萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第85話 春鎮 act.36 another,side story「陽はまた昇る」

2017-10-19 21:00:08 | 陽はまた昇るanother,side story
Nor lose possession of that fair thou ow'st, 凛として、
harushizume―周太24歳3月下旬


第85話 春鎮 act.36 another,side story「陽はまた昇る」

さざん、さぁっ…ざん、

波がゆく、潮騒おだやかに響いて繰りかえす。
あまくて少しだけ苦い風、なつかしい香が頬ふれる。
やわらかな響き、あまい匂い、おだやかな朝の海なのに鼓動が軋む。

「好きです…美代さん、」

想い声になる、声あふれて喉ふかく傷む。
座っている岩は温かい、それなのに重たく冷えてゆく。

―どうして僕…大好きなのに?

この女の子が好きだ、だって温かい。
最初からいつも支えてくれた、いつも一緒に泣いて笑ってくれた。
その優しい瞳の隣にいる、それなのに傷くずおれる鼓動に声が燈った。

「ありがとう、湯原くん…私も好きです、」

ソプラノの答え、温かい。
いつものまま澄んだ声の唇そっと笑って、きれいな瞳が周太を映した。

「大好き、だから歌姫みたいにならないで?」

受けとめてくれた、けれどその言葉?
どういう意味だろう?

「…歌姫って、美代さん?」
「あのね、私、フランス語の勉強してるの、」

問いかけてソプラノが答えてくれる。
その言葉またわからなくて、見つめた陽だまりに言われた。

「フランスの小説『オペラ座の怪人』をね、原書で読んでるの。大学に入れたら田嶋先生の講義を受けたくて…湯原くん読んだことある?」

オペラ座の怪人、その題名この海で聴くなんて。

―…教えてよ、湯原?

三月の終わり陽だまりの海、けれど9月の声が聞こえる。
あのベンチ隣にいた笑顔、あの幸せと書斎と、その一冊に声こぼれた。

「僕も原書で読んだよ、うちの書斎にあって…自分でも買ってもってて、」
「やっぱり読んでたのね、よかった、」

きれいな瞳が笑いかける、その声は温かい。
けれど題名に欠けたページ呼ばれてしまう。

“Le Fantome de l'Opera”

書斎に遺された一冊は落丁、あるのは「切りとられた」ページ。
あの欠落が父を祖父を示して、籠められた時間ひきよせられる。
そんな一冊に「歌姫」に明眸は何を読んだろう?想いに声が透った。

