とほほブログ

とほほブログは移転しました。左欄のブックマーク欄より移転先に移動できます。m(__)m

朝鮮から見た日露戦争(1)中立化構想と日清戦争

2005年08月17日 | 日本の戦後処置と歴史認識
私のブログではできるだけ他人の記事の転載はしない方針だがこれも脱・漫画嫌韓流へトラックバックしておいたほうが良いだろう。この記事は思考錯誤:韓国殖民支配スレッドの親記事に当たる、このスレッドには多数の反響があったので思考錯誤のほうも是非ご覧いただきたい。

---
旧板で少し話題になっていた韓国への殖民支配の件ですが、ピエールさんの記事を許可を得て転載します、参考になると思います。

全文はこちらでごらん下さい。

--
朝鮮から見た日露戦争(1)中立化構想と日清戦争

日露戦争開戦100周年にあたり、「杉並歴史を語り合う会」主催の歴史講演会を聴講した。講師は朝鮮近代史の趙景達・千葉大学教授で、テーマは朝鮮にとって日露戦争はどのようなものであったか、というものであった。日露戦争は、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』に代表されるように、奉天会戦や日本海海戦、203高地攻防戦など、戦略や戦術、いかに戦い何故勝利したのか? という視点で研究、あるいは語られることが多い。特に特定の政治的な意図をもって日露戦争を語る場合、「列強の侵略・植民地支配など『弱肉強食』のアジアの片隅に産声を上げたばかりの幼い、健気な日本(人)が、気概と志をもって、国民一丸となって独立を守り抜いた自衛の戦争」というイメージで描かれる。それが、敗戦までの大日本帝国の対外膨張・アジア侵略の正当化を目的とする特定のイデオロギーをもった勢力に政治的に利用されるのは至極当然であって、9年前、藤岡信勝・東京大学教授(当時)が立ち上げた「自由主義史観研究会」は、その中心思想を自ら「司馬史観」と公言していたことを忘れてはならない(「自由主義史観」の「自由」とは、石橋湛山の自由主義的政治思想に由来する、との“強弁”も聞かれたが、彼らが湛山の思想を意図的に(?)歪曲して利用していたことは隠れもない事実だろう)。ようするに、同「研究会」のイデオロギー的原点が、日露戦争を肯定的に描こうという意図から出発しているわけである。つまり、「自衛のための国民戦争」という彼らの主張する【虚構】を、別の史実・違った観点から提示するだけで、彼らの政治運動の根幹が揺らいでしまうということである。さらに「研究会」を事実上の揺籃として発足した「新しい歴史教科書をつくる会」の主導で書かれた扶桑社の中学用歴史教科書も、まさにその「歴史観」で日露戦争をとらえている。だからこそ、日露戦争の実相を多角的に捉え直すことは、彼らの運動の正当性を瓦解させるうえで、きわめて有効なアプローチと言えるだろう。

しかし、「生存をかけた国民戦争」とやらも、実際に日露戦争の「口実」にされ、戦争の結果、戦後は大日本帝国の植民地支配を受けることになった朝鮮については、あまり語られることがない。朝鮮にとって日露戦争とは何だったのか。「日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争」(扶桑社教科書)とやらが、朝鮮の人々にもたらした桎梏の事実は、もちろんこの「教科書」では完全に無視されているし、「日露百年」に便乗して最近出回っている歴史書(「研究書」と呼んでいいのか憚られるような内容のものまで含めて)も、朝鮮に関する記述はほとんど皆無といっていいだろう。朝鮮にだって「生存」をかけて方向性を模索する多様な動きがあった。そこで、「朝鮮半島から見た日露戦争」という視点に一旦立ってみれば、これまであまり見えてこなかったこの戦争の実相がつかめるのではないか。そう思って参加した講演会だったが、趙教授の講演は私のそうした長年の「不満」に見事に答えてくれる内容だった。したがって、ここに、歴史の事実を知りたい方、「トンデモ教科書」の採択推進運動から大切な子供たちを守りたいと考えている方のために、講演内容をご紹介するものである。

「朝鮮にとっての日露戦争」

日露戦争が朝鮮の領有をめぐって日本とロシアの間で争われた帝国主義戦争であったことは明確である。ところが、肝心の朝鮮にとってこの戦争がどのようなものであったのかということについては、関心があまり注がれていない。そこでここでは、朝鮮を主軸にすえてこの戦争を振り返ってみたい。

【朝鮮中立化構想】
まず、日露戦争は最初から「戦争ありき」ではなかった。日本にとって、また東アジアの安定と平和のために、朝鮮半島のあり方については様々な考え方が戦前から存在しており、列強の「分捕り合戦」の局外に朝鮮を置こうという中立化構想も有力なものとしてあった。第一は、駐朝鮮ドイツ副領事のバドラーが、朝鮮に直接的利害を持たない第三国の立場から提唱した中立化構想である。次は朝鮮の兪吉濬の中立化構想で、それは清の盟主下での中立化という点に特徴があった。中国との伝統的な朝貢体制を維持しつつ、「万国公法」体制との両立を目指した二重体制論である。兪吉濬は、慶応義塾とアメリカの大学に留学した経験を持つ当代きっての世界通であり、開化派のホープであった。3番目は、井上馨の「弁法八ヶ条」。朝鮮における英露の影響力の排除を意図して清の朝鮮における優位を是認したうえで、日清の提携による朝鮮「独立」を保全しようというもので、比較的穏健な考え方である。

