蓬莱の島通信ブログ別館

「すでに起こったことは、明らかに可能なことがらである」
在台日本語教師の東アジア時事論評あるいはカサンドラの眼差し

なぜ「日本国」は衰退するのか2ー2:奴隸制社会を支配する無能なキャリア

2012年04月19日 | 20110311東北関東大震災と政治
(写真:前線で部隊とともに指揮するグデーリアン将軍、日本帝国の卑怯な軍事官僚とはまさに正反対であった。)
1.崩壊前夜の「日本国」
 4月のはじめ台湾の清明節の休みを利用して、日本に一時帰国した。今年の1月に帰ったときも同じだったが、テレビを見ていて2つ以前とは違う徴候を見付けた。
(1)大地震と大津波襲来の現実
 2011年に帰国したときはあまり見かけなかったが、今年1月に帰国したときはNHKや民放の奥様向け番組で巨大地震と津波の検証を繰り返し流していた。4月に帰ったときも、すべてのニュースで同じ話題を流すようになり、3月に出た南海トラフ巨大地震のニュースが繰り返し流されていた。津波の予想も20メートルを超える可能性のある地域が太平洋岸を中心に大幅に増えた。

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最大津波34メートル 南海トラフの巨大地震で新想定 浜岡原発で想定超2012.3.31 16:25
 東海・東南海・南海地震が起きる南海トラフ(浅い海溝)の巨大地震について内閣府の検討会は31日、3つの地震が連動する最大級の津波と震度の新たな想定を公表した。津波を起こす地震の規模はマグニチュード(M)9・1となり、津波高は高知県で最大34メートルと推定。震度7の強い揺れの範囲も約20倍に拡大するなど従来の想定を大幅に上回った。停止中の中部電力浜岡原発(静岡県)の津波高は想定を超える21メートルと予想され、新たな安全対策を迫られる。
 津波高は静岡県から紀伊半島、四国の太平洋岸で20メートル以上となり、高知県黒潮町で最大の34・4メートルに達する。九州東部は約15メートルで、関東でも東京・新島で29・7メートル、神奈川県鎌倉市で9・2メートルと推定した。
 国の中央防災会議による平成15年の想定と比べ、津波高が10メートル以上の自治体は9倍の90市町村、20メートル以上はゼロから6都県23市町村に増えた。
 東海地震の想定震源域に位置する浜岡原発の津波高21メートルは東日本大震災後、経済産業省原子力安全・保安院が電力各社に指示した緊急安全対策の水準(15メートル)を上回る。同原発で建設中の防波壁(18メートル)も超えて敷地内に浸水する高さで、安全対策の抜本的な見直しが不可欠になった。
 瀬戸内海に面する四国電力伊方原発(愛媛県)では3メートルで想定を下回った。
一方、震度7の地域は兵庫、香川、愛媛、宮崎の4県を新たに含む10県153市町村に増えた。静岡、愛知、三重、高知の各県で増加が目立ち、特に愛知は名古屋市が新たに含まれるなど都市部で大幅に拡大。関東は横浜市で震度6弱、東京都心で5強と予想した。
 検討会は大震災で想定外の巨大地震と津波が起きた反省を踏まえ、同様の海溝型地震が起きる南海トラフの想定を見直してきた。トラフ付近で震源断層が大きく動き、津波が巨大化する大震災タイプの津波断層域(M9・1)を新たに導入したほか、断層面を東西方向や陸側に広げ、強い揺れを起こす強震断層域を従来のM8・7からM9・0に上方修正した。
 新想定を受け中央防災会議は、6月をめどに死者数や家屋倒壊などの被害想定を新たに作成。年内にも住民の避難を軸とした防災対策をまとめる。15年の被害想定は死者2万5千人、全壊90万棟、経済被害81兆円としたが、これを上回る公算が大きい。
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 日本列島を今後襲う自然災害について、日本社会はなるべく正面からそれを捉えようとし始めたと言える。今までとは違う対応を始めたと言えよう。これはプラスの変化である。

(2)狂気の原発再稼働
 しかし、日本国の支配階級は白痴化している。こうした危険を指摘しながら、同時に原子力発電所を再起動させる準備をしている。「気違いに刃物」とはよく言ったものだ。今の民主党政権はまさに「薄らbakaに原子炉」「能なし白痴にウラニウム」である。「日本国」の支配階級の白痴度はますます上がってさらに悪化している。「病膏肓に入る(手の施しようがない)」とはこのことだろう。

