「盆栽」から「大樅の林」へ
縁あって、映画プロデューサーの方と知り合いになり、作品のビデオを頂いた。先日お目にかかった際、「吉田富三の生涯をぜひ映画化してください」と言ったが、半ば以上は本気である。ご長男の吉田直哉さんは元NHKのプロデューサーであるが、「まあ無理と思いますが宜しくお願いします」と仰せられた。ますます本気になった。映画化されることで具象化したイメージが喚起され、最近の「がん対策基本法」の方向性、「医学教育」の在り方、「医療問題」の議論にも寄与するところ大であろうと思うからである。まさに、「吉田富三の温故創新」である。個人的には、お茶の水にあり、現在閉鎖状態であるが、吉田富三の研究生活の「舞台」であった「佐々木研究所」の再興でもある。
抽象的に述べてもわからないことが、喩えなどで具象的に語るとすぐに理解できることが多いものである。先日もある「プロジェクト」の戦略会議において「盆栽になるなかれ」と言った。その心は、「盆栽」は「常識的あるいは平均的にいい」ものだが所詮「形のいい箱庭的」なものであり、「旺盛な成長を意味しない」。
実はこれは、若き日に読んだ、矢内原忠雄の言葉である。「盆栽」とは言いえて妙である(「人間形成について」:1958年)。若き医学生には、矢内原忠雄が語る如く「盆栽」的な「円満な」小人物に安んじるより、自らの潜在的な能力を「見つけ出し」、「発見して」、「引き延ばして」、「発達・発展」してもらいたいものである。「教育の本質と教育者の使命」(1958年)がここにある。
順天堂は「駿河台の丘の上」にあるが、筆者は、ここを医療の「盆栽」の住処から鬱蒼とした「森林」に変革しようというvisionに生きるものである。まさに医療の「大樅の林」(内村鑑三:デンマルク国の話)(1911年の講演)を夢見るものである。これこそ30年後の「お茶の水メディカルタウン」の青写真ではなかろうか。「世の改革者は、自らは改革されないで、改革されたところに住もうとする。よって、真の改革は出来ない」といろいろな分野で指摘される所以は、その殻を打ち破る意志が大事ということであろう。
先週は、2年ぶりにかつての「新渡戸会」のメンバーと語らいの時をもった。話題が弾み、公開シンポの企画の話におよんだ。思えば、国連大学での2000年の「武士道発刊100周年」を記念するシンポ、2004年の「5000円札さようなら」を記念するシンポが筆者の脳裏に浮かぶ。一方で、「これからは何をするのにも困難な時代ですが、一度聞いて面白かった、では済まないので、明確な目的意識が必要だと思います」という意見もあり、「シンポジウムの根拠」を再確認する時でもあった。今年は「教育」をテーマとした「未来への架け橋」が時代の要請ではなかろうか?
まさに、「新渡戸稲造」の「知恵」や「教養」にも学び、時代を的確に見据える時である。
縁あって、映画プロデューサーの方と知り合いになり、作品のビデオを頂いた。先日お目にかかった際、「吉田富三の生涯をぜひ映画化してください」と言ったが、半ば以上は本気である。ご長男の吉田直哉さんは元NHKのプロデューサーであるが、「まあ無理と思いますが宜しくお願いします」と仰せられた。ますます本気になった。映画化されることで具象化したイメージが喚起され、最近の「がん対策基本法」の方向性、「医学教育」の在り方、「医療問題」の議論にも寄与するところ大であろうと思うからである。まさに、「吉田富三の温故創新」である。個人的には、お茶の水にあり、現在閉鎖状態であるが、吉田富三の研究生活の「舞台」であった「佐々木研究所」の再興でもある。
抽象的に述べてもわからないことが、喩えなどで具象的に語るとすぐに理解できることが多いものである。先日もある「プロジェクト」の戦略会議において「盆栽になるなかれ」と言った。その心は、「盆栽」は「常識的あるいは平均的にいい」ものだが所詮「形のいい箱庭的」なものであり、「旺盛な成長を意味しない」。
実はこれは、若き日に読んだ、矢内原忠雄の言葉である。「盆栽」とは言いえて妙である(「人間形成について」:1958年)。若き医学生には、矢内原忠雄が語る如く「盆栽」的な「円満な」小人物に安んじるより、自らの潜在的な能力を「見つけ出し」、「発見して」、「引き延ばして」、「発達・発展」してもらいたいものである。「教育の本質と教育者の使命」(1958年)がここにある。
順天堂は「駿河台の丘の上」にあるが、筆者は、ここを医療の「盆栽」の住処から鬱蒼とした「森林」に変革しようというvisionに生きるものである。まさに医療の「大樅の林」(内村鑑三:デンマルク国の話)(1911年の講演)を夢見るものである。これこそ30年後の「お茶の水メディカルタウン」の青写真ではなかろうか。「世の改革者は、自らは改革されないで、改革されたところに住もうとする。よって、真の改革は出来ない」といろいろな分野で指摘される所以は、その殻を打ち破る意志が大事ということであろう。
先週は、2年ぶりにかつての「新渡戸会」のメンバーと語らいの時をもった。話題が弾み、公開シンポの企画の話におよんだ。思えば、国連大学での2000年の「武士道発刊100周年」を記念するシンポ、2004年の「5000円札さようなら」を記念するシンポが筆者の脳裏に浮かぶ。一方で、「これからは何をするのにも困難な時代ですが、一度聞いて面白かった、では済まないので、明確な目的意識が必要だと思います」という意見もあり、「シンポジウムの根拠」を再確認する時でもあった。今年は「教育」をテーマとした「未来への架け橋」が時代の要請ではなかろうか?
まさに、「新渡戸稲造」の「知恵」や「教養」にも学び、時代を的確に見据える時である。