ヴィラ へようこそ....

小さな田舎町 ヴィラ でこんなブル-カラ-人生を送ってます.

宇多田ヒカルの英語

2008年02月29日 | 英語
あるサイトに英語を話す有名な日本人の映像を集めたのがあって, そこで日本の歌手とかスポ-ツ選手, 政治家, タレントさん達が英語を話している場面が観られるようになってなっています.

有名人の英語力をCHECK!

その中に宇多田ヒカルさんが英語を話している映像もいくつかあり, 彼女がアメリカ進出した時にアメリカのある TV 番組でインタビュ-されたものとか, ある日本のバラエティ- 番組で英語を話している場面とか. いろいろ.

彼女の英語の歌は何回か聞いたことはあるのですが, 実際に彼女が英語を話しているのを聞くのは初めてでした. 彼女は NY 生まれの帰国子女ですが, 小さい頃から日本とアメリカを行ったり来たりしていたようです.

彼女の英語はネイティブのように聞こえますが, 実はネイティブとは微妙にチヨット違うような気がしますね... 言葉は英語なんだけど, 日本語を話しているように聞こえるんです. 何というかアクセントが少し違うというか, 彼女の話し方, 発声法が違うのかな.. 話している時のジェスチャ- というかボディランゲ-ジは日本人っぽいですね.

両親も日本人, 高校は日本のインタ-ナショナルを出たそうですが, NY より日本での生活の方が長いという事. なるほどその影響かも.. どうもアメリカで育った風ではない. 彼女は完璧なバイリンガルと言われているようですが, それはどうでしょうか.. と私は疑問に思います. 彼女の日本語も決して美しい日本語ではなく, いわゆる友達言葉のようなくだけた話し方ですよね. 完璧なバイリンガルになるって本当に難しいのです.

宇多田ヒカルさんの英語を聞いていて, フト自分の娘の英語を思い出しました. 娘の英語もちょうどこんな感じだと思います. 英語なんだけどト-ンは日本語のようなのです.

この娘, 小学校の2年生から4年生まではニュ-ジ-ランド, 帰国して4年生の2学期から6年生の1学期までは日本 (その間に英語は忘れた), そして6年生の2学期から現在 (大学2年)までアメリカ暮らしです. 渡米した時は11才でした. 年齢が10才以上だとネイティブの発音を習得するのは難しいと言われてますが, この娘もそのケ-スなのかも... 彼女の発音はネイティブとは少し違うようです.

娘の英語にアクセントがあることに気がついたのはごく最近です. それ以前は誰にもそんな事言われたことがなかったので, 全く気にもとめておりませんでした. 娘は高校一年の夏休みに, 家の近くにあるテ-マパ-クのような大きな遊園地でアルバイトを始めたのですが, その時娘を面接したここのマネジャ-があとでこう言ってました.

娘と最初に交わした電話での会話で, このマネジャ-はこの女の子は少しアクセントがあるのだけど, この子の名前といい一体どういうバックグランドだろうかって.. 白人の英語でもないし, 黒人のでもない... そして会ってみて納得.

でもこのアクセントはネイティブが聞けばですので, 微妙な違いだと思いますが, この微妙さが結構, 大きいようですね. 私はそう言われて初めて, そういえばそうかもねと気になり出したのです.

ちなみに私がこの宇多田ヒカルの英語の話しを娘にしたところ, 自分もそう思うと言ってました. 彼女のアメリカデビュ-の CD, 私も聴いてみました. あれは失敗だったそうですが, あれって最初から本気だったとは思えないですね. だったとしたら, ここの業界を知らなすぎるのか, マ-ケティングが悪かったか, のどちらかです.

ところで黒人の英語って, 独特ですよね. 電話でも(例えばセ-ルスマンとか) ラジオでも顔が見えなくても, すぐわかります. でもこの独特のアクセント, 黒人でもインテリになるとほとんど無いです. オバマ次期大統領候補とかライス国務長官などの英語は, インテリ白人の英語とほとんど変らないです.


VILLA RIDGE, 本日久しぶりの快晴

不思議なウォンさん

2008年02月28日 | 日々のこと

東京すし

オ-ナ-のウォンさんとチョット

この人がこの店のオ-ナ-のウォンさんです. この店, 開店して4年目だそうです. 店内のインテリアにはかなり凝っていて, 本物の日本人形や高そうな日本的オブジェなどが飾ってあり, また床のフロア-が落ち着いた雰囲気を出してます.

メニュ-はやや高めですが, 結構繁盛してます. お客のほとんどが常連客だそうです.

このウォンさん, 外見からは想像つきませんが, ミリオネア-だそうです. この店の近くの高級住宅地に住んでいます. 本人は質素なんですが, この店で一緒に働くウォンさんの奥さんはかなりタイプが違います.

彼女はいつもドレスアップ, 化粧バッチリ, ショッピング大好き, カジノ大好き... もう金持ちマダムです. この二人, レストランで一緒に働く以外は別行動だそうです. 一人息子はセントルイスにある, 学費の高いので有名な大学に行っていて, 家には週末に帰ってるみたいです. この息子は母親ベッタリで, 自分とはあまり話しをしないとウォンさんは言ってました.

去年の暮れ, ウォンさんの愛犬が病気になり, 獣医からは, 無駄な治療よりも安楽死をと推めらた時は, かなり落ち込んでいました. 結局その犬は死んでしまったのですが, その時のウォンさんは人と話しが出来ないぐらいだったようです. とても可愛がっていたのはわかりますが, 仕事も手につかないぐらいと言うのは, 少し普通じゃないような気もしたけど.

そして今年の1月にマルチ-ズの仔犬をインタ-ネットで買いました. 名前はチョットです. (娘がつけました) とても可愛がっていて, 時々お店にも連れて来ているようです. 良かったね, ウォンさん.

このウォンさん, 私達家族にとても親切です. (以前のブログに書いたように) 私達はよく食事に招待されます. いつもこの店で最高に美味しいものを作ってもてなしてくれます. 嬉しいですね (でもちょっと理由がわからない), でもおいしいもの食べたいので理由なんてどうでもいい, 喜んで行ってます.