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<大飯原発再稼働>「これで十分」 福井・原子力委員長毎日新聞 4月6日(金)2時40分配信
 原発の再稼働を巡り、野田佳彦首相と関係閣僚による5日の会合で示された新たな安全基準案の骨子について、福井県に技術的な助言をする県原子力安全専門委員会の中川英之委員長(福井大名誉教授)が同日、毎日新聞の取材に応じ、「私自身はこれで十分だと思う」と答えた。同委員会は、県が関西電力大飯原発3、4号機の再稼働の可否を判断する際、政府が提示した安全基準を審査する。西川一誠知事や県議会は同委員会の意見を尊重するとみられ、委員会で「妥当」と判断されれば、「同意」への手続きが急速に進むことも予想される。
 中川委員長は、この日示された基準案の骨子について、「これで一応、原発の安全性は確保されると思う」と評価した。その上で、「経済産業省原子力安全・保安院が示した30項目の安全対策を判断基準にするなら、『これまで達成すれば安全だ』と判断できるものにしないといけない」と指摘し、基準の数値化を求めた。
 県は、再稼働の要請を受けた場合、同委員会と県議会、地元おおい町の意向を聞く方針だ。【佐藤慶】 .最終更新:4月6日(金)2時44分
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 現時点で国民の未来は二つの選択の道しかない。すぐに「気違い」支配階級から原子炉を取り上げるか、民主党政権の間の大地震と大津波発生時に2つ目、3つ目の原発大爆発が起こらないことを天に祈るか、これ以外に国土を守る道はない。
 前大戦の時の日本帝国も同じ様な状態だっただろう。しかし、道理に反した人間を天は最も憎む。日本帝国にはごく一部の例外を除けば、一度も天佑はなかった。天は「非道の帝国」を完全に見放していた。現在の「日本国」は天理に反している。よって、天佑は今回もゼロに等しいだろう。

原子力独裁者たちが断末魔の叫びを上げる日がやってくる
 ガンダーセン氏の東京の土壌サンプリング検査結果

 「日本国」に残された時間はもう多くはない。立ち上がるのは今である。

2.「日本帝国」滅亡の原因=無能軍事キャリア官僚・山本五十六の履歴
 2011年311大震災から始まった民族存亡の危機にあたって、日本帝国の滅亡から私達が学べることは多い。今回も国を滅ぼす「エリート人材」について考えてみよう。幸い軍人恩給利権でのうのうと暮らしている人が多い日本の白痴特権階級関係者と思われるグループが「山本五十六」の生涯をWikipediaに異常に細かく書いているので、逆にその経歴の問題点がよく分かる。日本社会を滅ぼす無能エリート支配階級の実態について以下山本五十六を事例に考えてみよう。

 なぜ世界有数の発展を遂げた明治から昭和の日本国家が世界史に残る無慘でみじめな大敗北による最期を遂げたのか?
 「アメリカのせい」「兵器のせい」という白痴的弁解が日本社会に蔓延しているが、日本帝国を襲った惨めな連戦連敗と滅亡の事実は、その破滅が共通して日本帝国の軍事官僚指揮官の完全な無能によるものだったことを示している。日本の白痴軍事官僚については、以下をご覧いただきたい。
 「死」の「收容所列島」日本を超えて2:深刻化する放射線物質汚染を乗り越えるには?
 「死」の「收容所」列島日本を超えて3:特権階級・腐敗公務員が跋扈する無法国家に次の天の怒りが
 偽計的資産売却により動き出す関西遷都計画(前)
 なぜ「日本国」は衰退するのか2ー1:奴隸制社会・日本から抜け出す道/地方の試行錯誤

 こういう白痴に近い人間が支配階級を形成し、その代表格である山本五十六が「太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから、海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる」状態だったからこそ、日本帝国は第二次大戦で完全に敗北し地上から完全に消滅したのである。
 問題は何がこうした白痴支配階級を大量に育てていたのかという問題である。

