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条件or無条件降伏?押し問答。

2005年09月26日 | 日本の戦後処置と歴史認識
> 今回のとほほさんが提示した引用文を読むと、日本は天皇の地位を維持することに成功したから、無条件降伏ではない、と、とほほさんが主張しているのではないか、と思うのですが、それが、いったい【ポツダム宣言そのものが『無条件降伏』ではない】という、とほほさんの以前のコメントとどんな関係にあるのですか?

ポツダム宣言の表面上の条文と、実際に行われた降伏措置とは関係がないということです。「本音と建前」ですよ。私の言っている事を五番街さんが本当に理解したいと思うのであれば私の反問に答えるべきだと思います。
「なぜ天皇を訴追しなかったのですか?」

> ポツダム宣言に関する当時の日本の理解の仕方と、米国の回答を次にあげます。
右宣言(注:ポツダム宣言)は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を、包含しおらざることとの了解のもとに、これを受諾す。
帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ、本件に関する明確なる意向が速やかに表示されんことを切望す。

 (秘録 東京裁判 清瀬一郎著 中公文庫)

もちろん、そうした表面上の問題はアメリカ側の歴史学者も十分理解している事であってそのうえで実際に行われた占領統治政策はポツダム宣言を全然遂行していない、という批判であります。

> つまり、ポツダム宣言には、天皇制度の廃止が盛り込まれていないと日本政府は理解している。このことをもって、日本政府は同宣言を受諾するが、この理解の仕方が正しいことを明示して欲しい、ということですね。

> それに対して、米国は次のように回答しています。
降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施のため、その必要とする措置をとる連合国最高司令官の制限のもとにおかれるものとす。日本国の最終的な政治形態は、ポツダム宣言にしたがい、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるものとす。(同)


が、しかし、それは天皇を訴追しなかった理由にはならないのです。天皇が訴追され有罪判決を受けるにしろ無罪判決を受けるにしろ、それを踏まえたうえでの国民の自由意志での選択こそが民主主義の考え方ではないですか、真実を隠蔽した国民の選択などというのは民主主義では有りません。

> まず第一に、日本は、ポツダム宣言の理解・解釈を述べたものでり、条件の提示はありません。そして、米国の回答では、天皇および日本政府は連合国最高司令官に従属すると述べられているに過ぎず、この解釈を肯定するものでも、否定するものでもありません。この回答からすれば、「降伏条項実施」のため、天皇制の廃止を決定することも可能です。

その通りです。

> ところが、この回答を日本政府は【天皇は日本国占領中、最高司令官の下にあるとは言いながら、その存在を認めたうえの条件であるから、やはり天皇制それ自身の存在を承認したという趣旨である】(同)と、自分勝手に解釈し、ポツダム宣言を受諾しました。

そんなことは不可能です。ですから、二次大戦における戦争法廷は黎明期であることを最初に私が考慮すべきであると主張したわけです。

> このように、日本が天皇不訴追や天皇制の維持を条件としてポツダム宣言を受諾した、とか、日本は有条件降伏であるという主張は誤りといわなければなりません。

それを立証するには「天皇を訴追しなかった理由に対する明確な理由が回答されねばならない」という私の反証に答えることが出来ますか?

> 日本が、この米国の回答によって天皇制が廃止される可能性があると考えたならば、日本は同宣言の受諾を拒否し、戦争を継続するという、泥沼の選択を行うことになります。しかし、日本は、戦争を終了するという強い希望を実現するために、この回答を「天皇制を承認するという趣旨」という、願望を塗り込めた解釈を行ったものにすぎません。

もちろんそのとおりです。ですからポツダム宣言は無条件降伏であることには変わりがありません。がしかし、天皇を訴追しなかった事は条件をアメリカ側が呑んだ、ということであり、これを無条件降伏である、と表面上の問題で片付けたところで戦後の戦争責任問題は解決しません。現実は現実として受け止めねばならない、戦後体制は戦前体制を受け継いだのであり、ポツダム宣言の条文にそれが含まれなかったとしても当時の軍部が主張していた「条件」がその一部であれ反映された形で実現されているという事象に対して、条文を突きつけて、それは違うという説得のほうが説得力を持たないのです。