娘が言うには, ウォンさんは日本人が好きで, また自分の仲間, 友達がほしいんじゃない..と. このレストラン経営も趣味でやっているような感じで, 全く商売っけないないのです. なんせミリオネア-ですから. まだまだ謎の多いウォンさんです.

ここで働くすしシェフ, フロリダで修行したアメリカ人ですが, 結構上手です. 材料はほとんど冷凍パックされたものですが, なかなか美味しいです. 中にクリ-ムチ-ズが入ったものがあって, これがいけるんですね, 以外と.

以前, スシ用のタコをもらったのですが, タコって久しぶりに見ると, グロテスクですね. こんなの食べるの? って感じ. 昔はそう思わなかったけど, あの吸盤なんか触るのも恐ろしい...


ここのスシ職人の給料を聞いてビックリ!
なんと月 6,000 ドル. ウォンさんこんなに払ってだいじょうぶ?


北風と太陽

2008年02月26日 | 仕事
私が働くシフトには二人のマネジャ-がいます. とても対照的な二人です. 一人はビュ-ビュ-と風をふかせ, 旅人のコ-トを強引に脱がせようとするタイプ - 仮に北風くんとしましょう. もう一人はふんわりと暖かく包みこんで, 旅人自らコ-トを脱いでくれるのを忍耐強く待っているタイプ - この人を太陽くんと呼びましょう.

私が勤めだした頃は, どちらかと言えば太陽くんタイプのマネジャ-が多かったのですが, 最近は会社の方針が変ったのか北風くんタイプも出てくるようになりました.

この北風マネジャ-, 最初は温厚でかんじの良い人だったのですが, 実は かなりごう慢で強引な人だったんです. 少し権力を持つといっきに豹変する奴 - こういうタイプはこの職場では短命です. (過去の例からすると)

北風タイプでも, 仕事がバリバリ出来て, 部下への指示も明確, 問題解決能力もある, そして自分にも自分の部下と同じぐらいかそれ以上に厳しい人は出世するかもしれませんが, たぶんこの北風くん, ここどまりかな... というのが皆さんの意見.

当然この北風くん, ほとんどの人から嫌われています. 仕事が始めるミ-ティングでも, この北風くんの担当の夜は, みんなシ-ンとしています. そして北風くんの話す内容は, ほとんどが小言です... ただでさえ, モチベ-ションが上がらない職場なのに, さらに状況を悪くしてます.

この職場, 家庭的な雰囲気が売り物で, 高齢者や身体にハンディを持つ人々をある割合で雇っていて, 社会貢献に一役かっているようですが, これも段々と変りつつあるかもしれません. 最近は会社のル-ルにそぐわない人はいらないとハッキリ言ってますから.

かたや太陽くんが担当の夜はかなり和気あいあい, あの古き良き時代の頃に戻ったような気にさせます. 同じ人々と同じ仕事をしているのに, これほど雰囲気変るなんて... 人間関係って大事ですね.

アメリカ人は感情をストレ-トに表現する人が多いので, 嫌いな人の前ではハッキリ嫌いとわかるような態度をとります. みんなの和を大事にする日本人とかなり違います. そしてアメリカ人は結構キレる人が多いですので, マネジャ- に小言を言われカッとなって暴言をはいてクビになる人, 多いですね, 私も何人か見ました. 日本人は上司の前ではペコペコして, 裏で悪口を言うタイプが多いですが, ここの人はペコペコしないと言うか, 出来ない人が多いですね.

ペコペコするという表現はあまり適してないかもしれませんが, 上司によっては, 自尊心までズタズタにするようなきつい言葉で罵る人もいるようですが, 罵られたらその場はジッと我慢して後で涙するという人, 日本人には多いのではないですか. (少なくても, その気持ち, 理解出来ますよね) それがここの人達にはできないと思います. おそらく..


ひと気のない深夜のストア-

ところで深夜のストア-, 昼間の混雑をさけ, 人のいない深夜にゆっくり買ものでも...と思って来ると, 実はとても買ものしずらい.... のです. 深夜働く人達は入荷した荷物をストックするのが仕事ですので, 買いもの客が来ると仕事のジャマ...になるのです.

特に食料品コ-ナ-の通路なんて, 荷物で一杯, とても人が歩けるようなスペ-スはありません. それをかき分けて, そこで働く人のジャマだよ, 早くしろ死線を感じながら, ちょっと失礼します, という感じで買いものを素早くしなければいけません.

場所によっては無人のところがあり, 服一枚試着するのも, いちいち担当の人を呼び出さなければならず, かえって時間がかかります.

またフロア-はメンテナンスの人達がワックスがけを常時してますので, なかなか自分の行きたいところにいけず, 遠まわりをしなくてはいけないときもあります.

また深夜の客はかなり目立つので, 落ち着いて買いものできないのではと思いますが... ですから皆さん, 遅くても午前12時までには帰りましょう!







親子留学のはしりだった私達... (その4)

2008年02月24日 | 英語
私は自分の学校の勉強の事ことを始め, 全てを自己資金で賄っているため, お金の管理や, ビザ関係の書類, 二人の健康管理, フラットのこと, いろいろと考えることがありました. どうもリラックスできない性分なのか, いつも何か不安で落着かないというか, 地面に足がついてないという感じでした. 心のどこかでは, これは仮のくらしであり, いつかは終ることになる. そしてまた元の所に帰ることになるでしょう. 帰ったら何が待っているのかわからない, 住むところは...仕事はあるのか.... 考えたらキリがありませんでした.

私の様々な出来事, 心配ごととは無関係に娘はこの新しい生活を思いっきりエンジョイしていました.最初の登校以来, 娘の口から学校に行きたくないとか, もう帰りたいとかと言う言葉を聞いたことがありませんでした. あの学年では本当に大した事をしていなかったこともあり, すぐに馴染んでいたような気がします. 本当に良く遊んでいましたね. こんなに遊ばせて大丈夫かなと心配になるぐらいでしたが...