(1)日本の宿痾=学歴による任務不適格者の特権階級化
 その答えは山本五十六の履歴に書かれている。
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山本五十六
明治
1905年撮影1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市東坂之上町3丁目付近)[1]で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる[2]。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた(母親も45歳と高齢だった。これより山本姓に改名するまで「五十六」と表記する)[3]。当時は高野五十六。長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業。中学生時代に10歳年長の甥である高野力が病死、両親は「五十六が高野力に代わってくれれば」と発言し、五十六のトラウマとなったとされる[4]。既に軍人を目指し、「武士の家の子は武士になる」と語っていた[5]。五十六の兵学校志望は、父の妹の嫁いだ野村貞海軍少将から海軍の話をたびたび聞いていたのと、兵学校を目指したものの病弱では無理と諦めた高野力の影響が指摘される[6]。1901年(明治34年)に海軍兵学校に200名中2番で入校(兵32期。兵32期の入校者は200名であったが、留年した生徒が15名加わり、215名で教育開始された)[7]。同級生に塩沢幸一、吉田善吾、嶋田繁太郎、堀悌吉など[8]。在学中に堀と親友になった[9]。
日露戦争中の1904年(明治37年)11月、海軍兵学校を192名中11番で卒業(兵32期)。[10]、少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船する[11]。1905年(明治38年)1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の日本海海戦に参加する[12]。この海戦において、公式記録や五十六本人の手紙によれば「敵砲弾の炸裂」により左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う[13]。なお旧海軍関係者の間で負傷の原因は、「日進」の前部砲塔における砲身内早発である可能性が指摘されている[14]。負傷時に着用していた軍服は、太平洋戦争勃発直前に山本から故郷の博物館に寄贈された[15]。左腕切断の危機から回復した五十六は[16]、軍人として順調に出世。防護巡洋艦「須磨」に5ヶ月、戦艦「鹿島」に5ヶ月、海防艦「見島」に4ヶ月、駆逐艦「陽炎」に4ヶ月と、各艦に勤務する[17]。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校普通科学生として16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受けた[18]。卒業後、駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦「阿蘇」乗組みを経て三等巡洋艦(練習艦)「宗谷」に配属となる[19]。鈴木貫太郎宗谷艦長(後、総理大臣)は、同艦分隊長時代の五十六について後年回想している[20]。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行い、井上成美、草鹿任一、小沢治三郎、鮫島具重を指導した[21]。1909年(明治42年)にアメリカに駐在、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる[22]。この時生徒として山本から教えを受けた井上成美によれば、兵器学講座担当であった[23]。
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 この出生から30才頃までの山本の経歴を見るだけで、実は明治期からすでに1945年の日本帝国の滅亡は決まっていたことではないかと推測できる。理由は、この時期の、国家をリードする人材育成の完全な失敗である。人材のない近代国家が存続できる可能性はない。人材育成の失敗理由は赤で示したところで、何が問題かお分かりだろうか?
(1)無意味なランキング・序列化
 一般に、私達のような下賎な市民は義務教育から大学教育のクラスの名簿や成績記録、ひどい場合には統廃合で卒業記録すら残っていないことが少なくない。奴隷に過ぎない私達下賎な庶民の学歴など、「日本帝国」の支配階級がそのまま残った「日本国」では、どうでもよい情報だからである。私達のような奴隷など彼らにとっては蟲けら以下の存在である。
 しかし、100年以上も前の軍学校では、こうした記録(入学年度、在学生名簿、成績、留年等々)が今でも詳細に残されている。なぜ残してきたのか?理由は簡単で、成員を序列化(恩給ランキング化)するためである。序列は「○期」という入学年度と、その中での順位(200名中2番で入校等)で決まっていて、軍事官僚関係者にいつもこうしたランキングが書いてあるのは、それが軍事官僚の序列を示していたからである。特権を与える順番が決まるからこそ、期別と成績順位は関係者の間でずっと有意義な情報=階級決定情報として生きてきたのである。
 これから見ると日本帝国の軍事官僚組織は、最初からあまりにも無意味で馬鹿げた前提で作られた組織だったことが分かる。入学年度や学校の成績が、いったい人間の能力、特に軍人のマネージメント能力や指揮能力のどこに関係しているというのか?こんな無意味な組織原理で指揮官を育成していたからこそ、世界史上希に見るあまりにも多くの無能で非道な指揮官を輩出させてしまったのである。いわば当時の軍学校は、テストの点数しかとれない、バカの陳列館、無能の博物館、白痴の展示館のようなものだったと言えよう。こうした「期」制が何をもたらしたか、以下に当時の「飼育」記録が詳細に出ている。