それをやるためには日本側民衆が戦前体制に対する継続裁判を行なわねばならず、私の主張はそれを行なうべきである、と言う事になります。枢軸国でこれをやっていないのは日本だけなのです。

条文通りに現実が施行されてない事が「ポツダム宣言が無条件降伏ではない」という主張をしているのでは有りません。「ポツダム宣言通りの戦後政策が実現されていない事がポツダム宣言が無条件降伏でなかった、という評価を成り立たせるには十分である」と主張しているのです。

私からすれば五番街さんやタラリさんの主張は正直言えば右翼を喜ばせます。
東京裁判で「訴追されなかった事が、日本はそれほど悪い事をしていない根拠である」という論理を成立させてしまいます。これへ反論できますか?現にタラリさんも五番街さんも、そう主張しています。「訴追されなかったのは、該当する犯罪を日本が行なっていない」又は「裁判当時にはそうした犯罪を認識していなかった」です。
これは右翼がよく使うレトリックそのものではないでしょうか?

> まず、ドイツが「無条件降伏」したという、とほほさんの主張についてです。
> ヒトラーが戦死したというのは、自殺の間違いですね。ドイツは、ほぼ戦闘能力がゼロに等しい状態まで追い込まれ、ヒトラーが自殺したために、連合国に対する抵抗を終了し、連合国はドイツを制圧・占領しました。しかし、ヒットラーを失ったドイツは、連合国に対して「降伏」の意思表示を行っていません。


ということは、論理的にはドイツは降伏していない、と言う事になります。

> これは、南京攻防戦で、中国軍司令官が逃亡し、軍が総崩れになって、日本軍が勝利し、南京を制圧したことと似ています。中国軍も南京も降伏したのではなく、南京が日本軍によって制圧され、占領されたに過ぎません。

その通りであり、中国政府は降伏してませんが、事実上南京市民にとっては占領され占領支配を受けているわけですから降伏していることとなんら変わりはありません。

> ところが、戦争犯罪人の処罰は、降伏の有無、あるいは条件の有無に関わりなく、戦争犯罪人を捕獲した国が行うことが国際慣習法として定着しています。たとえば、戦争中に捕獲したドーリットル爆撃の搭乗員を捕獲した日本が、彼らを戦犯として処罰したことが、その実例です。

ところが、東京裁判ではそれを行なっておりません。

> さらに重要な問題は、清瀬は「無条件降伏」の場合は、裁判なしで戦犯を処罰することも可能と考えていることです。

こうした論調は清瀬氏に関係なくニュルンベルグ当時にも会ったことです、以下前述の前田氏の論文よりの引用です。

連合国は最初から軍事法廷の設置をもくろんでいたわけでは必ずしもない。ナチス指導者のような悪魔的な人物をいったいなぜ法廷に立たせる必要があるのかという疑問が提起されていたからである。実際ヘンリー・モーゲンソーはナチス指導者を裁判抜きに即決処刑し、ドイツを農業文明段階に押し戻すべきだと考えていた。戦後ドイツの経済復興を否定し、ドイツが二度と戦争が出来ないように徹底的に弱体化しようとの意見も強かった。

<略>

第二次大戦の勝者が、敗者に対して同情することなく破壊する理由が、あったのに、ナチスがその犠牲者に対して課した「集団処罰」をドイツにも課すべきだという誘惑を克服したのである。集団処罰を課すのではなく、彼らはナチス指導者に無罪の推定を保障し、その責任を決定するために10ヶ月もの裁判を行なったのである。


> この因果関係がまったく理解できませんが、13世紀のマグナ・カルタ以来、裁判なしの処罰の禁止が考え方は定着しており、もし、それが実行されたならば、処罰を行った者が不当な処罰として、犯罪に問われます。

現実は上記の通りなわけです。

> つまり、清瀬の主張は、この基本的な近代社会の原則を理解していないことが原因としか思われません。当時の日本では、このような無法の思想が存在し、それが、南京大虐殺などを引き起こした要因になっていたのじゃないか、とさえ考えてしまいます。