以上はみな1885年に出されているが、1890年段階に至っても山県有朋などが朝鮮中立化を構想していたことは注目される。それは山県の意見書「外交政略論」に見られるものだが、日清英独の4国で朝鮮の中立を保障していこうというものである。ただこの段階では、朝鮮の中立化がどれほど真剣に模索されたかについては疑問の余地がある。山県は朝鮮を日本の「利益線」とし、日本が力をつけたときには朝鮮をなんとか(ものに)しようと考えていたと見られる。いわば国力主義的な外交が本格的に可能になるまでの一時的便法として打ち出された外交策であったといえよう。

【日清戦争】
ところが、1894年の日清戦争で、日本は一気に朝鮮の保護国化に動く。これは、伊藤博文、特に陸奥宗光が練り上げた「最高傑作」の戦争だった。どうしてそんなに戦争をしたかったのかというと、1884年の甲申政変で清と戦争になりそうになったが、「勝てる見込みがない」ということで日本は戦争を断念していた。清の李鴻章が作り上げた北洋艦隊や陸軍と戦って勝てる算段はなかった。ところが、その後10年の間に日本は大増税をかけて、一大軍事力を作り上げる。しかも、すでに徴兵制を敷いていた日本は、国民軍を作るのに成功を収めていた。それに対し清はまだ、国民国家の原理に基づいた国民軍を作り上げていない。清の兵士はどうして日本と戦って死ななければならないのか、その本質について理解できず、当然士気も低かったものと思われる。日本の場合は「文野の戦争」観を明確に打ち出し、文明の国=日本という優越した国民意識を兵士らに注入し、何が何でも戦争に持ち込むということでこの戦争を始めた。

実はこの時、日本は清と戦う前に朝鮮と戦争をしなければならなかった。1894年7月23日に日本は強大な部隊で王宮(景福宮)を包囲し、朝鮮軍と戦闘を始めた。1~2時間くらい戦闘が続いた。これはもう、天皇を利用した明治維新の発想と同じで、国王を虜にして脅しつけ、日本に対して「清を撃退してくれ」という嘆願書を書かせることにその目的があった。清びいきの国王は嫌々ながらそれを書いたものと思われる。それを「錦の御旗」にして日本は清に戦争を仕掛けた。しかし、国王から執政をまかされた父親の大院君は、清の軍隊に密書を発し、日本軍を撃退するように要請している。また、朝鮮南部で反乱を起こしていた東学農民軍にも密書を出して、「清と協力して日本軍を挟撃せよ」という指令を出している。従来日本でも韓国でも、清は日本同様朝鮮の領有を目指していたとし、朝鮮にとって日本も清も侵略国という点では同じであったというのが定説となっているが、これは大きな間違いだ。しかも日本は、私の概算では日本に抵抗する東学農民軍を3~5万人殺害している。日清戦争では、旅順での虐殺が有名だが、それに先だって朝鮮民衆の殺害を始めていたことを銘記しておく必要がある。近代日本最初の対外民衆虐殺は旅順でも南京でもなく、朝鮮と考えなければならない。日清戦争は当時の朝鮮にとっては、王室にあっても民衆にあっても、朝鮮を侵略しようとする日本に対し戦いを強いられた清国が打ち破られた戦争、と認識されたことが確認されなければならない。

日本は清を圧倒する形で勝利を収めた。日本は戦争の最中にも朝鮮を保護国化しようとしていた。しかし、下関条約で賠償金は取れたけれども、ロシア・フランス・ドイツが三国干渉をしてきたので、朝鮮を保護国にすることはできなかった。この時から「臥薪嘗胆」が日露戦争までの合い言葉となる。

(感想)
日露戦争だけでなく、日清戦争からすでに「朝鮮」保護国化を目指した【侵略戦争】であったわけですね。国王を脅しつけて、「清打倒」の嘆願書を書かせるなど、まさに徳川幕府打倒と同じ発想。いや、源平の争乱以来、私たち日本人は天皇という「権威」を利用することによって敵の戦意を挫くというやり方に慣れきってしまっていたようだ。旧幕府派が「(将軍が官軍との対決に反対なら)上様を討ってでも戦う」と考えたのは、追いつめられたものが権威ではなく、己の「誠」に殉じようという本音だろう。だとすれば、日清戦争も「やりたくてやりたくて仕方がなかった」大日本帝国が、朝鮮国王の「権威」を借りて、「大義名分」をデッチ上げて始めたものだろう。もちろん、日本の朝鮮侵略の意図は、日清戦争のずっと以前の「江華島事件」から明白だったわけだが。
--- ピエール歴史館-歴史修正主義を討つ-より ---