学校へは普通, 父母が子供の送り迎えをしてましたが, 近所に住む子供達は自分で歩いて登校していました. 娘が学校に行った最初の日, 帰りにクラスの友達を連れて来たのにはビックリしました. 家は学校のすぐ目の前ですから, と言っても, 英語も出来ないのにどうやって連れて来たのか解りません. その女の子も近くに住んでいて, 学校の帰り道だったようです. それで納得.

また担任の先生の計らいで, 同じクラスのある女の子が娘の世話係りを担当してくれて, 言葉の解らない娘をいろいろと面倒を見てくれました. また当時は副担任としてクラスをヘルプして下さった方がいて, 彼女には大変お世話になりました. この人の存在はかなり貴重でした.


2番目の先生とベストフレンド(右)


この先生には大変お世話になりました.

娘はここに来るまで, 英語は全く話せませんでした. この留学が決ってから, 急いで近所の英会話教室に入れましたが, とてもとても時間が足りません. 会話は無理でもせめて文字ぐらいは読めて書くぐらいは出来た方が良いと思い, これは近くの公文式に週2回通せました. まあ充分とは言えませんでしたが, 何もやって無いよりはマシだというぐらいだったと思います.

全くゼロからのスタ-トでしたが, 帰国するころにはかなり流暢に英語を話せるようになっていました. でもいつごろどうやって話せるようになったか, その細かいプロセスを私は全く憶えていないのです. なんという母親! ここ数年の日本での親子留学ブ-ムの母親達とはかなり違いますね. この親子留学, まだブ-ムなのかわかりませんが, 母親達のブログ, どれも興味深く読ませてもらっています. もうスゴイです. そこまで子供に情熱を注ぐ彼女達を私は本当にエライと思います.

日本にいながら, しかも両親も日本人の環境で, ある英語教材ビデオとか DVD を使って, 時々の短期の留学, ホ-ムステイだけで, 子供をバイリンガルに育てる- こうやって書くと何かマニアックな感じがしますが, でもそれに向かって頑張る親子に, 私には決して真似が出来ないという点だけでも尊敬します. でもこんな風に育てられた子供ってどんな風に成長していくのでしょうか. そっちにも興味ありありますね. 成功事例があるのだろうか...まぁそれは別の問題として.

私は言葉と文化は切り放せないものだと思います. 特に子供の言語能力は環境が育てていくようなものですので, こういう人工的な環境で文化も一緒に学べるのか...疑問です. 娘の場合ですが, 小学校の2年生の2学期から4年の2学期まで外国の学校にいましたので, 英語でのコミニュケ-ションには困らないようにはなりましたが, やはりネイティブの子供達と比べるとまだまだ語彙は少ないし, 表現法にも限りがあったし, まず本を読むスピ-ドもその内容にもやはり同じ年齢の子たちよりもハンディがあったと思いますね. (たぶん, でも良く憶えてないが..)

それも今思えば...という程度のもので, あの時にはそれはど気にしてなかったのです. あと一年ぐらいいることが出来たら, 英語ももっと上手になっていたでしょうが...

一つ印象に残っているのは, ある時から娘が盛んに寝言を言いだしたのです. たぶんここに来てから半年ぐらい過ぎてからだったと思います. ほんと毎晩のようにです. その寝言が全部英語だったので, 彼女の脳に何か異変が起こって, 英語と母国語が融合してたのかな... 面白い現象でしたね. その頃から, 今まで短い単語しか出てこなかった言葉が, 今度はセンテンスとして脳に入ってくるようになったのではないでしょうか.


8才の誕生日

今の親子ブ-ムの人達と私達はしり組が違うのは, 私達は限らた時間を楽しく過すごす - と言うのがメインで, 言語はそのうちついて来るという姿勢だったというところです. なので, その頃の思い出というのは一緒に行った旅行だとか, 自然の美しさに感動したこととか, そういうことが主で, 娘の英語習得の過程ではなかったのです.

あの2年間に良くいろんな所に行きました. ニュ-ジ-ランドは全島くまなく旅しました. 南島へは2回も行ってます. オ-ストラリアにも二人でツア-を利用して行きました. 本当に楽しい思い出ばかり残ってますね ( ばかりでもありませんが) .. あぁ思い出は美しい...

ということで帰国しました. その後娘は普通のどこにでもいる小学生として, 4年生の2学期から6年生の2学期まで, 地元の公立小学校に在籍. 帰国以来, 英語を話す機会など皆無でしたので, この2年の間に英語はきれいサッパリ忘れてました. あれだけペラペラ話していたのに, 今では話していた事さえ忘れているようです. 子供の言語って本当に危ういですね.


美しい南島. 見よ, この羊たちの群れ

つづきはまた気が向いたら....







親子留学のはしりだった私達... その3

2008年02月18日 | 英語
生活出来る道具も家具も最低限ながら一応そろい, あとはこの家をシェアしれくれるフラットメイトを探すだけとなりました. ダウンタウンには日本の食材を扱っているお店が一軒あり, そのお店の入り口付近の壁には, 様々な情報を交換する貼り紙がところ狭しと貼られてあり, 日本人の留学生やワ-キングホリデ-で来ている若者達はだいだいここに来て, 仕事, 学校, フラット, ホ-ムステイ先を見つけたり, 生活に必要なものを買ったりまた売ったりしていました.

早速, 私もそこにフラットメイト募集のポスタ-を貼ることにしました. 貼ったその日の夕方, 最初のフラットメイトが早々と決まりました. この2年間の滞在中に, 日本人が4人, 韓国人が2人, 台湾人が1人と合計7名の方々と,入れ代り立ち代りの実に短いサイクルでしたが, この家をシェアすることになりました. そしてこのフラットメイト探し, 特に苦労することはありませんでした.

ニュ-ジ-ランドは出入国がかなり激しい国の一つらしいのですが, この私の状況を見てもわかるように, 皆さん1ヵ月から3ヵ月のサイクルで違う街へ行ったり,また 国に帰ったりしてました. 私のような留学生に限らず, この国の住民も含め移動はかなり頻繁でした. 後になって 私達は一番最初のフラットメイトだった方を訪ねながら南島まで行き, マウントクック山という, ニュ-ジ-ランド最高峰の近くまで行きました.