それが戦争の現実であり上記の事実はそれを裏付けるものです。

> このように、無条件降伏と戦犯の処罰とは、相互関連はありません。ただし、降伏条件に、免罪規定が設けられたのならば、この限りではありませんが、ポツダム宣言にはそのような条項は存在しません。したがって、ポツダム宣言と天皇不訴追との決定には、相互関連はありません。

提示した資料をご確認ください、天皇訴追を行なわなかったのニュルンベルグ原則に反します。

> このコメントも、何が言いたいのかよくわからないのですが、とほほさんは、以前の投稿で【C級犯罪を適用した場合、被告は、その後に政界などで復活できないために、C級犯罪の適用を除外した】という趣旨の発言を行っています。
> むろん、岸信介などの第二次A級戦犯容疑者は開放されたのですから、彼らには、このとほほさんの主張が当てはまらず、当てはまるのは、東京裁判で有罪判決を受けた被告です。


しかし、人道に対する罪では有りません。戦争犯罪であり、戦争犯罪であれば「戦争が悪い」の論理が実際の戦後社会を形成してきた現実が私の主張を裏付けます。

> ですから、私の質問に対しては、東京裁判において、A事件に関してX被告に、C級犯罪を適用すべきであったが、それが行われなかったのは、自分の主張が正しいからだ、というように回答をしていただきたいのです。

そうしているつもりですが、、、。

> 東京裁判で、A級以外の罪を問われた被告の一人に松井石根がいます。彼に対して、B級犯罪が適用され、南京大虐殺を防止すべき義務を果たさなかった行為を罪とされて、死刑判決を受けています。この事件は、非人間的な残虐さにおいて、さらに、その規模において特筆されるものですが、それに対してB級犯罪あるいはC級犯罪が適用されても、この特徴は変わりません。

> また、松井石根は、南京大虐殺を命令したのではないのですから、かりにC級犯罪が適用されたとしても、彼自身が、虐殺という非人間的行為を 行ったとして非難されることはないでしょう。そして、仮に彼が死刑判決ではなく、有期刑を受けた場合、社会復帰を果たしても、たとえば殺人犯を見るような見方はされないと思います。


ですからこそC級が適用されていないのです。

> それに対して、南京大虐殺の命令を下した現地の司令官レベルの軍人は、仮に裁判にかけられ、有罪判決を受け、その後に出所した場合、B級犯罪あるいはC級犯罪を問わず、大量殺人の命令者・実行者として、厳しい視線にさらされることになると思います。このような戦犯が政界に進出したり、実業界で指導的位置につくことは困難でしょう。

それはIF論です、現実にC級の判決を受けていないのですから何とも言えません。現実に現在問題視されるのはA級戦犯合祀問題ばかりであり、日本の世論はB級について同情的です。いわく「命令だから仕方なかった」「戦争だから仕方なかった」

> したがって、問題は、B級犯罪かC級犯罪かという問題ではなく、犯罪の内容です。東京裁判でC級犯罪の適用事例が存在しないのは、法テクニカルの問題だと思います。(南京大虐殺にC級犯罪が適用されなかったのは、おかしいと思いますが、むろんこの虐殺が見逃されたのではなく、B級犯罪が適用されたのですから、これでも悪くはないと思います。)

その論理がおかしい事はタラリさんへの反論で示しております、ご確認ください。

> 私の発言を簡単に述べると【天皇不訴追の理由は、ポツダム宣言とは関係がない。占領後の政策を円滑に遂行するためだ】ということです。
>
> それに対して、とほほさんは、【それは違う。ポツダム宣言そのものが『無条件降伏』ではない】からだ、と反論しています。


【ポツダム宣言そのものが『無条件降伏』ではない、とする考え方も成立します。】と反論してます。

> しかしながら、この理解の仕方が正しいとなると、とほほさんのこの主張は、この投稿の最初に引用した私の見解と近いことになります。私も、主張の一部として、天皇不訴追とポツダム宣言は関係ない、と述べているのですからね。さらに、とほほさんの主張は、これまで述べてこれられたご自身の主張とも異なることになります。これまで、とほほさんは、天皇不訴追の理由を【ポツダム宣言そのものが『無条件降伏』ではない】からだ、と述べているのですからね。これはいったい、なんなのでしょうか?

