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科学と疑似科学と歴史修正主義(1)

2005年12月22日 | 日本の戦後処置と歴史認識
疑似科学のことが話題になっている事に触発され昔読んだ疑似科学の批判本を引っ張り出し疑似科学について再考してみた。疑似科学について考えるとき当然ながら科学とは何なのか、科学的手法とはどういうことなのか科学はどのように科学と疑似科学を分別しなぜ科学から排斥できるのか理解が必要である。

なぜなら疑似科学の提唱者やその信奉者の論理的礎となるのが「真理と呼ばれるものは常に流動的なものであり、その時代時代により真理と称されるものは異なり、新しい理論は迫害を受け保守的な科学者の攻撃をうけまた現在支配している理論が説明できず受け入れられる事はないがこの新発見がまぎれもない事実である事は疑いようがないのである」と言う論理であるからだ。
これはこれで正しい論理であって科学者が保守的にならざるを得ず、新しい理論が受け入れられるまで長い時間を要したり、場合によっては無視されたり迫害を受けたりする事もあることが歴史的事実であることには疑いようがない。

が、しかし疑似科学の信奉者がこの論理を使うとき、科学とは何なのか?、科学者はどのような仕事をなし?科学的手法を使うとはどういうことなのか?という事に対する無知や誤解の上からの発言であると言う事は少なくとも言える。

こうした疑問に答える事はネット上で科学者でもない私の言説ではほぼ不可能に近いしまた誤解の生じる恐れもある。私にはそのような能力も知識も時間もない。こうした事を知りたい方は専門家の書いた一般向けの疑似科学に関する書物を読むべきであると考える。一般向けであるがゆえにわかりやすく我々一般人が理解する事も容易である。よって私にも本稿のような考察が可能となる。
とはいえいちいち疑似科学全般に触れる事は困難であるがゆえそれは最低限にとどめ「否定論とは疑似科学なのか」という事に主題を置き考えてゆきたい。

結論から先に述べさせてもらえればホロコースト否定論や南京虐殺否定論などという物は例え「疑似科学」と言う言葉を使うにしても科学などというには程遠い科学どころか疑似科学の範疇にさえ入らない低俗で人間性を破壊する俗悪な思想のなせる屁理屈にしか過ぎない。が、しかし疑似科学について書かれた本を読んでおけば否定論などの馬鹿げた言説に惑わされる事もなくなるであろう。
因みに私が読んだと言う本は
「きわどい科学」マイケル・W・フリードランダー著、白楊社
と言う本であるので私の疑似科学に対する認識はこの本に依拠している。この本には歴史認識問題や歴史修正主義には全く触れてないため念のため(ほんの一行だけアインシュタインへのインタビューの中で、歴史学者はこうした問題によく直面する、とだけ触れている)、、、。
あわせて
「まだわからないことがある」吉永良正著、講談社
等もお奨めする。この本は疑似科学についてではなく科学上未解決な問題がある事を論じたものであるが、読んでおくことによって「科学は科学で解明できない現象や現在の理論で解決できない現象を疑似科学として排斥するのだ」と言う誤解は解けることであろう。
さて否定論が疑似科学の範疇にさえ入らないと言う主張であるが、少なくとも疑似科学と呼ばれるものの中には論理的で科学的手法をとり専門的な知識や科学者による検証作業や厳密な追試等が必要なものも少なくない。が、専門家の解説があれば大抵は学校教育で学ぶ知識と論理性を備えておれば我々にも喝破できるものではあるが、、、。
否定論の中には「新資料を発見」だとか「画期的新学説」だとか仰々しいうたい文句をうつ出版物も少なくない。その実は新発見でもなんでもなくすでによくしられた資料を持ち出したものでありトリミング等の手法で新発見のように装っていたり単なる嘘であったり学説全体にはほとんど影響を与える事のない証言の一部分を取り上げた揚げ足取りであるに過ぎない事は尊敬すべき当掲示板の常連諸氏が再三逐一細部にわたり論証しており否定論と戦う私やROMにとっては大変ありがたいことである。