その4人の日本人のフラットメイト(男性一名を含む) 達とは, 本当に何のトラブルもなく, 休日には一緒に食料品の買い出しに行ったり, 遊びに行ったりして楽しかったのですが, 同じアジア人でも韓国人と台湾人の若い女の子達とは, いつも少々問題ありでした... 彼女達のボ-イフレンドです.

彼女達が引越して来ると必ず男友達も後からついて来るのです. 最初は彼女を迎えに来たり送ったり, また彼女の部屋に入ってもしばらくして帰るとかしてましたが, これが段々, 彼女の部屋に泊まるわ, 週末はずっといるわで, このへんのケジメがないんです. こういう事は部屋をシェアする前に確認すべき事でしたが, 日本人女性達にはこういう事がなかったので, 特に考えていなかったのです. このへんは最初にビシッと言うべきでした.

これは一人の韓国人のケ-スでしたが, 深夜に2階の彼女の窓に合図して, 内から戸を開けてもらい, 中に入った男友達がいました. 朝, この男性が2階から降りてくるのを見た私は, 彼に何時, どのようにしてこの家に入ったかと聞いたら, 上のような話しだったのです. その後の話しの内容はもう覚えないですが, なんせ13年前ですので, 彼が言った言葉に少々ムッときた私は, もうこの家から出ていってと言いました. すると彼の態度がガラッとかわり, 悪かったとあやまりながら, 彼女は今行くところがないのでもう少し居させてと言われました. その後, 彼も少し態度を改めておりましたが, とにかくこの男性, ごう慢で図々しい感じの人でした.

もう一人別の韓国人ですが, 彼女はとてもカワイイ顔をしていたので, 男性にモテたようでした. よく男性から誘いの電話があり, 外で会っていたようですが, そのうち一人の男性が彼女のスト-カ-になり, その彼がこの家の一階のトイレの窓から侵入し, 彼女と話している内に揉めて刃傷沙汰になってしまったのです. それを聞いた隣りの大屋さんが警察に通報したので, パトカ-来るは救急車は来るはでしばらく大騒ぎだったそうです. たまたま私達親子は外出中でして, 戻ったところ隣りの大屋さんから事の始終を聞かされ, なんせ壁が薄いですからこの家, そのフラットメイトは今ドクタ-の所だと教えてくれました.

カ-ペットと階段の壁についた血痕がその凄さを表していました. その後彼は強制送還されたそうです.

どうも韓国人というのは, 家であった人達ばかりでなく語学学校にもいましたが, チョット何かが違うんですね, 日本人とは... 何と言うか感情が激しいと言うか, 人の領域にドカドカと土足で入ってくるような... かんじ. あるいは日本人が非常に気を使いすぎるのか民族なのでしょうか.. ウ-ン

また彼女達の目のまわりを真黒にする化粧, 少々目立ってましたね. (そうでない人もいたが) 全体的に見て化粧バッチリは韓国人, それに比べると日本人の女性はかなり地味だったと思います. ノ-メイクで, いつもジ-ンズとズックとか, そんな感じ. それもそのはず, 韓国人や中国人のほとんどが学生で, 親からの仕送りで来ている人が多いのでお金の苦労はほとんどないようでしたが, 日本人の場合, ほとんどがウォ-キングホリデ-ビザで来ており, 彼らは働いて生活するのが前提なので, 予算も限られている人が多く, そんな余裕, なかったのでしょう. なかにはかなり悲惨な生活をしている人達もいました.

運良く仕事が見つかればいいのですが, そうでない人々は予算が尽きて, 滞在許可以前に帰国することになったようです. 実際そういう人の話しを良く聞きました. なんせ就ける仕事は限られていましたし, 競争率もすごかったようです.

まあとにかくこの家, いろいろなドラマがありました.


ストリ-トコンサ-トもした. そのうちひとりはフラットメイト. とても良い人だった.
(オ-クランド市内)

ダウンタウンにある私の学校へは毎朝バスで通っていましたので, 娘と私は朝二人一緒に家を出て, 娘を学校の門まで送り, 私はそのままバス停まで歩いて行きました. 学校まではバスで約30分ぐらいでした. 数ヵ月もするとバス停で待つ人々の顔も馴染みになり, 誰が何処で降り, どの人が何処で乗るのかも解るようになりました. ホント暇だったんですね. 13年たった今でも, ここから学校までの道のり, 窓から見た風景は良く憶えています.

私のクラスは午前中だけでしたので, その後はクラスの友達とお昼を食べに行ったり, 本屋に寄ったり, 買物したりして, 娘の学校が終る午後3時までに家へ戻る毎日でした.
ここでは本当に全てがのんびりとゆっくりと時間が流れているようでした. いつも何かに追れているような生活が普通だったほんの数ヵ月前, こんなにリラックスして本当に良いのか, 帰国したらどんな生活が待っているのか...わからない... と思う気持ちもありました.
(しつこくさらにつづく...)



フォックス氷河 (ニュ-ジ-ランド南島)
中央右手の雪の上に人がいるのが見えますか?
(娘 8才)

親子留学のはしりだった私達 その2

2008年02月16日 | 英語
当時のニュ-ジ-ランドの人口は約350万人, そのうち100万人がオ-クランドに住んていました. ダウンタウンとよばれる地域はかなり小さく, 私の通った語学学校もその中にありました. 当時ニュ-ジ-ランドにはかなりの韓国人や中国人が移民して来ており, それに加えて日本人のワ-キングホリデ- の若者達, また私のような語学留学生も加わって, オ-クランドの街にはすごい勢いでアジア人の人口が増えはじめていました.

ダウンタウンのおみやげ品店は韓国人の経営する店ばかりですし, 小さなデリ-と呼ばれる雑貨店は100%インド人です. (インド人の人々はずっと以前からいたようですが) そして留学生の急増で語学学校が増え, そんな彼らを受け入れる貸しアパ-トやホ-ムステイのビジネスも盛んでした.

