八ヶ岳の麓 ログハウスの宿 Tombouctou 徒然記

八ヶ岳の麓、標高1,300mの富士見高原にあるログハウスの宿のオーナー雑記帳
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40年前の青春の思いでの旅 シルクロード、 テヘラン ~ イスファーン

2013-03-01 20:31:03 | 旅行

イスタンブールからインドさらにネパールのカトマンズに至るルートは別名、ヒッピー・トレイルとも呼ばれていました。私の様にバスを乗り継いでいったり、ヨーロッパの若者だとオンボロ自動車を運転していく人もいました。これらのバックパッカーの人たちの間には情報交換するところがありました。それは、主に安ホテルです。何処の町や場所が良かったとか、どのホテルが安くて良かったとか、ドルの交換レートは何処ではいくらだったとか、色々な情報を仕入れます。このようなバックパッカーの報報を自らのシルクロード横断旅行の経験に基づいて作られたのが、旅行ガイドブックの世界最大手のロンリープラネットの出発点です。創設者たちは私たちと同じ年に旅をしたようです。日本でも、似たようなガイドブックとして『世界の歩き方』が、数年後に発行されました。現在の『世界の歩き方は』のターゲットはもう少しリッチな人たちの様ですが。

当時、テヘランでは、アミール・カビール・ホテルがヒッピーを中心としたバックパッカーの定宿の様でした。大分後の時代でもそのホテルはバックパッカー用として残っていたようです。

そこで、テヘランに到着してそのホテルを探しましたが、なかなか見つかりませんでした。その当時、イスタンブールで仕入れた情報のホテルの名前は、アメリカーナ・ホテルでした。耳で聞いた響きが、アメリカーナで、その当時は親米のイランでは有りうる名前です。今の反米イランでしたら有り得ない名前です。そんな訳で、アミール・カビール・ホテルに宿泊できたのか否かは、今でははっきり覚えていません。しかし、同じようなヒッピー向けの安ホテルで色々な情報を仕入れました。

さて、色々な情報からテヘランから真っ直ぐにアフガニスタンに向かうか、どこか横道をするか迷いました。友人はテヘランからアフガンに直行することにしましたが、私は折角なので旅行者から評判の良いイスファーン、シラーズに一人で寄っていくことにしました。

 

テヘランから南へ300km程のところにあるイスファーンにバスで向かいました。途中、広大なカビール砂漠の西端を通りました。

 


カビール(塩)砂漠の名前の如く、岩塩が遠くに見えます。砂漠と言っても石や礫がゴツゴツしています。

 

 

バスの旅では、オワシスで暫し休憩です。8月なので日中の気温はかなり暑かったですが、湿度がとても低いので日除けしていれば日本の夏より過ごしやすいです。

 

途中、シーア派の聖地のひとつであるコムを通過、現在はゴムと言うらしいです。この町には、後にイスラム革命を主導するホメイニが学び教えた宗教学校があり、現在ではイランの宗教保守派の牙城だそうです。


クムのモスク

 

テヘランからイスファーンまではバスで1日の旅です。バスから降りるとホテルの勧誘の人が寄ってきます。値段と部屋をチェックして現地人向けの安宿にチェックインしました。

 

イスファーンは日本で言えば京都の様な古都です。最盛期の16世紀には『イスファーンは世界の半分』とも言われていたそうです。その当時の建物が現在は世界遺産になっているそうです。有名なものはイマーム広場の周辺に点在しています。 

 

イマームモスク(上)とイマーム広場(下) 

 

 

 

イマーム広場から一寸のところにある チェヘル・ソトゥーン宮殿は、17世紀にアッバス2世によって作られた迎賓館です。「チェヘル・ソトゥーン」とは「40本の柱」という意味ですが、実際の柱の数は20本で、その前にある池に映る20本とあわせた数が名称になっているそうです。

  チェヘル・ソトゥーン宮殿

チェヘル・ソトゥーン宮殿のライオンと少女、 昔は噴水だったのでしょうか?

 ライオンはイランのシンボルの様ですね。革命前のパーレビ国王の時代のイラン国旗には真ん中にライオンが描かれていました。

 

 

 

チェヘル・ソトゥーン宮殿の内部は細密画などの色彩が鮮やかな男女の壁画が沢山ありました。今のイスラム原理主義の人たちは、この様な壁画を許すのでしょうか? 昔のイスラム教の方が許容度が大きかったのですかね。


 

 

そろそろ、関西からのリピーターのお客様がいらっしゃる時間です。

 

 イスファーンの続きはまた、後日にでも。



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