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海兵32期
元帥海軍大将:山本 五十六
海軍大将:塩沢 幸一 嶋田 繁太郎 吉田 善吾
海軍中将:井上 継松 大野 寛 河村 儀一郎 鈴木 義一 新山 良幸 野辺田 重興 堀 悌吉 前原 謙治 松下 薫
和田 信房 和波 豊一
海軍少将:太田 質平 片山 登 木田 新平 相良 達夫 柴山 司馬 瀬崎 仁平 武田 維章 富岡 愛次郎 長井 実
広田 穣 増田 乙三郎 松本 忠佐 三戸 基介 御堀 伝造 山内 豊中 山口 清七 吉武 純蔵
海軍大佐 池田 武義 井上 桓征 田子島 茂利 城 圭次
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 この中で戦死者は何名かご存知だろうか?将官、佐官クラスがぞろぞろいる中で、滑稽なことに戦死者は山本ただ一人である。「飼育」と書いたが、この言葉に抵抗感を持たれるであろう。しかし、こうした記録を見ると、私は「こんな無用の人間になぜ指揮や恩給を」と思わざるをえない。やりきれない怒りを覚える。履歴から分かるように、32期の将官佐官クラスの大半の人物は日露戦争の頃を除けば、誰一人として20世紀前半の実際の戦場を知らなかった。ここに出ているのは官僚の経歴ではあっても、この中で軍人の経歴らしい戦歴を持っている人物はほぼ皆無である。
 そして、こうした軍関係者の多くは戦後もずっと軍人恩給をもらってのうのうと生活し続け、中には昭和50年まで生きていた和波豊一の例もある。こうして軍学校出身者は在職中はもちろん、国が滅んでからも「日本国」の税金を浪費してきた。遺族は今も恩給をもらい続けているに違いない。
 軍人恩給(?)受給者が死亡した場合の遺族年金について
 日本帝国軍人とは、まさに国家に寄生する有害無益な蛆蟲の集団である。軍学校は文字通り、国家の寄生蟲養成機関だったのである。
 軍人恩給は生きていた
 今、頭の悪い保守派の人々(ものの分かった人は別だ)が叫んでいるように「戦前は武士道云々」というなら、「飼育」の大恩を受けた以上、当然みな「日本帝国」滅亡と共に自殺するか、進駐してきた米軍に切り込んで死ぬべきであった。しかし、誰もしていない。32期の将官で戦場で死んだのは、山本ただ一人である。主家滅亡と共に自殺しなかったのは「武士」としてあまりにも品性下劣、人間外の存在である。こうした軍学校出身者は文字通り品性下劣漢の見本市、日本人の恥の博覧会と言えよう。自分が人間だとでもまだいうなら、戦後社会に対して恥じて死すべきであろう。

 あまりに言葉が過ぎると言う方もいらっしゃるだろう。悠々と何も働かずに戦後を生きられたこうした軍学校出の蛆蟲に比べ、ほぼすべての都市を破壊され戦争で無益な血を流した故郷の人々を思うと、こんな国が長続きできるわけがないと痛感する。追加の資料をあげておく。以下は、海兵31期から34期までの卒業生の死沒年の記録であるが、戦死者は何人かお分かりだろうか?
 海軍兵学校卒業者一覧
 31期188名中25名(大半は日露戦争)、32期192名中2名、33期171名中8名、34期175名中10名で、合計726名中45名、戦死者はたった約6.2%である。みな前線を避け、危険を避けていたとしか言いようがない。病死や事故死した卒業生もいるが、大半は戦後も悠々と生き続けて特権を享受し続けた。こうした特権に任せた恩給利権による人物群の戦後の戦争肯定論、アメリカ悪玉論、兵器敗北論等の言い逃れの流布が、日本の歴史教育で左翼の台頭を許し、教育を崩壊させた元凶であり、311以後の日本でモラルハザードを惹起し「日本国」を崩壊させる原因となったと言える。日本帝国が滅び、「日本国」が今崩壊の瀬戸際にあるのは、偏にこうした腐敗特権階級の存在によるものである。戦死しない軍人が何を偉そうに、戦後社会を批判するのか?
 日本帝国の職業軍人の実態はまさに「武士道とは逃げることと見付けたり」であった。

(2)人間関係による人事
 第二次大戦期の日本帝国の軍事官僚指揮官は、陸海軍を問わず、その作戦と戦闘経過を見るだけで大半が無能で何の役にも立たない人物だったことがよくわかる。日本帝国の作戦はそのほとんどが研究しても何の役にも立たない失敗の見本ばかりである。が、なぜそうした人物がいつも指揮官、参謀になっていたのか?(1)と同じ理由で、「○期」の人間関係と成績で全部が決まっていたためだろう。山本の「兵32期」の中で、戦史に名が出てくるのは、ほとんど一般には知られていない「塩沢幸一(大将32期次席卒業)、吉田善吾(大将32期12位卒業)、嶋田繁太郎(大将32期27位)、堀悌吉(中将・32期主席卒業)」ぐらいである。つまり200名の中で、4名だけが特権的な扱いを受けて、何の戦功もなく大将になっていたということである。
 私は笑ってしまった。ほとんど戦争をしたことがない人間が大将?32期のほぼ全員が、少尉等の若い時期を除けば、まともに戦闘に参加した経験なしに、みな将官や大佐に昇格している。皆後輩を指導する立場なので、後輩達もみな何も実際の戦場を知らない上官に教えられた人間ばかりが、軍の中枢に集まっていたことが分かる。
 当時の「飼育」記録を見ると、やはり学校の成績か門閥がこうした序列に反映していたことが分かる。