ある日バスでダウンタウンへ出かけた時のこと, 私達親子と日本人のフラットメイト (ル-ムメイトをそう呼んでいた) の話す日本語に気がついたのか, 前部の座席に座ってドライバ-と世間話しをしていた白人のお婆さんが, 今タウンへ行くとあの人達 (私達のこと) のような人ばかりで本当にどうなっているのこの国は...みたいな事を話していました.

肌の色の違う人種が一挙に自分の街に押し寄せて来たら, 私でもやりっぱり驚き, そして不安になりあるいはアレルギ-になるかもしれない. あぁまたこの人達...! みたいな. たぶんそこの地元の人々の反応はそういった感じだったと思う. なんせ元白豪主義の国で, その政策を暖和しだしたのがつい数十年まで (当時) ですから..

ニュ-ジ-ランド人には親日家が多く, 学校でも日本語を教えているところもあるなどと本などによく書かれていますが, 人々の印象は保守的で質素, よく言われているほど特別フレンドリ-な感じでなかったと思います. もちろん人によってですから, 一概には言えませんが... 中には驚くほど親切な方もいました. また日本語を教えている学校なんて私は聞いたことはありませんでした.

時々, お店に入ったらひどい対応だったとか, 理由のない差別にあったと言うような話を日本人の留学生等から聞かされることもあり, 楽しいはずの外国生活もこういう些細なトラブルで ゆううつになったり, またそういう経験が人を強くするんだと前向きになってみたりと, 人さまざまな反応でした.

普段の私達は学校生活が中心だったので, 毎日の行動範囲も限られていました. 時々買いものにいったり, 二人で近くの公園まで散歩しに行ったりする以外はだいたい家でのんびりしておりましたし, つき合いといえば, 子供の友達の母親とか, 但任の先生 (少しだけ) あとは大屋さんぐらいでしたので, 幸いにも人々からあからさまな差別とかひどい事されたとかはありませんでした. またそんな事が起りそうな所には行かなかったというのか正確かも. そしてそれが一番良い方法だったと思います. 感じの悪い人とは話ししない, 感じの悪い店員の店には二度と行かない.

しかしどんな所にもはごう慢な態度を取る人はいるもので, 地元の人との接触が少ないこんな私達の生活でも, 時々ス-パ-の店員の態度にムッとしたり, 私の英語が伝わらず相手にされなくて悔しかったり, そういう事はありました. 英語がまだまだ上手ではないことも手伝い, 外出する時はいつもやや気が張っていたというか, 気負っていたような気がします. そして人の一挙一動やちょっとした表情にも過剰反応したり, ああ言われたらどう言おうとか, こうされたらどうしょうとか, 常に人の目ばかり, 人の反応ばかり気にしており, 疑心暗鬼のかたまりの様になっていました.


フラットの中庭と2階から見たとなりの家

さて, 新しい生活が始まった私達, そのフラットには家具は全く付いていなかったので, 自分で全部揃えなくてはいけませんでした. 近くにセカンドハンドショップがいつくかあったので, そこを利用したりまた帰国する日本人の人々から安値で買ったりなどして, 少しづつ揃えていきました. さすがにカップとかフォ-ク, スプ-ン等は新しく買いましたが, そこには本当にいろいろな物が売られていました. 枕とかバスタオルとか, スリッパとか, 普通の日本人なら絶対に買わないような物です. 私はベットと机だけは新しいものを買いました.

この家ですが, 大屋さんとは隣り合わせになっており壁一枚でくっついておりました. 玄関は別でしたので, お互い顔を見合わすことはなかったのですが, ニュ-ジ-ランドの家はプレハブみたいな簡単な造りなので, 場所によっては隣りの声が筒抜けの所もあり, 少なくとも誰か居るのか留守なのかぐらいは解りました.

あんなのんびりとした環境なのに, 泥棒が多いらしく妨犯設備というのかグッツというのか, そういうモノがやたらに目につきました. 最初に教えられたのは家の中のセキュリティ-アラ-ムの暗証番号. 外出する時は必ずセットするようにと言われました. セット後はセンサ-が作動しているので, それに触れないようにサッと素早く出なければいけません.

また家に入る時も同様にセンサ-に触れるとアラ-ムが鳴るようになっているので, その暗証番号を10秒 (20秒だったかな?) 以内に押さないと, セキュリティ- の方に連絡が行き, 誰かがかけつけて来るそうです. そんな人見たことはなかったのですが.. 何もそこまで.... と思いつつも始めの頃は言われた通りにやってましたが, 後々はややいい加減でしたけど. こっちには金目の物は何もないので別にどうってことなかったのですが.

幸いにもあきすに入られたとかそんな被害はありませんでしたが, この異常なまでの用心深さ! とくかくアラ-ムだらけ, ロックだらけ, 家の周りはセキュリティ-ライトがいくつもいくつもあって, 夜の侵入者を防いでいるようでした. こんなのどかな人々の暮らしとはとても対照的だと思いました.

あと皆さんの夕食時間がとても早く5時30分から6時の間ぐらいに食べていました. そして寝るのもまた早い! 子供は8時にはベッドに入り, 大人も10時にはもう寝ていたような気がします. (私の見た範囲ですが)

ですから平日は夕食が終ると後はテレビを見て寝るだけです. とても健康的です. 退屈だと言う人もいます. 私達親子は地球の歩き方という本を参考に, 週末はだいたいどこかへ行ってました. オ-クランド市内の観光地はもうほとんど行ったと思います. そしてどこへ行っても, ウ-ンこんなものか... ぐらいで, 一度行けば良いところが多く, 市内には特にこれと言ったものがなかったです.

私達は本当にいろんな所に顔を出していました. 教会のバザ-から地域のお祭り, 日曜の朝のガレ-ジセ-ルのようなものまで, とにかくチラシに何かあれば行ってみようという感じでした. また家から歩いて約20分〜 30分ぐらいのところに大きな公園があって, そこにはアヒル, ダチョウ, 白鳥, カモ, ハトなどの鳥たちが何千羽と飼い慣らされていました. 地元の人々, 家族連れなどは古くなったパンをエサがわりに持参してその鳥たちにあげに行っていました. 私達親子もここへは何度となく足を運びましたね. ほんと暇だったんですね, 私達.

