私は子どもの頃、鍵っ子という言葉がまだ無い頃からの鍵っ子だった
カギは1人に1つずつ有ったわけじゃないから
物置の決めた場所に隠してあって
どういうわけか学校でトイレをしないで帰ってきてもじもじしながらカギを開けるのに大変な毎日だった^^
私が末っ子だから、一番早く帰ってくるわけで
誰も居ない家の中に入るときの冷たさ、淋しさ・・・
いつの頃からか、私がもしも結婚したら、私はずっと家に居るお母さんになりたい
そう思ってた
雨が降ったら、余所の子みたいにお母さんが傘を持ってきてくれるような
あめふりの童謡そのままだったから
結婚して、しばらくしたら
家に居るのはもったいない働こうと思った
夫の仕事は日当稼ぎだったから、家賃だけでも確保できたらということもあった
面接に行って働くことが決まったすぐ後に、つわりが始まった
それが寝込むようなつわりで、数日で動けなくなった
2ヶ月ぐらい家で寝たきり・・・
がりがりに痩せた私と、毎日に疲れた夫は、早い妊娠だった、産まないことにしようと話して、中絶した
5ヶ月になっていて、1泊入院しての中絶だった
あの子が生まれていたら、20歳で私はお母さんだった
その後、もう一度働くことが出来るかどうかを家から近いその会社に問いあわせたら、来てくれるなら助かると言って貰って働き出した
週に1日は休みを貰って、夫の寝たきりの妹のお世話のために夫の実家に通った
社長はそれも快く了解して下さった
社長には、働きぶりを褒めて貰って、認められることが嬉しかった
辞めた後も、一番大変なときに頑張って貰ったからと、辞めた後にボーナスを出して頂いたことに感激した
日曜日しか休みがないのに
夫は東京が空いているからと、日曜日に仕事に行き
雨の日は休みで家に居て、すれ違いだった
たまたま休みが重なっても、わたしの気持ちなど無視して友だちを呼んだりした
やっぱり家に居たいと思った
夫の傍に居たかった(今なら思わないのに)
大田区の実家に行くのも、夫の実家の板橋に行くのも、遠くて
家賃と高速代と考えたら、東京のアパートに越してもやっていけるんじゃないかと私が言って、引っ越した
その大田区のアパートで子どもを2人産んだ
長男の時は2ヶ月入院した、重症妊娠悪阻という病名
立って歩けないほど衰弱して、すぐ入院となったとき、もっと早く病院に行っていたらこんなにひどい思いをしなくてすんだのにと思った、入院しても良いなんて知らなかった
1人で秤に乗れなくて、師長さんがおんぶをして体重を量った、たぶん30何キロか
しばらくして歩いて計ったとき、やっと40キロになったと師長さんが喜んでくれた
次男の時は、点滴がイヤで2週間で逃げてきた
実家に世話になったけれど、母のイヤミで家に帰りたくなって帰ったり、帰れば結局は寝たきり
長男を近所の人が遊ばせてくれて、ご飯も運んで貰っても食べられなかった
夫が腰痛のために転職をして
土浦に引っ越したとき、引っ越しの段ボールが片づいたかどうかと言う頃、思いもしない妊娠で
娘がお腹に入った
土浦でも、2ヶ月の寝たきり
今度は実家もない
長男が次男の面倒を見てくれて、すごいお兄ちゃんだと感謝した
布団の中から、弟のお漏らしを始末してくれる長男に、ごめんねと言うと
「赤ちゃんが生まれたら治るから大丈夫だよ」・・・と言ってくれた言葉は私の宝物だ
この子ども達が居るから私は働くことなど考えなかった
それでも子ども達が大きくなってきて、今の家に越してきて、娘を保育園に入れるために働いたことがある
農水省の研究施設でのパート
園芸高校卒は、決め手だった
そこを辞めたあとは、大型園芸センターの店員だった
昔とった杵柄だ
でもそのお店がお店側の都合で閉店になって
それからは、完全に家に居る
同時に、次男の迎えはしょっちゅうだったし
早退する子どもを迎えに行く親だった
病名がついて
そしてまもなく、患者会と言う事になる
今は思う
子どもの時にして欲しかった、いわば、無い物ねだりだったけど
若いときから働いていたら、それなりの収入があったり、自立できる道があったら、離婚も出来るのにと
最初のパートで働いたお金が、家賃と光熱費に使われるということではなく、預金することが出来ていたら
なんて思ったりもした
どこかでいつも、考え方が間違っているのかもしれない