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海兵32期 大将と中將
山本 五十六 新潟 海兵32期 (11/192) 海大14期
塩沢 幸一 長野 海兵32期 (2/192) 海大13期
嶋田 繁太郎 海兵32期 (27/192) 海大13期
(1915年海軍大学校13期卒。12月13日海軍少佐に昇任。1916年から1919年までイタリア大使館付武官後、主に軍令部に在籍、伏見宮博恭王軍令部総長の信任を得る)
吉田 善吾 佐賀 海兵32期 (12/192) 海大13期
井上 継松 岐阜 海兵32期 (8/192) 海大13期
大野 寛 愛知 海兵32期 (23/192)
河村 儀一郎 広島 海兵32期 (60/192) 海大14期
鈴木 義一 兵庫 海兵32期 (15/192) 海大14期
新山 良幸 和歌山 海兵32期 (65/192) 海大17期
(山本五十六の葬儀の時、同行した。)
野辺田 重興 東京 海兵32期 (55/192) 海大15期
(おそらく当時の支配階級学校だった海城中学校・高等学校の縁故)
堀 悌吉 大分 海兵32期 (1/192) 海大16期優等
前原 謙治 山口 海兵32期 (14/192)
松下 薫 茨城 海兵32期 (3/192) 海大14期
和田 信房 大分 海兵32期 (16/192) 海大14期
和波 豊一 三重 海兵32期 (50/192) 海大15期
(おそらく当時支配階級に流行した新興宗教「臼井霊気」の関係)
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 大将、中将の中には50~60番台もいるが、ほぼみな20位以上の成績で、大半は海軍大学の卒業生が中將以上の将官になっている。成績が中位で大将、中将の者は嶋田や新山のように特別な縁故のあった人間や、野辺山、和波のように支配階級に縁故の強い人間ばかりであろう。

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少将
太田 質平 新潟 海兵32期 (13/192)
片山 登 石川 海兵32期 (39/192)
木田 新平 香川 海兵32期 (36/192)
相良 達夫 佐賀 海兵32期 (68/192)
柴山 司馬 愛知 海兵32期 (42/192) 海大14期
瀬崎 仁平 岡山 海兵32期 (67/192)
武田 維幸 愛媛 海兵32期 (54/192)
富岡 愛次郎 東京 海兵32期 (20/192) 海大13期
長井 実 神奈川 海兵32期 (6/192)
広田 穣 新潟 海兵32期 (18/192) 海大13期
増田 乙三郎 神奈川 海兵32期 (17/192)
松本 忠左 佐賀 海兵32期 (141/192)
三戸 基介 山口 海兵32期 (41/192)
御堀 伝造 東京 海兵32期 (51/192)
山内 豊中 高知 海兵32期 (28/192) 海大15期
山口 清七 石川 海兵32期 (46/192)
吉武 純蔵 東京 海兵32期 (53/192)
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 少将止まりの人物は4名の例外を除いて海軍大学を出ていない、兵学校での序列の中以下のメンバーばかりである。比較的成績のよい者で少将どまりのものは、健康状態の関係か早世した者が多い。ここから言えば佐官止まり、尉官止まりだったメンバーが成績下位の100番台の者では大半だったと推測できる。こうした下級指揮官のメンバーでは戦死者も当然多かったであろう。
 この点からも、当時の軍の序列決定では、世渡りの上手な縁故のあるテストの答案を作るのが上手な人間=指揮官適格者という基準で、序列を決めていたことが分かる。日本帝国軍は、軍の組織論から言ってもまったく馬鹿げた史上最低の軍隊であった。

(3)判断力の欠如
 山本の経歴を見ると、基本的な判断力が欠如していたことがよく分かる。つまり、自分の明確な目的や信念がなく、その場の状況に影響されやすい人間だったのである。