また私自身の論争経験からも私の否定論に対する評価を肯定するに十分なものがある。

例えば西岡昌紀と言う人物がいる、彼が某MLでホロコースト否定論を主張し他諸氏と論争していた。当時私は南京事件について調べ始めたばかりで歴史修正主義であるとか否定論であるとかの言葉さえ知らない時期でありホロコーストについても常識の範囲内でしか知らなかった。ただ私は疑似科学の批判本は読んだ事はあったので、きちんと科学的手法でこの論争に参加してみる気になった。しかもホロコースト否定論を支持する立場からである。理由は私が判官びいきだからである。それまでの論戦内容からどう客観的に見ても西岡氏の主張は不利であったのだ、それは西岡氏の主張には論理的誤謬が多くおそらくは彼はネットデビューしたばかりでネット上の論争に慣れていないのであろうと考えその部分を補強してあげようと考えたのである。

ちょうど、ホロコーストが行われた根拠のひとつとなるルドルフ・ヘスの「自白調書」は拷問によるものであり信憑性に欠ける為根拠として採用すべきでない。と言う主張をしていたのであるが、この主張には論理的整合性にかける部分が多い、ここではいちいち説明しないが「西岡さん、あっちこっちの疑問にいちいち反応しているからその主張がよくわからなくなるのです、一つ一つ今わかっている事実の範囲内で問題点を処理していきましょう。まずは拷問による証言である、と言う仮説を補強していきましょうよ、西岡さんが挙げられている根拠は○○、○○、、、等ですがなるほど拷問があったことが確かに疑えますね、がしかしこれだけではこれこれこういうわけで不十分です。ホロコーストの真実に関する西岡さんの主張にとってはこの問題は大変重要である程度説得力のある論説に近づける必要がありますのでこの仮説をどんどん補強していきましょうよ」と言うような趣旨の提案をし西岡説の補強をしようとしたわけである。
http://t-t-japan.com/tohoho/aml/aml-stove9.htm

これに対して全く回答がない、別に回答がないこと自体はネット議論では各人開いた時間の中で議論しているわけであるので構わないのであるが、その拷問のあった証拠として、自らが拷問によるものであると主張し採用すべきでないと主張しているヘスの自白調書の記述の中から都合の良い部分だけ持ち出してきたのである。まったくもって非科学的な論理展開である。

西岡氏は専門的研究者ではないが医師であるという科学的権威の持ち主であるし日本においてはホロコースト否定では第一人者と言われる人物でマルコポーロ廃刊事件の当事者である。
いまでこそ否定論者を相手にこんな事で驚いていては否定論批判など精神的負担になるばかりでどうにもならん、と言う事もわかり馬鹿なことをしたものだと思うが、当時は本気であきれ返ってしまい、科学的素養のない医学者などいるものなのだろうか、と本気で考え込んでしまったものである。

その後色んな否定論者と論争を繰り返す中で「この人たちは間違いをわかっていて主張しているのではないか?つまり嘘をついているのではないか?」と言う疑いが持ち上がり、当掲示板でもたまに話題になるM尾氏との論争の中でそれはほぼ確信に近いものとなった。
M尾氏との論争の中である晩チャット状態になった事があるその中で「なぜそんなに怒るのかわからない、わたしはちゃんと資料や出典を明示し資料も公開している、私のトリミングや論法を信じるか否かはその資料を読まない読者に責任があるのであって私には責任はない」と言う趣旨の発言をしたのだ。彼の言っている責任とは良心的に解釈したとして出版物の著者としての法的責任と言う事でその事自体には法的問題はないはずだ、と言うことなのであろうが倫理観にかけるのかまたは自由主義史観研究会の中枢に復帰するためにどうしても否定論を出版せねばならない事情があるのかは知らないが嘘をついている事を認めたことには間違いがない。そのログは当然翌日には削除されていたしもしそのチャット状態を追いかけていたROMがいたとしても傍目には口げんかくらいにしか見えなかったであろうからこの事実を認識できるのは本人と私自身だけであろうので何の証拠もない、私の言説を信じてもらうしかないのでこんな事を書き込んでもせん無き事ではあるが、ただ一度でもM尾氏との論戦に参加してもらえれば私の言い分を納得する事は請け負える。

とまあこのようないきさつもあり、また自由主義史観であるとか新しい歴史教科書を作る会等の政治団体の活動が活発でその思想的背景に否定論があること知るにいたり少なくともネット上では積極的に反否定論の活動を行おうと私は決心したわけである。

科学と疑似科学と歴史修正主義(2)へ続く

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