萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第85話 春鎮 act.34 another,side story「陽はまた昇る」

2017-05-29 06:25:00 | 陽はまた昇るanother,side story
And every fair from 清廉に、
harushizume―周太24歳3月下旬


第85話 春鎮 act.34 another,side story「陽はまた昇る」

朝の海、ただまぶしい。

「…きれい、」

ため息に潮が甘い。
さくり、踏みだした足もと砂が鳴る。
踏みしめるレザーソール砂きしむ、脱いだほうが楽かもしれない?

「こほっ…、」

咳ちいさく喉ふるえる、でも苦しくない。
冷たい空気が肺に充ちる、ほろ甘い香かすかに辛い風。
まだ冷たい潮の香、それでも靴下ごと革靴ぬいで、ほら、すこし自由だ。

「ん…、」

冷たい、けれど心地いい。
足裏ひんやり、静謐の浜にとけてゆく。

「は…、」

深呼吸そっと嬉しくなる、だって潮の風が甘い。
まだ冷たい風が素足くすぐる、冷たい砂ほろり、爪が指が埋もれとける。
砂に風にくすぐられ歩く素足の先、きらめく銀色うちよせて飛沫が光る。

さくり、さくっ、

砂が鳴る、素足よせる波の光。
泡きらめいて光なびく、青色しずかな銀色まどろむ。
眠るような朝の波、それでも波打ちぎわ遠く犬と人が笑う。
潮の香ほろ甘い、ただ穏やかな幸せな海の朝、冷たい感触やわらかな素足が息吹く。

ほら、一昨日とは違う。

―僕は死のうとして…でも生きたいんだ、

おととい、たった36時間前の夕暮れの海。
ただ絶望だけが朱かった、あのひとの声ただ追いかけて、泣いて。

―…周太、袖も捲った方がいいな?濡れたら困るから、

ほら今も聞こえる、あなたの声。
さくり、さくり、素足に濡れた砂ふれる。
肌とおる冷感ざらり踏む、踏みしめる砂は冷たく脆い。
ダッフルコートひるがえす風、頬ふれる冷たい風、どれも一昨日と似て、けれど違う。

「英二…僕も決めるよ、」

ひとりごと唇かすめる、冷たい潮が口に甘い。
明るむ陽ざし波が光る、青い空が海を透きとおる。
静かで澄明な朝の海、その波にひとあし浸して呼ばれた。

「ゆはらくんっ、」

澄んだ声、それから砂かろやかな小さな音。
ふりむいて茶色い毛並きらきら光って、とんっ、ふさふさの足がとびついた。

「おんっ、」

茶色い黒い瞳つぶらに見あげる、太もも押してくる前足が強い。
三角耳ふっさり茶色やわらかで、やさしい眼ざしに微笑んだ。

「おはようカイ…美代さん連れてきてくれたの?」
「くん、」

鼻ちいさく啼らして見つめてくれる。
さあ見つけたよ?そんな眼ざしにベージュのコート駆け寄った。

「おはようっ、ゆはらくん…カイ、あしはやいね?」

息はずむソプラノ、薔薇色すこやかな頬、明るい瞳が笑ってくれる。
昨日は泣いていた大きな瞳、けれど笑ってくれる今に微笑んだ。

「おはよう美代さん…カイの散歩にきたの?」
「うんっ、約束でしょ?」

澄んだ声が笑ってくれる、その頬かすかに腫れて赤い。
まだ治りきらない痛みの痕、それなのに明るい瞳が笑った。

「カイにお礼しなくちゃって昨日、言ってたでしょう?だから菫さんにお願いしたら任せてくれたの、」

朗らかな声、誠実な言葉、そのままに実直な明るい瞳。
この眼ざし自分を真直ぐ見てくれる、いつも、この今も。

「そうなんだ…カイと美代さんだけで来れたの?」
「そうよ?カイはちゃんとコース知ってるから大丈夫よって、菫さんがね。きっと湯原くんも来るわって教えてくれて、」

澄んだ優しい瞳が笑う、この海に。
潮風ひるがえす黒髪さらさら、華奢なコートの肩なびいて優しい。

「ん…菫さんと仲良くなれたんだね?」

笑いかけた名前に懐かしくなる。
あの菫色の瞳したガヴァネス、彼女の魔法かもしれない?