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山本五十六
1920年代後半、米国滞在中の山本。右はカーティス・ウィルバー1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。米国の油田や自動車産業、飛行機産業に強い印象を受けている[32]。駐米海軍武官上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)の指導と影響が、航空機に着目するきっかけになった可能性がある[33]。
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 山本は、アメリカに留学して、簡単に表面的な機械文明に影響されている。知恵のあるヒューマンな人物なら、生産品ではなく、それを産み出す文化つまり大量生産の組織論や原理、工場での生産方法と教育を学んだであろう。実は、ドラッカーが書いているように敗戦後の日本はアメリカからそれを学んだのである。
 しかし山本は、日本の女性がブランドという名前だけでブランド品を買いあさったように、アメリカの文明を単純に物質文明の成果と捉え、それを産み出す文化と人を学ばなかった。まったく頭の悪い、底の浅い人間である。この資料から見ると山本は貧しい階層の人にありがちな、金欲、物欲に動かされた人だったようである。だから、「飛行機」という物体だけに関心を持ち、それを産み出す生産方式を無視したのである。その結果、その後の日本海軍は人的損害をまったく無視した特攻型の兵器(防御力ゼロの零戦や一式陸攻)ばかりを生みだし、あっというまに壊滅したのである。もし山本がキスカ島救出作戦を成功させた木村昌福少将のように「無益な殺生を避け人命第一」を作戦で考える人なら、日本軍の航空部隊はまったく違った機種で開発、編成されていっただろう。
 しかし、山本の金欲、物欲は、日本軍の構造を完全に誤った方向に導いていった。

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山本五十六
昭和
 航空と軍政
 1928年(昭和3年)3月に帰国後、8月から軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務め[44]、水雷学校での講義で将来の海軍は航空主兵となること、対米作戦では積極作戦をとりハワイを攻めるべきと発言している[45]。4ヵ月後に多段式空母「赤城」艦長[46]。着艦に失敗しそうになった飛行機に山本艦長自ら飛びつき、山口多聞中佐らと共に飛行甲板から落ちるのを防いだほど、航空に全力を注いだ[47]。1929年(昭和4年)11月、海軍少将に進級すると共にロンドン軍縮会議に次席随員として参加した[48]。海軍随員であった山本と山口多聞中佐は軍縮案に強硬に反対(エピソードは後述)、日本側代表は混乱している[49]。結局、外交団代表は山本の意に反して軍縮条約に調印。海軍士官学校同期生(第32期)クラス会では、適任ではなかったと予備交渉における苦悩を語っている[50]。失意の山本が海軍を辞めるという噂さえ流れたという[51]。だが山本は立ち直り、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言した[52]。この軍縮条約を巡って海軍内に艦隊派と条約派という派閥争いが生じ、山本を含めた海軍の人事に大きな影響を与えた[53]。
 1930年(昭和5年)12月、海軍航空本部技術部長につくと航空主兵を強力に推し進めると同時に、未熟だった日本海軍航空機の発展に尽力した[54]。外国機の輸入と研究に積極的であったが「外国機の輸入は我航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ。それは日本科学の試験台なのだ。若し国産機が外国機の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その替わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え」と技術者達を激励している[55]。山本の高い見識と指導力は、日本海軍の航空発展に大きく貢献した[56]。1933年(昭和8年)10月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」(塚原二四三艦長)に座乗した[57]。故郷長岡の希望者22名を「赤城」に招き、山本自ら艦内を案内したこともある[58]。
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 赤字の部分は主戦論者、軍拡論者の山本から見ると、目的が怪しい。一般人は兵士の命を気遣ったと誤解しているが、山本が惜しんだのは兵士の命ではなく、高価な戦闘機のほうだろう。つまり、こうした人より物を優先する下劣な体質が後の悲惨な敗北を惹起した一番の原因なのである。品性下劣な山本的体質が日本帝国を滅ぼしたと言えよう。
 こう書くと私が「左翼」「反日」の人間だと思う方も多いだろう。しかし、私は、山本とは違ったタイプの、この時代の日本人がたくさん居たことをよく知っている。だから尚更、軍事官僚の非人間性、人間としての下劣さが目に付くのである。
 総括:NHK「ジャパン・デビュー第1回」現象の考察─私たちの情報セキュリティーのために─
 総括:総括:NHK「ジャパン・デビュー第1回」現象の考察(続)─私たちの情報セキュリティーのために─

