萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第66.5話 陽溜―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

2013-07-26 22:39:09 | 陽はまた昇るP.S
Fantasy―諦めかけた願いを、今



第66.5話 陽溜―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

水曜日、終業定時の空はまだ明るい。

それでも9月の空は秋の初め、きっと次に窓を見る時は夕暮れになる。
今ごろ息子たちは調布の空で何をしているだろう、訓練に汗を流している?
どうか怪我など無いようにと祈り微笑んだデスク、明るいトーンに笑いかけられた。

「湯原課長、今日ってお時間ありますか?」
「はい?」

話しかけられて振向いた先、デスクを片づけながら青年達が笑いかけてくれる。
今日は早く帰ろう、そんな楽しげな空気に美幸は笑って答えた。

「この報告書が終われば自由ですけど、」
「じゃあ良かったら飲み行きませんか?俺と松山と花田さんってメンバーなんですけど、」

楽しそうに誘ってくれる笑顔は、本当に話したそうでいる。
こういう付合いも課長職になればあるだろう、美幸は笑って頷いた。

「一時間くらい遅れて良いなら途中参加させてくれますか?ただし、お財布をあんまりアテにされちゃうと困るけど、」
「はい、いつもお話してる安いトコですから大丈夫です。これ店の地図です、」

楽しげにワイシャツ姿が手渡してくれる。
受けとって笑いかけた先、すっきりした纏め髪の笑顔が尋ねてくれた。

「課長、お手伝い出来ることありますか?報告書のデータ検算とかあれば残ります、その方が早く一緒に飲めますし、」

訊いてくれるソプラノの声は何か物言いたげでいる。
彼女がいちばん話したいことがあるのかもしれない、そんな様子に美幸は微笑んだ。

「じゃあ遠慮なく花田さんにサポートお願いしようかな、早帰り日なのに申し訳ないけど良いですか?」
「はいっ、お願いします、按分率のチェックからで宜しいでしょうか、」

嬉しそうに笑顔ほころんでノートパソコンを開いてくれる。
やるべき仕事も見当つけられる俊敏さが彼女は良い、そんな部下の能力に微笑んで美幸は資料を手渡した。

「はい、それでお願いします。これが各支店の集計です、今日のメールで送られた最終データと差が無いかチェックお願い出来ますか?」
「はい、15分でやります、」

終了時間を告知して花田はパソコンに向きあった。
もう資料を捲りながら画面を開きだす、そんな同僚に青年二人も美幸に訊いてくれた。

「湯原課長、俺たちもお手伝い出来ることありますか?」
「ありがとう、もう大丈夫です。花田さんとなら40分で片づけて追いかけられるから、滝川さんたちは先に良い席をとっておいて?」

この後の時間についてお願いしておく、そうすれば青年たちは先に出やすいだろう。
そう考えて笑いかけた先、若い笑顔ふたつ頷いてくれるとオフィスを退出して行った。
他のデスクも退勤してゆく中パソコンと向きあい花田と進める、そして17時半すぎメール送信して終わった。

「お疲れさま、花田さん。ちょっと缶コーヒー飲んでいかない?お礼にご馳走させて、」

話したいことがあるなら今この時間に話せるだろう。
そんな思案と笑いかけた美幸に花田は嬉しそうに頷いてくれた。

「はい、遠慮なくご馳走になります、」
「じゃあ鞄も持って行きましょうか、ここも戸締りして、」

笑いかけビジネスバッグを抽斗から出す部屋は、もう自分たち以外に誰もいない。
そして窓のブルーは夕暮れ染まりだす、けれど思ったより明るい空は嬉しくなる。

―まだ周太も英二くんも30分くらい集中時間ね、私はお先に仕事終わっちゃうけど、でもこれからかな?

同じ東京の空の下、息子たちを想い自分の今日これからを考える。
そんな想い微笑んで廊下を歩き出した隣、遠慮がちなソプラノの声が訊いてきた。

「あの、湯原課長って一度、寿退社されてから復職されたんですよね?」

訊かれた質問に、花田の聴きたいことが見当つけられる。
きっとこういう事かな?予想つけながら美幸は総合職4年目の後輩に微笑んだ。

「はい、復職しました。予定より4年早かったし昇進するつもりも無かったけど、元から復職する予定はしていたの、」
「そういうの普通は難しいって伺いました、課長はどうやって今みたいになれたんですか?」

訊いてくれる笑顔は真剣な眼差しでいる。
女性の総合職なら結婚と仕事の両立は悩む、それは自分も通った道だから知っている。
こういう相談は乗ってあげたい、そんな想いに美幸は休憩スペースで鞄置きながら微笑んだ。

「私を今みたいにしたのはね、ぶっちゃけると息子よ?」
「え、」

意外だ、そんな瞳が見つめてくる。
そんな表情が楽しくて笑って美幸は自販機へ踵返し、コーヒーふたつ買うとカフェテーブルに戻った。

「花田さん、冷たいカフェオレで当たりかな?」
「はい、私の好みご存知だったんですか?」

また驚いたよう訊いて笑ってくれる、こんな素直な反応ひとつずつが楽しい。
いま26歳の彼女は4年目以上の仕事をこなす、けれど一人の女性として素直に瑞々しい。
こういう心を失くさないでほしい、そんな願いに笑った美幸に花田は尋ねてくれた。

「あの、息子さんが湯原課長を今みたいにしたって、どういう意味ですか?」

周太がお腹に入ってくれたからなのよ?