その通りです。
【ポツダム宣言そのものが『無条件降伏』ではない、とする考え方も成立します。】
と何ら矛盾するものではありません。

> これも、完全に理解不能です。「なぜ天皇を訴追しなかったのですか?」という問いに私が回答したために、議論しているのですからね。この私の回答は、この投稿の最初に引用されています。なぜ、このようなコメントが出されるのか、まったく見当もつきません。

いえ、それに対してはタラリさんへの反論で説明してますので、それを参照してください、と申し上げているわけです。

> 仮に回答したとしても、私は同じ回答を書くことになり、それでは堂々めぐりになることは目に見えています。これでは、議論をつづけることができるのでしょうか?

つまり、私の反問に対する回答が私への反論を形成していないので、同じことを繰り返す事しか五番街さんには出来ないわけです。

ですから第2の反問
東京裁判で「訴追されなかった事が、日本はそれほど悪い事をしていない根拠である」という論理を成立させてしまいます。これへ反論できますか?現にタラリさんも五番街さんも、そう主張しています。「訴追されなかったのは、該当する犯罪を日本が行なっていない」又は「裁判当時にはそうした犯罪を認識していなかった」です。
これは右翼がよく使うレトリックそのものではないでしょうか?
を提示したわけです。

> 投稿を読ませていただきましたが、残念ながら私の能力ではとほほさんの投稿を理解できませんので、議論を中止します。悪しからずご了承ください。

そうですか、私に間違いがあれば正していただきたいと期待したのですが残念です。

あ、再度読み直して少し五番街さんの言っていることがわかりました(^^;
つまり、一番最初。

> 東京裁判の特徴は、天皇の不訴追であり、これは裁判以前に米国の方針であったことが確認されていますね。この方針を察知した日本では、徹底した抵抗戦略を採用せず、ポツダム宣言を受け入れたのですから、この方針は戦争を早期に終了させ、日本内外の人命の損失を抑えたという効果があり、さらに、占領後の政策の円滑な遂行という政治的意図もあったと考えられます。

違うでしょう(^^;
ポツダム宣言そのものが『無条件降伏』ではない、とする考え方も成立します。ドイツの場合は完全な無条件降伏です。そうした視点で見てもニュルンベルグと東京裁判の違いは説明できると思います。


これの事ですね?
私がここで五番街さんに反論しているのは
【この方針は戦争を早期に終了させ、日本内外の人命の損失を抑えたという効果があり、さらに、占領後の政策の円滑な遂行という政治的意図もあったと考えられます。】
これに対して「それは違うでしょ」と言っているのです。

これの根拠をはやり探し出さなくてはなりませんね(^^;
つまり、アメリカは天皇制を廃止しても円滑な占領政策に楽観的であった傍証となる証言があり、これにはかなりの説得力があるんです。
五番街さんのこの主張はそれこそ右翼というか当時の軍部の主張である「まだ負けていない」を裏付けてしまうのですよ。そこで天皇の詔勅に対する米歴史学者の見解も引用したのですが、、、、。

再掲
「その詔勅はなんと奇妙であったことか。そしてなんと日本的であったことか。その将来について、なんと慎重な態度をとり、『降伏』と言う禁じられた言葉で日本の歴史の1頁を汚さないようになんと気を配っていた事か・・・・

どこにも敗戦という言葉は使われていない。もし将来、軍が自分の好きなように歴史を書き換える機会があったら、この詔勅を証拠にして、日本が戦争を終結させたのは単に敵があまりに残酷だったからだと言えるだろうし、軍は無傷だったが、天皇が大量殺戮をとめることに同意されたのは、日本を救うためだけでなく人間の文明を守るためにそれを望まれたからだと言えるだろう」


うーーんそうですね、確かにこれを私が他者に理解させるには私では力量が不足してます。南京虐殺は「おこった」のかを読んでみてくれとか言いようがありません。ただしこの本はあくまで歴史学に関する本ではないです。著者も「歴史は趣味である」としており専門の言語学から日本の歴史教科書(言ってみれば歴史認識)の偏向を統計的に証明したものです。