ニュ-ジ-ランドの本当の良さは自然の美しさにあって, 街自体は特別どうってことはない普通の街だったと思います. あのロ-ドオフザリングスに出てくるような自然が本当のこの国の良さだったのです. オ-クランドは雨の日が多いと言いわれますが, サッと降ってはサッと止む感じでなので, 植物にとっては理想的な環境でした. また夏でも涼しく, 最高気温でも摂氏25ぐらい, そして夜になると摂氏18ぐらいにまで下るので快適でした. エアコンのいらない夏は生まれて初めてでした. (つづく...)


ニュ-ジ-ランドの美しい朝焼け

夜眠らない人びと

2008年02月14日 | 仕事


ここは24時間営業, 年中無休のス-パ- マ-ケットです. お店が閉まるのは年に2回, クリスマスイブとイ-スタ- だけ. アメリカの地方には必ずあるというおなじみの店です. 売り上げは世界一 (全米一ではない) 従業員は全米で100万人という巨大企業です. 店内はとにかく広い. ほとんど何でも揃っている. いつも人がいっぱい. そして安い!

ここで働くほとんどの人々は 生まれも育ちもこの地元, 学校もこの辺のパブリックスク-ルを出て, 結婚して子どもが出来てもやはり地元に留まり, ここから一歩も外へ出たことがない, カルフォルニアもニュ-ヨ-クも, まして外国など一生に一度行けるかどうか, と言うような人達です. そんな人々に混ざって働いているのが, この私です.

勤務は3交替制. 私は深夜勤として夜10時から朝の6時まで働いています.

とにかく今何かできることをと, この仕事を始めてからもう4年2ヵ月もお世話になっています. この仕事, こんなに長く居座っているつもりは決してなかったのですが, どうも仕事に馴れ, 親しい友達も出来,普通の人々が寝ている間に起きて働くことにも慣れてしまうと, 好きでもなく, 決してモチベ-ションが沸かない仕事でも, ついついズルズルと居付いてしまっています.

現在私は週に3晩しか働きませんが, 去年まではフルタイムとして週36時間働き, しかも空手も週2日教えていました. 週に一度は空手の後, 朝の6時〜 7時まで働きました. 日によってはお店がかなり忙しいこともあり, 空手の練習で体力を使い果たしたあとの勤務はかなり辛いものがありました.

仕事が終って帰る頃にはもうヘトヘトになってましたので, これで良く無事に車を運転して帰って来たなあと思います. でもそんな生活も馴れると何ともなくなりますね. まっそれは週に一回ですから, 大したことはありません.

一晩中フロア-の掃除をするバ-ブ

米国の庶民に混じって仕事をするようになって, いろいろな場面で様々な違いを発見しました. それは先ず面接の仕方から, おっとその前の応募用紙からして違ってます. 応募用紙には, 年齢, 男か女, 既婚か未婚, 子どもがいるかいないか, 配偶者の職業等を書く蘭がないのです.

年齢とか学歴, 職歴は一応わかるようにはなってはいるのですが, 面接で直接聞かれる事はなかったです. でもこれも職種によるかも知れませんね. その面接には企業独自のマニュアルがあってその通りに質問をしているだけでした. その質問の受け答えに対して評価点数を付けているようです. そしてその点数が良ければ合格という事になります.

アメリカ人って遊んでばかりいるというイメ-ジがあったのですが, 私の予想に反して以外とよく働きます. 二つ仕事をもっている人も多く, 朝この仕事が引けたら別の仕事に向かっている人もいました. ある年配の女性の方ですが, この人もダブルシフトで働いているようで, しかも決して楽な仕事ではないようですが, その体力には驚くこともあります.

この手の小売業界は人の出入りが激しく, いつの間にか新しい人が自分の隣りに座っていたり, あの人最近顔見ないね, 休暇かなと思ったら, すでに辞めていたとか, クビになったとか.... だから注意してよく周りを観察する必要があります. ほんと, ここの人達, 何か知っていても自分に質問されない限り一々言わないので(それがこっち流のつき合い方みたい) 聞きまくるのが一番良いかも.

私も今年こそは何か別のことにチャレンジしたいのですが (毎年言っているが), 一体自分は何をしたいのか, 何が出来るのか解りません. 何か特別な特技があるわけでは無いので, 選択肢はかなり限られてます. ここは日本以上に学歴社会ですし, それに加えて, またそれ以上に経験を重要視するようです. 即実戦で使える人でなければ, なかなか採用されないようです. それがなければこういった何の特技も能力の無い人々の仕事に付くしかないのです.

働き者で面倒見の良いナンシ-



若き元空手家の死

2008年02月14日 | 日々のこと
一昨日, 一本の訃報が届きました. ウィルさんというかつての空手の生徒が亡くなったのです. 当時の彼は26才, もの静かで温厚な彼が空手をしているなんて, 彼を知るまわりの人々は少し驚いたようですが, とても熱心でマジメな生徒でした. この私達の最初の道場, はじめの数ヵ月は生徒が全く集まらず, 生徒はウィル一人という時期が続いてました. 生徒が少しづつ集まるまで, 先生とほとんどプライベ-トレッスン状態でした.

そのかれが末期ガンであるとことを, 彼を知る共通の友人から聞いたのは確か一昨年だったと思います. 何の前ぶれもなく, 今まで元気だった彼が背中に突然痛みを感じたのでドクタ-に行ってみたそうです. 最初はただのカゼだと本人は思っていたようなのですが, 痛みが段々とひどくなり, よる眠ることさえ出来ないくらいの激痛になったのでこれはおかしいと思い, 再度ドクタ-に診察てもらったそうです. そして精密検査の結果, 肺ガンしかも第4ステ-ジと告知されたそうです.

去年届いたクリスマスカ-ドには彼の二人の子ども達の写真も同封してあり, 特別変った感じは受けなかったので, こちらで勝手にまだまだ大丈夫だろうと思っていましたが, とても残念です.