もう取り返しがつくわけじゃないのに今ごろそう思っても・・・
カギは1人に1つずつ有ったわけじゃないから
物置の決めた場所に隠してあって
どういうわけか学校でトイレをしないで帰ってきてもじもじしながらカギを開けるのに大変な毎日だった^^
私が末っ子だから、一番早く帰ってくるわけで
誰も居ない家の中に入るときの冷たさ、淋しさ・・・
いつの頃からか、私がもしも結婚したら、私はずっと家に居るお母さんになりたい
そう思ってた
雨が降ったら、余所の子みたいにお母さんが傘を持ってきてくれるような
あめふりの童謡そのままだったから
結婚して、しばらくしたら
家に居るのはもったいない働こうと思った
夫の仕事は日当稼ぎだったから、家賃だけでも確保できたらということもあった
面接に行って働くことが決まったすぐ後に、つわりが始まった
それが寝込むようなつわりで、数日で動けなくなった
2ヶ月ぐらい家で寝たきり・・・
がりがりに痩せた私と、毎日に疲れた夫は、早い妊娠だった、産まないことにしようと話して、中絶した
5ヶ月になっていて、1泊入院しての中絶だった
あの子が生まれていたら、20歳で私はお母さんだった
その後、もう一度働くことが出来るかどうかを家から近いその会社に問いあわせたら、来てくれるなら助かると言って貰って働き出した
週に1日は休みを貰って、夫の寝たきりの妹のお世話のために夫の実家に通った
社長はそれも快く了解して下さった
社長には、働きぶりを褒めて貰って、認められることが嬉しかった
辞めた後も、一番大変なときに頑張って貰ったからと、辞めた後にボーナスを出して頂いたことに感激した
日曜日しか休みがないのに
夫は東京が空いているからと、日曜日に仕事に行き
雨の日は休みで家に居て、すれ違いだった
たまたま休みが重なっても、わたしの気持ちなど無視して友だちを呼んだりした
やっぱり家に居たいと思った
夫の傍に居たかった(今なら思わないのに)
大田区の実家に行くのも、夫の実家の板橋に行くのも、遠くて
家賃と高速代と考えたら、東京のアパートに越してもやっていけるんじゃないかと私が言って、引っ越した
その大田区のアパートで子どもを2人産んだ
長男の時は2ヶ月入院した、重症妊娠悪阻という病名
立って歩けないほど衰弱して、すぐ入院となったとき、もっと早く病院に行っていたらこんなにひどい思いをしなくてすんだのにと思った、入院しても良いなんて知らなかった
1人で秤に乗れなくて、師長さんがおんぶをして体重を量った、たぶん30何キロか
しばらくして歩いて計ったとき、やっと40キロになったと師長さんが喜んでくれた
次男の時は、点滴がイヤで2週間で逃げてきた
実家に世話になったけれど、母のイヤミで家に帰りたくなって帰ったり、帰れば結局は寝たきり
長男を近所の人が遊ばせてくれて、ご飯も運んで貰っても食べられなかった
夫が腰痛のために転職をして
土浦に引っ越したとき、引っ越しの段ボールが片づいたかどうかと言う頃、思いもしない妊娠で
娘がお腹に入った
土浦でも、2ヶ月の寝たきり
今度は実家もない
長男が次男の面倒を見てくれて、すごいお兄ちゃんだと感謝した
布団の中から、弟のお漏らしを始末してくれる長男に、ごめんねと言うと
「赤ちゃんが生まれたら治るから大丈夫だよ」・・・と言ってくれた言葉は私の宝物だ
この子ども達が居るから私は働くことなど考えなかった
それでも子ども達が大きくなってきて、今の家に越してきて、娘を保育園に入れるために働いたことがある
農水省の研究施設でのパート
園芸高校卒は、決め手だった
そこを辞めたあとは、大型園芸センターの店員だった
昔とった杵柄だ
でもそのお店がお店側の都合で閉店になって
それからは、完全に家に居る
同時に、次男の迎えはしょっちゅうだったし
早退する子どもを迎えに行く親だった
病名がついて
そしてまもなく、患者会と言う事になる
今は思う
子どもの時にして欲しかった、いわば、無い物ねだりだったけど
若いときから働いていたら、それなりの収入があったり、自立できる道があったら、離婚も出来るのにと
最初のパートで働いたお金が、家賃と光熱費に使われるということではなく、預金することが出来ていたら
なんて思ったりもした
どこかでいつも、考え方が間違っているのかもしれない
もう取り返しがつくわけじゃないのに今ごろそう思っても・・・