「クリスティーヌ、あの歌姫が私は嫌いよ?オチョウシオバカヒロインだもん、」

こんな言い方するんだ、このひとが?
なんだか聞いたことある口調につい噴きだした。

「よかった、笑ってくれたね?湯原くんの笑顔いちばん好きよ、」

陽だまりの隣ころころ笑いだす。
見つめてくれる笑顔やさしくて、その言葉に笑いかけた。

「だって美代さん、光一みたい…笑っちゃうよ?」
「そりゃ似てるとこあるでしょ?親戚だもん、」

ソプラノ朗らかに笑ってくれる。
どこまで明るい瞳は周太を映して、やわらかに微笑んだ。

「でね?もしファントムが天使みたいに美しいひとだったら、それでもラウルを選んだと思う?」

あの小説を彼女が微笑む、鼓動ノックする。
だって海が薫る、この海にいた白皙の横顔うつりだす。

―…約束だよ?俺は何があっても君から離れない、ずっと、

約束してくれた、でもあなたはいない。
遠く離れた海の風、あまい辛い香に言われた。

「歌姫は天使って呼んで愛したくせに、醜い顔を言訳にファントムを棄てたでしょう?、だけど私はファントムが好きよ、きれいで、」

さざん、ざんっ、潮が響いて香る。
あまやかな辛い朝陽の風、きれいな瞳が微笑んだ。

「醜いから売られて、でも醜い貌もバネにして勉強して、才能のせいで酷いめにもあって。でも自分を諦めずに生きたの、まぶしいよ?」

まぶしい、そう告げて大きな瞳やわらかに細める。
ふわり細めた瞳きれいで、そんな笑顔のひとは言った。

「諦めない強さってきれい、そういうひとが私は好き。だから大学に行くの、家族の反対も光ちゃんより頭よくないことも諦める言訳しないの、」

そうか?だから好きなんだ、僕は。

「ん…僕もそういう美代さんだから、好き、」

想い声あふれだす、まぶしくて。
こんなこと言えるひとだから惹かれて、そうして育った想いの相手が微笑んだ。

「ありがとう、私も同じなの…そういう強いひとだから湯原くんのこと、好きになりました、」

やわらかなソプラノ透ける、陽だまりの岩が温かい。
ふたり座りこんだ海辺の一隅、足もと緑あわい春草そよいだ。

「私も湯原くんもファントムが好き、でも、歌姫の初恋の彼は真逆だと想うの、」

朝陽ふる草地、足もと茶色やわらな毛並ゆれる。
寝そべる犬の三角耳そっと撫で、可愛らしい声は続けた。

「ラウル子爵は貴族で、みんなに愛されるハンサムで苦労知らず、奈落の迷宮も自力では無理なフツウのハンサムさん。ファントムの逆でしょ?」

ほら、また似ている。
なつかしい口調また可笑しくて、つい笑ってしまった。

「ん…そういうの光一の毒舌みたい、楽しいね?」
「楽しんでくれるなら嬉しいな、いちおうマジメに話してるんだけどね?」

朗らかなソプラノ笑ってくれる。
笑った瞳まっすぐ見つめて、そして問いかけた。

「でね、歌姫はどちらと似てると思う?」

あ、この質問は分岐点?

「…美代さん、それって、」
「うん、」

きれいな瞳うなずく、その深く透けるほど明るい。
明るい眼ざし自分を映して、やさしい唇は続けた。

「クリスティーヌは小さいころ没落して、ご飯食べられなくても諦めず夢を叶えたよね?そんな彼女の素顔から愛せるのはどっちかな?」

ひとりの女性、ふたりの男。
苦労から育った二人、苦労知らずの一人。

“Le Fantome de l'Opera”

あの小説はそういう三人の物語、そんなこと自分はどこか忘れていた。
あらためて見つめる三つの感情と時間に彼女は微笑んだ。

「歌姫は醜い顔を言訳にファントムを棄てたでしょう?音楽の天使って呼んで愛したくせに。でも、もしファントムの顔が綺麗だったら?」

ファントム、醜い素顔を仮面に隠した天才。
その名前なぜ今ここで話すのか?わかるまま口にした。

「美代さん…美代さんは、ファントムみたいな英二が好きってこと?」

あのひとは才能がある、母親から拒絶されても生きて。
そして「綺麗」嵌りゆくピースに彼女はうなずいた。

「好きよ?光ちゃんを救ってくれた天使だから、」

天使、あなたが?
そう想っていたことがある、でも今は違う。
もう知ってしまった仮面の素顔、それなのに可愛らしい声は言った。

「光ちゃんを富士山で救けてくれたの、それが私にはすごく大切なんだよ?カッコいい人だなあって見惚れるし、でも」

ソプラノ穏やかなトーン、いつもと変わらない明るい可愛い声。
けれど今は言葉ごと軋んで、重なる面影に声がでた。

「でも美代さん、英二は最低なんだよ?」

最低だ、あのひとは。

それを知っても「ファントム」なぞるだろうか?
想い鼓動ひっぱたいて声あふれた。

「ファントムが好きって美代さん、でも英二のぼくにくれる愛情は、ファントムみたいな誠実な愛じゃない、」

Fantome ファントム、父が呼ばれた名前。
父は望んでなんかいなくて、そして殺されてしまった名前。
けれど父の軌跡たどれた鍵だった、その忌まわしくて愛しい名前。

「ファントムはね美代さん、仮面で醜い顔を隠して人も殺したよ、でも、ほんとうはただ人を愛したい優しい貌のひとなんだ、」

お父さん、あなたはそうでしょう?

『しょっちゅう俺に自慢してたよ、可愛くて優秀で、すごく良い子だって。奥さんのお蔭だってね、』

そう話してくれたのは父の友人、警察学校の同期で、そして父の最後を看取ったひと。
そう教えられたとき自分はどんなに嬉しかったか、泣いたか、だからこそ言わせて?

「ファントムは唯ひとり歌姫だけを愛して、でも英二は違うよ?僕じゃないひとも好きになるのが英二なんだ、」

あなたはそういうひと、だから英二?あなたはこの女の子も裏切っている。

「英二のこと知るほどファントムに似てるって、言えなくなるんだ…きっと美代さんも、」

もし事実を知ったら、この瞳は泣くだろうか?

“光ちゃんを富士山で救けてくれたの、それが私にはすごく大切なんだよ”

たった今そう告げた瞳、その「大切」にあなたが何をしたのか?
それは時が経つほど残酷に想えて、噤みこんだ唇に波音あまい。

さざん、さぁっ…ざん、

海が響く、陽だまりの岩に風おとなう。
あまい辛い風ゆるやかに頬なでて、足もと茶色やわらかな毛並ゆれて犬が眠る。
犬まどろむ草あわく朝陽ふる、おだやかな優しい浜辺に声ほがらかに透った。

「光ちゃんに宮田くんがえっちしたこと、湯原くん…哀しいよね?」

今、なんて言ったの?

(to be continued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」】

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