 戦後の宣伝で海軍は平和論者だったという嘘が流れているが、これも、まったくのデタラメで、山本は軍縮条約に反対する=日本の財政赤字に無関心で軍の拡大だけを願っている開戦軍拡論者だった。結局、赤字の暴論(補給や戦略の視点が完全に欠如している)のようにアメリカの表面的な力=航空兵力をまねすれば、アメリカと戦えると山本は簡単に見ていたのである。
 また青字の山本の誤った指導で、日本軍機は敗戦の大きな理由になる最悪の欠陥をかかえることになった。つまり、物質優先人命軽視というベースの上に、国産機へのこだわりで海外の大きなエンジンが使えなくなってしまったため、防御を犠牲にせざるをえなくなったのである。同時に、山本がアウトレンジ戦略=先制攻撃戦略にこだわったせいで、零戦や一式陸攻のように防御力のまったくない戦闘機、攻撃機や、九九艦爆、九七艦攻のように兵器搭載と攻撃のみを考えた鈍足で防御力のまったくない「棺桶」航空隊ができあがり、奇襲効果のまったく認められない普通の戦場では、搭乘員と機体の損耗に堪えられなくなってしまったのである。つまり、山本の指導のせいで特殊な条件の戦場でしか戦えない「奇形」航空隊になっていったのである。

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1934年(昭和9年)9月20日、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として日本を離れた[59]。対米強硬派の加藤寛治軍事参議官は「…見送盛也、但シ山本少シク上ボセ気味、大ニ托スルニ不足…」と日記に書いている[60]。山本は政府の意を受けて「戦艦・空母の全廃、兵力量の各国共通制限設定」を主張し[61]、列強交渉団と互角に渡り合う[62]。ただし、「戦艦・空母の全廃」は会議の決裂を日本政府が意図したものであり、山本が出発する直前の9月7日にワシントン海軍軍縮条約の破棄が決定している[63]。このような状況の元で欧米と交渉中、盟友の堀悌吉中将が予備役に編入される大角人事があって山本は気力を失い[64]、また米国も条約締結について冷淡であり、結局予備交渉は中断した[65]。堀への手紙で山本は日本の対外強硬論への不満と苛立ちを語り[66]、また愛人への手紙にも「自分がただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして」と述べ、「誠に不愉快である」と心境を明かしている[67]。1935年(昭和10年)2月、シベリア経由で日本に帰国、東京駅に降りた山本を大角岑生海軍大臣、広田弘毅外務大臣、一般人多数が出迎えた[68]。山本は海軍を辞める意思を持ったが、堀に慰留された[69]。山本はしばしば故郷長岡で休養し、母校の学生達と交流する。第二次ロンドン海軍軍縮会議に赴く永野修身軍事参議官から随行するよう要請されたが、先の予備交渉で懲りた山本は固辞した[70]。
同年12月、海軍航空本部長に任命される[71]。横山大観から絵の呈上の申し出があった際には、全力で勤務にあたるため芸術にひたる余裕なしと述べて断っている[72]。折りしも戦闘機無用論と空軍独立論が盛んとなっていた[73]。特に空軍独立論について、山本は日本陸軍が主導権を握ることを懸念して強硬に反対した[74]。のちに太平洋戦争の島嶼戦において、陸海軍航空隊の指揮権を統一する提案が出た際も、一貫して反対している[75]。
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 山本の品性下劣さは、自分の欲望をコントロールできないという大きなマイナス面と表裏一体であった。それが、外交交渉の席での完全な無能の露呈となり、また、私生活の乱れ(赤字:愛人を作る余裕があるなら仕事をするべきだ!!)に繋がった。明治期の困難な交渉を切り抜けた金子賢太郎などと比べると、山本の無能さと無軌道さが際だつ。しかも、愛人は持ちながら芸術は軽蔑するという偽善者(青字)で、こんな低劣な人間(現在言えば、菅直人と非常によく似ている)が最高司令官になったのは日本帝国支配階級の人材の欠乏をよく示している。

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この頃、欧米列強は新世代戦艦(ポスト条約型戦艦)の開発・建艦を一斉に開始しており[注釈 1]、日本も大和型戦艦の建造計画をたてる。山本は大西瀧治郎航空本部教育部長と共に反対論を唱え、艦政本部と対立した。山本の航空主兵論と中村良三(大将/艦政本部長)の大艦巨砲主義論の対立は結論が出ず、伏見宮博恭王軍令部総長の仲裁で1936年(昭和11年)7月に高等技術会議で大和型2隻の建造が決定された[76]。なお大和型と同時にマル3計画において3万トン級正規空母翔鶴型航空母艦2隻の建造も決定している。
同年2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った鈴木貫太郎侍従長のために医者を手配している[77]。岡田啓介総理大臣の救出にも米内光政横須賀鎮守府長官と共に関わったとされる[78]。二・ニ六事件における米内の対応を山本は高く評価し、後日永野修身海軍大臣が辞任する際、山本(海軍次官)は米内を後任海軍大臣として推薦している[79]。
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 海軍部内で、路線の対立と言われる論が戦後も山本を英雄視した海軍擁護論の中でたびたび出されたが、大艦巨砲主義と航空艦隊主義は実はまったく矛盾せず、二つを対立させたのは山本を筆頭に当時の海軍指導部の頭が悪すぎたためである。結局、大艦巨砲主義と航空艦隊主義が対立したのは目的のない建艦を進めた=基本戦略を検討しないで物質(攻撃兵器)ばかりを優先した結果である。もしアメリカ軍と戦う気が本当にあれば、戦艦部隊を盾にして前に出し空母を「砲兵」として援護に使うなどのアメリカ式の作戦により、補給が楽で基地航空隊の援護も受けられる日本近海での艦隊決戦も、真珠湾攻撃などまったく無意味な先制作戦をしていなければ可能だった。この致命的な論戦自体が当時の軍事官僚の白痴度をいかんなく示している「バカの壁」だったのである。
 結局、日本帝国が先の大戦で悲惨な敗戦、滅亡に至った原因は、山本のような無能で品性下劣な人間が大量に上層部を占めるという誤った人材育成方法と登用方法にあったと言える。