彼はこの道場の生徒になって数ヵ月後に結婚をしました. 彼の奥さんはいつもニコニコっとしていて, すごく優しい感じがする方で, 結婚してからでも時間があれば道場にきて彼の練習を見学し, 練習が終ったら一緒に帰って行きました. しばらくして二人に子どもが出来たのですが, 奥さんは乳飲み子を抱えながらも, 毎週ウィルと一緒にやって来て, 練習が終るのを待って, そして3人で家へ帰っていきまたした. 3人はとても幸せそうでした.

そんな日々が何ヵ月か続いたあと, 突然ウィルが, これからしばらく練習には来れないと言ってきました. 個人的な理由だと言ってたので, これ以上は何も聞きませんでしたが, あんなに頑張ってここまで来たのに, それを突然止めるとは... 全くそんなそぶりは見せなかったので正直に言って少しショックでした. これは夫婦で話し合った結果だと言ってましたが, ハッキリした理由はその時はわかりませんでした.

たぶん子どもが出来て彼女が仕事に戻ってから, 二人の関係がギクシャクし出したようです. 育児と仕事の両立はかなりの重労働ですし, それにいままでの様に, 一緒に道場に行くのもかなりの負担になってきたのでしょう. かと言って彼一人だけでは行って欲しくないと思ったかも知れませんし, だんだん空手にのめりこんで行く夫を見るのが嫌だったのか, もっと家庭にいて欲しかったのか, たぶんそんな理由だったと思います.

ウィルが空手をやめてからも, しばらくは3人で道場に時々遊びに来てましたが, 私達が別の場所に移ってからはもうほんとんど会うことはありませんでした.

実は,私達夫婦は昨日ウィルの日本で言うお通夜のようなものに行ってきました. 行ってみてビックリです. 部屋に入ると, 彼らの家族や親族, たくさんの友人知人, そして教会関係の人々が, 最後のお別れにと駆けつけて来ていたのですが, ここは何かのパ-ティ-会場かと見違えるくらいでした. 照明は明るくそしてBGM はかなりアップテンポです. 正面に棺さえ無ければ, 何か別の集会のようです. 泣いて取り乱している人などひとりもいません. それどころか, 笑い声はするし, 皆さん普通に挨拶をかわしてました. 着ているのもほとんどの方が普段着です. もうビックリです.

皆さんウィルの棺に向かって列をつくっているので, 私達もそれに加わりました. 棺の近くには彼の若かりし頃の写真や, 家族でとった思い出の写真等, 故人を偲ばせるものが飾られておりました. そして棺の傍らで, 皆さんひとりひとりと挨拶したり, 抱きあっているのは未亡人のステファニ-さんです. 自分の夫が亡くなったとはとても思えないくらい全く普通に見えます. 気丈な人なのか何なのか, そういう風に努めているのか, 彼女の表情はとても明るいのです. 始終笑顔です!

私達の番になり, ウィルに最後のお別れを言いそして彼女と少しお話しをしましたが, ウルウルしてくるのはこっちの方で, 彼女は特にやつれた様子もなく全く普通の通りでした. 二人のまだ小さな子ども, 6才と2才, もいたのですが, 亡き父親の棺の周りで遊んでいるように見えました. ( そう見えただけかも)

とにかく, 日本のような暗いジメジメした感じはなく, 文化が変ればこうも違うのかと改めて思った夜でした.

34才という本当に短い人生を閉じたウィルさんのご冥福をお祈りいたします.



真ん中の方がウィルさん

サムライDVDs

2008年02月11日 | 日々のこと


このDVDはウチの旦那さんのものです. この方, 時代劇オタクです. しかも今時日本人も見ない様なかなり古いものまで見てますね. もうケ-スがボロボロになっていても大切に取ってます. 黒澤監督ぐらいの物なら解りますが, 全く聞いたことがない, 俳優もこの人誰と言いたくなるような映画まで, 本当に良く見ます.

ラストサムライなんてもうセリフを憶えるくらい見ました. そしていつも同じところで笑うし, 感動するし, また同じ感想を言います. この毎回同じパタ-ン, よく飽きないものだと逆に感心します. 渡辺謙は日本語を話している時はク-ルなんですが, 英語になると何か間のびしたような, ヘラヘラしたように聞こえるんですが...

ゲイシャの時の英語は妙にオカマっぽい喋り方で, 思わずウェ- となりましたね.
役所コウジの英語の方がだいぶメリハリがあって良かった. あと私はラストサムライよりトワイライトサムライ(たそがれ清兵衛)の方が好きなのですが. この真田広之さん, ラストサムライでもかなり良い演技をしていたと思うのですが, 何故か評価が低い. どうしてでしょう.

とにかくこの旦那さん, よくイ-ベイから DVD を購入しているようです. 数年前に47 RONIN 大忠心蔵 (2枚組 DVD) を購入したのですが, これが白黒でかなり古いやつ. セリフもかなり古めかしくて, 俳優も誰かわからない. さすがの旦那もこれは一度見たきりで, 後でゆっくり見るとか言ってましたが, その後は一度も見てないと思います. 最近購入したのが, 高倉健の47RONIN, これは現代風にアレンジされているので, こっちの方は楽しんでいたようです.

これで日本語も勉強してるらしいのですが, こんな言葉, 今時誰も使ってないのでそれは止めた方が良いかと思うのですが...

書道もすきで, 昔は良く書いてました. 書き順は真に常識破りですが, なぜか味わいがあるんです. 何かイラストのような, ピカソの絵のような, 日本人には出せない味というか...

ところで私が最近見たDVDでかなりはまったは, グレイズ アナトミ- GREY’S ANATOMY というTV シリ-ズのものです.



これは病院を舞台にしたインタ-ンたちの物語. まあ単なるホ-ムドラマですが, これが結構面白いんですね. 現在第4巻まで出ているようです. その中にはエピソ-ドが30ぐらいかな, 入っています. 話しの展開が実に早くて簡潔, 内容は現実離れしてますが, まあエンタ-テイメントですから良いではないですか. 俳優が個性的な方が多いので, ついつい次はどうなるのか気になって見てしまうのです. そのへんが良く計算されているというか, 演出がうまいというか....あまりテレビを見ない私でも結構楽しんでます.

