新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』

2017年12月13日 | 本・新聞小説

この本を教えていただいたのは、サークルの会話の中に出てきた言葉からです。主人公は沈壽官で、そのタイトルがとても心を惹きました。秀吉の朝鮮出兵と沈壽官に至る関係は悲劇としてのマイナスイメージがあったからです。
月曜の「鶴瓶の家族に乾杯」で尋ねた家で沈壽官作のぐい飲みがでてきて、そこに沈氏の声の出演場面がありました。たまたまこの本を再読中だったので、この偶然に喜び、素晴らしい本を記録して残しておきたく思いました。

今から14年前に、韓国の水原(スウォン)の古都と利川(イチョン)の焼き物を訪ねようとハングル語もわからないままに4日間の旅をしました。
   
利川の「海剛陶磁美術館」で、古代から現代の素晴らしい作品群の展示を見てスタッフの女性に質問したときのこと。
こんなに素晴らしい陶磁器があるのに、今はなぜ金属の食器を使うのか尋ねた時に、「秀吉が全部日本に連れて行ってしまったからです」と実に冷たい態度と言葉が返ってきました。敵とみなされている感じがしました。相手の感情を無視した自分の愚問、しっかりとした歴史認識をしていない自分の甘さを恥じ入り、その光景がずっと心に澱のように溜まっていました。しかし、この本を読んで心の中の澱が少し澄んだように思います。

*゜...あらすじ ...*:.::.*゜:.::.*゜

司馬氏は京都のある寺の庭で一片の茶碗のかけらを目にし、同席していた人の「薩摩の苗代川の焼き物では」という言葉を耳にします。
そして20年の月日が経ち、鹿児島の空港でひょんなことから苗代川を思いだし、出発までの時間を利用してそこに向かいます。

苗代川は秀吉の朝鮮出兵の折に捕虜として日本に連れてこられた朝鮮人の村でした。そこで14代沈寿官と出会います。「どの程度この村には三世紀半前の朝鮮が残っているか」が司馬氏の関心でした。
その後、日が経つにつれて『沈寿官氏と苗代川の一種神寂びた村のたたずまい』が司馬氏の脳裏に増幅し小説を書こうと思いたちます。

18世紀の江戸、医家の橘南谿が憧れていた苗代川に旅をしています。そのとき薩摩藩が苗代川の民に母国(朝鮮)どおりの暮しさせ、年貢を免じ、士礼を持って待遇していることに感じ入ります。
そこで村の荘官に「もう朝鮮のことなど思い出されることもございますまい」と尋ねると「さにあらず。…このように厚遇を受けているにも関わらず、人の心は不思議で、帰国いたしたき心地に候…故郷忘じがたしとは誰人のいいけることにや」と語りおさめました。

慶長の役の折、薩摩は沈姓等70人ほどの男女を捕虜にしましたが、突如の秀吉の死で困難と混乱を伴う撤退をした折に、奇妙なことに一部の陶工たちは船団を離れ漂流して、翌年薩摩半島・串木野の浜に漂着したのです。
折からの関ヶ原の戦いで、半ば放っておかれた状態で島平で3年ほど窯を築いて生活しますが、現地民の迫害を受けさらに奥に進みます。
そこで見つけたのが、どこか故郷の南原(ナモン)の土地に似た苗代川でした。近くの倭人は心優しく両三年過ごすうちに、漂着民のことがようやく島津藩主の耳に入ります。

そのころ、鹿児島城下では別ルートで来た相当数の韓人を高麗町に住まわせていました。藩主は城下に住むことを命令しますが、長老は高恩に感謝しながらも頑固に拒否します。
朝鮮を裏切って薩摩についた朱嘉全とは居住をともにしないこと、故郷を偲べる東シナ海の見える丘に住みたいことの理由が許されて苗代川に定着することになりました。
土地と屋敷と扶持を与えられて、彼ら島平の漂着組十七姓の身分が決定したのです。武士同様の礼遇でした。

活発な作陶活動が始まります。独自の白薩摩、黒薩摩を世に送り出しました。幕末の薩摩藩は十二代沈寿官を中心に洋食器も作り、長崎経由で輸出して巨利を得ました。パリ万博、オーストリア万博での出品も薩摩焼の評判をさらに高め、この時が苗代川のもっとも盛んな時でした。

島津義弘の頃から、この村は藩規として学問を強制され高い学力を誇ってきました。
明治以後の政府はかれらをただの日本人としましたが、姓と血筋だけが特異なものとして残り、その特異さが世間の目を惹いたのです。
旧制中学校では、十三代も十四代も、「朝鮮人」として暴力を受けたのです。
苗代川の住民はむしろ能力の高い選民として戊辰戦争、西南戦争と日本的でありすぎるほど日本人として生きてきました。それが、突如、日本人でない「朝鮮人」として暴力を受けたのでした。
韓国人の血、日本人の血を真剣に考え闘ううちに、14代はそれが誤りであることを突き止め、この世で生きていく姿勢を得たのでした。十三代沈寿官は京都帝大法学部へ、十四代は早稲田大学政経学部へ。

14代沈寿官氏が招かれて渡韓した時に、ソウル大学で講演をしました。
『韓国の若者は誰もが口をそろえて三十六年間の日本の圧政について語ります。もっともであるが、それを言いすぎることは若い韓国にとってどうであろう。言う事はよくても言い過ぎるとその時の心情は後ろ向きである。新しい国家は前へ前へと進まなけばならないというのに・・・・・・あなた方が三十六年を言うなら、私は三百七十年を言わねばならない。』
この時、沈氏の言葉は学生たちの本意に一致しているという合図を歌声にして湧き上がらせました。
この言葉を日本人が言ったとするなら学生は反発したでしょう。しかし沈氏が何者であるかを学生はすでに知っていました。学生たちは沈氏へ友情の気持ちを込めて歌ったのでした。

沈氏は壇上で呆然となり涙が止まりません。しかし背負うべき伝統の多すぎる沈寿官氏は「ここで薩摩人らしく振舞おうという気持ち」が反射的に起こり、涙を冗談に変えようとします。友人の間ではもっとも薩摩人らしい薩摩人と認められているからです。しかしその感情は大合唱に飲みこまれてそのまま壇上で身を震わせていました。
二つの祖国・・・、いつの時代も難しい命題です。私は、沈寿官氏が心の奥にずっと祖国から引き離されてきた悲しみと恨みを持っているように感じていましたが、沈氏の人柄や人物像を知り、何かホッとしたような救われた気持ちになりました。
司馬氏にしては60ページほどの短編ですが、じっくりと心にしみわたる余韻のある内容でした。


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