働く主婦のじゅんこです 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

無上の夢

2011-05-16 22:10:09 | 世事情いろいろ
大抵の親が、一度は子供に尋ねることがある。
「大きくなったら何になりたい?」。。。

でも、その時、「お父さんは?」と切り替えされたら、親はどんな答えを持っているだろう。。。

確かに自分も子供の頃は、「ああなりたい」「こんな職業につきたい」と夢を語っていたはずだった。

しかし、大人になるにつれ、夢と現実は違うのだ、と単調な毎日にどっぷりと漬かっている。

せめて、子供に夢を託し、「何になりたい?」と聞きたくなるのだろう。

ラジオで、子供が父親に将来の夢を聞かれたとき、「お父さんはもっと大きくなったら、何になりたいの?」
と聞き返すCMが流れていた。

お父さんは、確か絶句していたと思う。

子供の頃の夢は果たせず、いまさら未来の夢は描けず、人生なんてこんなもの、と結局、人はアキラメで
終わってしまうのでなかろうか。

何十年と、築き上げた生活も仕事も家族も、津波に流された大震災から、もう2ヶ月が過ぎている。
上を向いて前へ進もう、と必死で頑張っている人達がいる。

しかし、復興しても、周期的に起きる地震や津波から逃れることはできない。

東南海地震は、今後30年以内に約7割の確率で起きるという。

そう遠くない未来に大災害が身の上に降りかかる地域で、いつもと変わらず生活している人達がいる。

いつ爆発するか分からない時限爆弾を抱えているようなものだが、誰もパニックに陥ったり、悲観などは
していない。

そうして、地震や津波が無くても、今から100年後には、今いる地球上の人類のほとんどが、100%地上から
失せているのだが、その残酷な現実にショックで涙する人は誰もいないのだ。

これは一体どうしたことだろう。

どんなに風船を膨らませても、最後はしぼむか、破裂してしまうように、どんなに夢をふくらませても、最後、
「死」という怪物に、ぐにゃりと握りつぶされて終わってしまう。。。

これでは結局、全人類は大いなるアキラメで生きるしかないのである。

幸いにも、親鸞学徒の夢は、未来永遠に変わらない幸福に救うという弥陀の願いに生きる夢。。。

その無上の夢に向かってこそ、我生きるしるしあり、のアキラメのない人生があるのだよ、と親鸞聖人は
教えられている。

どうか崇高なこの夢を、すべての人に届けたい。
それには、どうしたら、どうしたらという見果てぬ夢が、ついついこんな夜もブログを書かせてしまうのだろう☆

人間関係の物差し

2011-05-14 08:49:26 | 芸能
俳優、森繁久彌氏が、舞台で演じていた時、最前列で、終始うつむいている女性がいる。

観劇に来ながら居眠りをしている、とピンと来た氏は、内心穏やかならず、舞台上で演技に
かこつけてドンドンと地を鳴らし、起こそうとした。

ところがその少女は、全盲だった。
演劇が始まってから終わるまで、全神経をそばだてて、一生懸命演技者の声を拾っていたの
である。

それを後に知った氏は、おおいに恥じ、慚愧に涙せずにおれなかったと言われている。

誰でも思い込みや間違いはある。
大事なことは、それをいかに受け止めて、次に生かすかということ。

森繁久彌が、96歳の長寿を全うした後も、多くの人達に慕われたのは、その自分よがりでない
演技力、相手の立場を思いやる人柄ではなかったろうか。

あの人は善い人、悪い人、と人が集まれば話が出るものだが、その判断基準の多くは、話し手
自身の都合によるもの。

言われた側からすれば、相応の言い分があるに違いない。

だから、どうしても安易に同調できないでいるし、他人のことを言うときは、つい悪く言ってしまい
がちだから、自戒するところでもある。

「ウンウン」と意見を受け入れれば、相手を満足させ、抱える苦しみも軽くなるのだろうが、独り
よがりな思いで悩んでいる人には、あえて、こんな見方もあるのだよ、と勇気を持って異にする
見解を示すことも必要でなかろうか。

そう、大事な人であるならば。。。

人間関係ほど、微妙で複雑、難しいものはない、と知らされる日々である☆

批評家になる前に

2011-05-04 21:10:30 | 医学
脳の血管に出来るコブ、脳動脈瘤(りゅう)。
破裂すれば半数が死に至るこの脳動脈瘤治療の第一人者が、脳神経外科医の上山博康氏である。

手がける手術は年間およそ600。
その腕を頼って全国から患者がやってくる。

覚悟を持って患者に向き合う上山氏の原点には、恩師から言われた1つの言葉があったと言う。

29歳の時、生涯の師と仰ぐ医師との出会い。
伊藤善太郎、全国的に知られた脳卒中のエキスパートである。

「患者の思いに応えるのが医者の仕事だ」と自分のやり方を貫いていた。

たとえば、とても助けられない患者であっても、自分に非があったかのように遺族に
「申し訳ない」と頭を下げる。

一歩間違えば、医療ミスとも受け取れかねない。
そんな姿勢を、快く思わない医師も少なくなかった。
納得いかない思いは、若い上山自身にも。。。

そんなある日、恩師が彼に言った。

「批評家になるな、いつも批判される側にいろ」。。。

医療に対する覚悟を知らされた衝撃の言葉だった。

世に批評家は、たくさんいる。
公に言える立場の人、身近にもいるだろう。

原発事故でも「ああだった、こうだった」と離れたところから検証することも大事だろうが、
今も被爆覚悟で働く人、国難として向き合い指揮を取る人など、それぞれの立場で、最善を
めざし死力を尽くしている現場の人達がいる。

批判するには、それらの人と同等か、それ以上の必死の覚悟と言動が伴ってこそでなかろうか。

復興に熱いソフトバンクの孫氏が、福島に乗り込んで、泣いて知事に談判したと聞けば分かる
話でも、遠くで安閑としている人が、「どうしてこうなんだ」と非難したところで、どれだけ説得力
があるだろう。

安易に批評し、批判する側に立つ人は多いが、信念を持って非難にもあえて立つ勇者は少ない
もの。

伊藤医師の言動も、「患者の立場に立つ」という信念があったればこそ。。。

肉体の延命でも、信念の元、批判にあえて立つ医療者がいるのだ。

まして、未来永遠の魂の浮沈に関わる「なぜ生きる」を、世間中の非難攻撃覚悟で、あきらかに
なされた親鸞聖人の御心ははかりしれない。

その御跡に続く自負あれば、ひたすら、教えを仰ぎ従うのみ。
自分の思いなど入る余地はさらさらないと知らされるばかりである☆