「うんっ、いっぱい優しくしてくれるよ?素敵なひとね、菫さん、」

ほら、昨日あんなに泣いた瞳がもう笑っている。
きっと菫色の瞳が魔法をかけてくれた?そんなふう想えるほど昨日と違う笑顔が、海風に朝陽に透る。

「このあいだの時もいっぱい気遣ってくれたの、昨夜もね、眠れない私につきあってお喋りしてくれて、」

笑いかけてくれる瞳は澄んで明るい。
その眼ざしに嬉しくて、けれど、違う視線の高さに想いだす。

「湯原くんのお母さんもね、電車の中でもずっと私の話を聴いてくれたのよ?おばあさまも美味しい紅茶を淹れてくれてね、おかげで今朝は元気です、」

明るい瞳まっすぐ笑ってくれる、あわい日焼すこやかな笑顔。
ほら夏の隣と違いすぎる、違いすぎて思いだす。

―…周太、裾もめくったほうがいいな?

夏の陽まばゆい白皙、あの笑顔は今もう遠い。
そんな現実ゆっくり瞬いて今、すこやかな瞳に笑いかけた。

「そうだね、昨日より美代さん元気そうだよ?」
「でしょう?いろいろ吐き出して楽になっちゃったみたい、一晩お喋りしつくしたもん、」

澄んだ声やわらかに海を舞う。
ベージュのコートひるがえる髪、まばゆい朝陽にソプラノが笑った。

「湯原くん、海ってほんと大きいね?」

あれ?今、それなんだ?

「…ん、そう、だね?」

大きい、確かにそうだけど?
とまどった波打際、のびやかなソプラノ笑った。

「私、ずうっと御岳にいるでしょう?高校も職場も奥多摩だからね、奥多摩の外に出る機会あまりないし、海に来るこもとあまりなかったの、」

ほがらかな澄んだ明るい声、おおらかに響いて素直に透る。
日焼あわい健やかな笑顔、その瞳が自分に笑った。

「ほんと私って世間知らずよね、海でこんなびっくりして喜んでるの。こんなだからお父さんに心配されて怒られてあたりまえ、ね?」

ほら、聡明なんだ彼女は。

―ゆうべ考えたんだね、美代さん…泣いても逃げないで、現実に向き合って、

昨日は泣いていた瞳、けれど今は現実まっすぐ見る。
こんなふう自省できる明眸へ素直に笑った。

「美代さんってすごいね、」
「なーんにもすごくないよ?すごかったらお父さんを怒らせてないわ、」

困ったことよね?
そんなトーン笑ったソプラノが澄んだ。

「すごくない私なの、それでも大学のこと家族に説得するよ?どれだけかかるか解らないけど、ね?」

自分自身の脚で立っている、彼女は。

「ほんとうに強いね、美代さん…、」

自分より華奢なひと、けれど心はずっと強い。
その瞳が瞬いて赤い頬のまま笑った。

「そんな褒めてくれても、ね?昨日いっぱい泣いた後だから恥ずかしいよ、カイも笑ってるみたい?」

はにかんだ瞳が笑ってコートの腕を伸ばす。
差しのべた小さな手、茶色やわらかな犬の耳なでる。

「カイも慰めてくれたんだよ?ゆうべ一緒にいてくれたの、ほんと賢い優しい子だね、」

ふっさり犬の耳なでる指、細いけれど節くれがある。
華奢でも土にふれて生きる指、どこまでも健やかな強靭がまぶしい。

まぶしくて憧れる、だって綺麗だ。

「あの…ね、美代さんに訊きたいことあるんだ、」

口が開く、もう声が出てしまった。
この海でこんなこと話そうとする、ただ生きたくて。

―ごめんなさい英二、でも僕も決めたい、

ほら君を思いだす、今も。

―…また一緒に来ような、周太?

約束と君が笑った夏、その海で昨日、自分は死を選ぼうとした。
それでも今は生きようとしている、今日を生きて明日を決めようと口をひらく。
それなのに今ここに君はいない、あの夏から一年も経っていないのに違う瞳が隣にいる。

「ん、なあに?」

潮風に笑ってくれる瞳、透る明るさ朗らかに強い。
君とは違う強さのひと、どこまでも健やかな明眸に声をだす。

「あのね…どうして美代さんは僕のこと、看病してくれたの?」

こんなこと話そうとしている、ただ、生きたくて。

(to be continued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」】

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