個人的には Dr. Baileyが気に入ってます. 彼女の有無言わさぬ若いインタ-ンたちへの指示は見ていて頼もしいです. あのキャラクタ- 良いですね.

親子留学のはしりだった私達...

2008年02月10日 | 英語
いまから13年前, ニュ-ジ-ランドに親子留学しました. 当時娘は7才. 小学校2年生の1学期を修了したのち, その夏休みを利用してオ-クランドの小学校への転校手続きをし, 今まで住んでいたアパ-トをひきはらい, 実家に家財道具一切を預け, 私は渡航準備で毎日雑用, ペ-パ-ワ-クに追れていました. 40代を目前にした私は, 今行かなくてはこんな機会はもう無いだろうし, 行くならまだ子どもが小さい内に, そうすれば帰って来てもそんなに影響はないという気持でした.

ニュ-ジ-ランド関係の資料を求めて, 本屋など足繁く通いましたが, 役に立ちそうなものは本当に少なく, 写真と言っても観光用の緑と羊と山ぐらいの物ばかりで, なかなか普通の人々の生活のイメ-ジがつかめませんでした. オ-クランドでも家の周りには羊が一杯いるのかなとか, 登校は歩いてと聞いていたが緑の草原の中を歩くのかとかね. 今だとインタ-ネットで検索すればいろんな事がわかりますが, 当時参考にしていたは地球の歩き方という本ぐらいでしたので.

さて学生ビザも無事届き, ホ-ムステイ先も決まり, 航空チケットも購入し, 銀行口座も開いた. あとは出発を待つのみ. この留学を決めてから出発までの準備期間は約6ヵ月. あれこれと深く思い悩む余裕などありませんでした.

不安はもちろんありました. 娘の学校の事やら, 帰国後の生活など. でもそれよりも今行かなくてはあとで必ず後悔するという気持の方が強かったのです.

そして旅立ちの日です. 空港まで見送り来てくれた家族と友人に別れを告げ, 私達二人は真冬の南半球, オ-クランドへと旅立ったのでした. ( なんとドラマチック!)

無事オ-クランド空港に到着. 空港からシティまで向かう途中でみた小さな町々は, 私の想像していたあの美しい雪を頂きに残した山脈を背景に, 広大な緑の草原を白い羊が群れをなしている, ものとはかなり違っていました. あとで知ったのですが,このあたりはかなり治安が悪く貧しい地域だったようで, かなり荒んだ雰囲気でした. そういう地域を通り過ぎ, 市街地に入り,これからお世話になるお宅へと向いました.

二人のホ-ムステイ先は, もう退職なされたご夫婦宅で, 奥さんは日本人でした. 家の中は清潔で小ざっぱりとはしてましたが, 二人暮らし用なのか, かなり小さな家で生活はとても質素な感じでした.

その夜は長旅の疲れと, 途中車の中から見た町並やダウンタウンの様子, 私が想像していたのとはたいぶ違っていたことなどが一挙に押し寄せて来て, この先どういう展開になるのかちょっと不安になり, なかなか寝つかれない夜でした.

私達のステイは, ここでの生活の基盤が見つかるまでということで受け入れて頂きました. が, しかし, お世話になってから2,3日後に, 私はあの日本人の奥さんに呼ばれ, 子供がチョット騒ぎすぎるとか何とか.... 言われました. 確かに活発な子ではありましたが, そこまで言われるとは... ショックでした. その夜もこの子にどうやって大人しくするように言い聞かせようかと考えていたらまた眠れなくなりました.

翌日からはなるべく二人で過すようにし, 夕食が終ったら, と言っても夕方6時頃です(早すぎる!)テレビも見ず, さっさと部屋に入って読書したり, ゲ-ムしたりして過すようにしました. また近くを散歩したり, 学校までの道のりを確認して歩いてみたり, バスにのってタウンに行ったりもしました. また家ではなるべく小さな声で話すようにさせ, いつも子どもが何をしでかすかハラハラして見ていたので, かなり気疲れしました.

私達二人はここでの生活を楽しみに, また良い経験のために来たのに何故こんなに不自由で窮屈な思いをしなくてはならないのか. ホ-ムステイ代は子ども連れだから仕方がないとは言え, 相場よりも多めに払っていて, しかも部屋は一つです! 子どもがうるさくてワガママなのはごく普通のことではないですか. 正直言って私の方にも不満はありました.

それから私のフラット( アパ-ト) 探しが始まりました. 地元の方々はよく一軒の家を何人かでシェアしているようで, 新聞などの広告にはよくフラットメイト募集が出ていました. 私も何軒かあたってみて実際に部屋も見てみましたが, ほとんどが学生か独身向けのようで, 私のような子持では... ちょっと無理があるかな... という感じでした.

幸いにもその後すぐに良いフラットが見つかりました. 子どもが通う予定の学校のすぐ前, 徒歩1分です. 家賃は私の予算よりやや高めでしたが, もう一つの部屋を誰かとシェアすれば何とかやっていけると思い, 即契約しました. ホ-ムステイは結局2週間だけでしたが, 赤の他人と一つ屋根の下で暮らす難しさを実感しました.

私よりも先に, 私と似たような環境で親子留学をしている方がいたそうです. ということはそれって結構昔からあったのかな. 私達が来てしばらくして帰国したようで, その方とはお会いするチャンスはありませんでしたが, 聞いた話しによると, 彼女もまたステイ先では少々苦労したようです. 彼女の場合は私とは違って, ステイ先のお子さんが彼女の子どもをいじめてて, それを彼女は後で知ったそうです.

まあいろいろありましたが, このフラットに引越しすることで, 私達はやっと自由に伸び伸びと私達らしく生活することができたのです. そのうちお互いの学校も始まり, フラットメイトもすぐに見つかり, 有意義な日々を過すことが出来ました.帰国したのはそれからちょうど2年後でした. (つづく.....)


親子が2年間暮らしたフラット