そう応えかけて、けれど出来ちゃった結婚を正直に告白だなんて今の立場では駄目かもしれない?
それでも自分にとって大切な真実だから誤魔化したくない、それなら正直に何と言えば良い?
考えながらブラックコーヒーのプルリング引いた時、パンツスーツのポケットが振動した。

―まだ終業前なのに、周太?英二くん?

息子たちを想い一瞬竦んだ心が、14年前の春にフラッシュバックする。
あの夜は夫からの電話だと思って受話器を取った、けれど、違う声から告げられたのは幸福の終わりだった。
あの一本の電話で潰えたのは、最愛の恋人の生命と約束と、そして息子の笑顔が夢に生きてほしい願い。
あのとき見つめた絶望は今も電話ひとつに思い出す、けれど開いた電話の画面に美幸は微笑んだ。

「噂の息子から電話が来たわ、ちょっと話してきても良い?」
「はい、どうぞ、」

明朗な笑顔が勧めてくれるのに微笑んで美幸は席を立ち、明るい窓際で通話を繋いだ。
見あげる空は青色やわらかくなる、この空に繋がる息子が電話の向こう笑ってくれた。

「おつかれさま、お母さん…まだ会社にいるの?」

いつも通り穏やかなトーン、けれど何だか羞みが明るい。
きっと良い報せを話してくれる、そんな様子に竦み解けて美幸は笑いかけた。

「はい、会社で缶コーヒー飲んでるとこよ、周は?」
「ん、今日は非番でトレーニングだけなの…だからお母さんの仕事が終わるかなって思って今、架けて、」

今日は非番、そう教えられて安堵が納得する。
前とは違う息子の勤務形態に慣れていない、そんな自分に微笑んだ向こう息子は教えてくれた。

「あのね、俺、大学の研究生にならないかってお話もらったの、森林学とフランス文学の研究室と掛持ちでね、授業料は免除なんだ、」

一息で話してくれる言葉に、懐かしい笑顔が心を占めてゆく。
もう14年前に消えてしまった大好きな声が笑う、その記憶見つめて美幸は微笑んだ。

「フランス文学の研究室って、お祖父さんとお祖母さんが居た所でしょう?周、このあいだ翻訳のお手伝いしたって話してくれた、」
「ん、そうなの。お祖父さんの本をくれた田嶋先生のこと話したよね、お父さんの友達の。その田嶋先生がお話勧めてくれたんだけど、」

羞んでいる息子の声に、最愛の人の軌跡が垣間見える。
夫は出逢う前のことは殆ど話してくれなかった、けれど今、夫の俤がこうして教えてくれる。
そして夫と願った宝物の未来が今ようやく姿を顕わす、その瞬間へ美幸は心いっぱい笑いかけた。

「文学部の研究室と掛持ちするなんて、やっぱり周はお父さん達から良いもの沢山もらってるのね?」

夫のことは何も知らない、けれど夫の真実なら自分は知っている。
夫の両親の事も友達も、出身大学も職務も何も知らなくて、けれど夫の心と願いは知っている。
そして何を幸福だと笑ってくれるのかも知っている、その想い笑った向こう宝物も笑ってくれた。

「お母さん、俺が研究生になりたいって思ってること、もう解かるんだね?」
「はい、解かります。もう英二くんにも話したんでしょう?」

即答で問いかけた電話、気恥ずかしげな空気が伝わらす。
こんなふう恥ずかしがりの息子は年齢より幼くて、それが愛しくて心配な想いに羞んだ声が明確に応えてくれた。

「…ん、英二に話したよ?お話もらってから3日考えて、やっぱり勉強したいからって決めてお母さんに電話したんだ、」

やっぱり勉強したい、

この言葉を夫は喜んでいる、きっとその両親も笑ってくれる。
そして自分も嬉しくて幸せで見あげた空は、あわい茜雲が輝き初めてゆく。

―馨さん、周太は学者になるかもしれないわ、あなたが願っていたように樹医になって、文学を愛して、

心に呼びかける先、冬の陽に佇んだ幸福な時間から笑顔が応える。
もう15年前になる冬の休日の陽だまり、あまいココアの香と新聞紙のインクの香。
それから綺麗な笑顔に輝いた涙ひとつ、果てない願いと愛情に輝いて今も自分の心に生きている。

『周、きっと立派な樹医になれるよ?本当に自分が好きなこと、大切なことを忘れたらダメだよ?…諦めないで夢を叶えるんだよ、』

懐かしい愛しい声が記憶から笑ってくれる、そして諦めかけた夢が息づく瞬間を今、ここで生きて見ている。









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