3.新しいものを産み出すために
 ヒトラーの無謀のために日本帝国と同様の悲惨な敗北で滅亡したとは言え、ドイツ軍が戦史上に残した画期的業績は決して消えることはない。虎は死してなお皮を残すだった。失敗の見本にこそなれ、世界中から笑いものになるしかない日本帝国の白痴軍事官僚とはまったく違っている。

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 ハインツ・グデーリアン
ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian, 1888年6月17日 - 1954年5月14日)は、第二次世界大戦中のドイツ第三帝国の軍人。第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親(発案と部隊育成)であり、またそれを実践(実戦部隊の指揮)した野戦軍指揮官。最終階級は上級大将。かつてはグーデリアンとも表記された。
 典型的なプロイセンの武人といった印象が強く、ユンカーではないが高潔な人柄で尊敬されている。一方で同僚や上司などにも直言することから、受けが悪かったのも事実である。マンシュタインのように無能から程遠い人物とすらソリが合わない事が多々あった。(ドイツ装甲軍団 : グデーリアン将軍の戦車電撃戦:サンケイ出版 より)。
 熱狂的なナチではなかったようであるが、ヒトラー個人には自身の意見(装甲部隊の創設とマンシュタイン・プラン)を受け入れられたことから、良い感情をもっていた。大戦後半の、取り巻きの影響などで前線視察などを行わなくなったヒトラーについては批判しているが、回想録ではヒトラー個人には大きな批判はしていない。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を起こした反ヒトラー派の将校に対しても回顧録で批判的な見方を示している。ただし、現役時のグデーリアンは、ヒトラーに対して何度も直言している。
 逆に装甲師団創設期の参謀総長であるルードヴィヒ・ベックに対しては慎重すぎるとあまり好意的ではない。ベックは戦車の対戦車攻撃力の重視や機械化歩兵師団の創設などの面ではグデーリアンと意見を同じくしていたが、部下の参謀たちの保守的な意見をグデーリアンに伝えなければならない場面も多かったため、必要以上に反発を受けてしまった面もある。
 前線を指揮車輌で走り回った最初の指揮官であった。彼の装甲部隊理論は当時突出したものではなく、リデル・ハートなど複数の軍事評論家や軍人なども研究していた。グデーリアンの偉大なところは、そうした理論がドイツを含む全ての国で保守的な軍人から猛反対されていたのに対し、それを実践させてしまったところにある。また、通信畑にいたことから無線通信の重要性に気づいており、無線機を全車輌に装備させた。
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 守旧派に対して新しい軍事思想を確立するという立場はよく似ていたが、臆病でいつも最後尾にしかつかなかった山本(例:ミッドウエー海戦)には惨めな敗死と全軍壊滅の永遠の不名誉だけが残り、常に部下と共に前線にあったグデーリアンには現代機甲戦の創始者、実践者の不滅の栄誉が残った。まさに歴史の女神は人物を正しく評価している。その評価は、序列と人間関係だけで仕事をしていた山本と道理を重んじて自分を抜擢したヒトラーにすら批判をはばからなかったグデーリアンの行動の差に与えられたものと言えよう。

 惨めな奴隷を続けるか、あるいは、大きな不安はあっても自分の足で歩き出すか、どちらをとるかは個人の品性の問題だろう。再び私達の前に、山本かグデーリアンかの選択の時期がやってきた。私達のような下賎な庶民でも、いくら小さくとも自分の場がある。どちらをとるか立場は実は全く同じである。


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