でもなんだこりゃ?と思うような心臓に毛が生えているのかもしれないけど
でもそれは、私はただの主婦で、大学を出たとか、専門の勉強をしたとかいう立場ではないから
私が何か素敵なことを言ったり、みんなが感心するようなことを言わなくても仕方がないと思っているから^^;

次男が27年の病気との付き合い
私が25年の患者会の付き合い

きっと最後にはこのことだけが生きた証みたいになるのかもしれないけど

誰とも話をするのに、どうして夫に話をするときだけどきどきして上手く言えないんだろう
言っても伝わらないと思っているからか
最初の一言から言えない

だからこそ、紙に打ち出して読んでもらったのだけれど
何一つ答えては貰えず、離婚話
離婚という言葉で私を脅したのか…
そして今、何事も無かったかのように話をする夫に、私から話をするつもりにはなれない