the other half 2

31歳になりました。鬱で負け組。後悔だらけの人生だけど・・。

予告

2007-10-09 22:01:12 | 鬱病日記
ご無沙汰しております。
桐原です。

長期間、放置プレイ状態だったこのブログ。
近日中に再開致します。(予定)

新しいカテゴリーに「社会復帰編」を設けます。



再開と言えば、フジテレビ系ドラマ『医龍』の続編『医龍2』が始まります。

銀髪の敏腕麻酔科医、銀髪のアベサダヲ氏に再会できると思うだけでドキドキ。




実は京都から帰ってきたばかりの僕ですが、その話も今後機会があれば・・。




『the other half 2』


近日公開!
乞うご期待!!





全然関係ありませんが、往年の名作アニメ、『ヤッターマン』も再開するらしいですね。来春には実写映画も公開されるとか。これまた楽しみ。




「誤薬事件」、その後。

2007-08-14 03:37:49 | 鬱病日記
8月13日




今、僕の周りである変化が起きている。
今日はそのことについて書きたいのだが、一応このブログのテーマが「鬱病患者の日記」なので、前回の記事のその後についても書かなければなるまい。

と、いうわけで簡単に書きます。


処方箋とは異なる薬が処方されているのに気づいた僕は、直後に薬局に電話をかけた。しかし、土日で休み??なのか何度かけても呼び出し音が続くだけで誰も電話にでてくれない。

しかたがないので、一旦、その間違えられた薬の服用を止め、月曜日になるのを待って再びその調剤薬局に電話をかけた。

電話に出た受付のお姉さんに氏名を告げ、処方箋とは異なる薬が処方されているので確認したい旨を告げる。
保留にされた数秒後に電話にでたのは、あの「メガネばばぁ」こと、この薬を調剤した女性薬剤師。
ここの薬局の薬剤師はどこかの会社の社員が定期的にシフトを組んで派遣されているようで、日によって調剤してくれる薬剤師が違う。
運よく、この日は僕の薬を調剤してくれた女性薬剤師が勤務していたようだ。

僕は、処方箋の日付と内容、手元にある誤薬と思われる薬の名前を伝え、確認をお願いした。
すると、それまで幾分横柄な態度だった女性薬剤師の態度が豹変し、何度も謝罪の言葉をくりかえすではないか。
やはり、薬局側のミスだったようだ。

その薬剤師が直接医師に誤薬があった事実を伝え、今後の対応を改めて連絡するというので、一度電話を切ってその連絡をまった。

数分後にかかってきた薬剤師からの電話によると、医師は誤って渡された薬の種類を確認したあと、次回の受診日が二日後であることをあげ、今後の服用については、

「飲んでも、飲まなくてもどちらでもいい。」

と言ったとのことだった。



おいおいおいおい。


そんなんでいいのかよ!


しかし、主治医がそう言うのだから仕方ない。まぁ、僕の主治医なら確かに言いそうな感はある。

その後もその女性薬剤師は謝罪の言葉を重ね、正しい薬を自宅まで届けると言い出した。
しかし、主治医が言うように次回の受診は二日後だし、今更2週間分の薬を届けられても飲みきれない。それに主治医が「飲んでも飲まなくても・・・。」と言うのだから、こちらが心配したほどたいした影響はないのかもしれない。
僕は恐縮しきっているその女性薬剤師に、正しい薬の宅配は不要である旨を伝え、受話器の向こう側で平身低頭しているであろう姿を想像し、なんだか気の毒な感じさえしてきてしまった。
その後も何度も謝罪の言葉を繰り返し、その女性薬剤師との対話は終了となった。


二日後。


予約の時間の数分前に受付を済ませ、いつものようにL字型にソファが配置された個室の診察室で医師がノートパソコンを片手に診察室に入ってくるのを待つ。

ほどなくして現れた主治医は、まず誤薬の件についてお詫びの言葉を口にした。

僕の通っているクリニックと、その同じビルにはいっているその調剤薬局は資本的になんら関係がない。
それなのにまずはじめに謝罪の言葉から診察にはいるなんて、口でばかりCS(顧客満足)を唱えるわりには実態が伴わない、よくある企業のコールセンターの電話対応よりもすばらしい。
危機管理の点から考えても、広報活動(という表現が適切であるかどうかはわからないが)の点から見ても、この主治医の初動は満点である。

その後、主治医は僕に誤まった薬を飲んでいたあいだの状態と、現在の体調について聞き、特に大きな問題が起きてないことを確認するとこう言った。

「今回は誤まった薬を飲み続けてしまったわけですが、その後の経過を見る限り、悪い影響もでていないようですし、経過も良好な様子なので、このまま薬を変えてしまいましょう。」


おいおいおいおい。


僕の主治医は優秀なのか、そうでないのか本当に考えさせられてしまうことが多い。
主治医曰く、通常は一日6錠も服薬している薬を一度に他の薬に代えてしまうようなことは危険なので行わないが、誤まって渡された薬は、僕が薬剤療法の“柱”として現在飲んでいる別の薬の効果を高める効果を持っている薬であり、その事が結果的に良い方向に作用したようなので、このまま薬を代えちゃいましょう。ということだった。

結局、この誤まった薬が正規の薬になるのであれば、あの女性薬剤師もあんなに恐縮した声でお詫びの言葉を繰り返さなくても良かったのに・・。

診察を終えた僕は、処方箋を受け取り、その女性薬剤師が待っているはずの調剤薬局に向かった。
恐らく恐縮し、反省しまくっているであろう女性薬剤師のことを考え、主治医の言葉を伝えて少しでも安心してもらおうと思ったのだが、そこにいたのは見知らぬ男性薬剤師だった。

あの女性薬剤師は、今回の誤薬事件がきかっけ?で、そこの薬局での任務を解かれてしまったようである。

なんだか逆に、女性薬剤師のことが気の毒になってしまった。

その見知らぬ男性薬剤師は、前回、誤薬があったことを謝罪し(その言葉に謝罪の気持ちは全く見て取れなかったが)、とても慎重に、一つ一つの薬を僕に確認させるように確かめながら、袋におさめていった。

良かったんだか、悪かったんだかよくわからない結果になったが、心にのこったのは、あの女性薬剤師の泣き出しそうな謝罪の言葉だけだった。

今頃どうしてるんだろう。
元気だしてね。


間違っている。

2007-08-05 02:48:07 | 鬱病日記
8月4日



前回のブログの更新から今日までの間、僕は「精神障害者職業センター」(※以下、このブログでは「自立支援施設」と呼ぶ。)に2度、足を運び、主治医のいるクリニックで1度診察を受けた。

自立支援施設では、1回の面談で2時間、性格検査や各種の能力検査を行った。
なかにはIQテストのようなものもあり、昔、小学生の時にやらされたなぁ・・なんて思いながら問題を解いていくのだが、それができない。
あっという間に制限時間がきてしまう。
色々な種類の検査があるのだが、その中には簡単な算数の計算問題もあり、「二桁の数の引き算」が解けなくて頭が真っ白になったときには、相当ショックを受けた。

その他の軽作業的なテストでは、木枠の中に縦横規則的に穴のあいた二つの箱の一方から一方へ、その穴に刺さっている無数の「木の棒」を上下を反転させて埋めていく、というテストや、同じく縦横に開いた穴に金属製のピンと、ワッシャーと呼ばれる薄い円盤状の部品を組み合わせて穴にさしていくテスト、などというものもあった。

担当のカウンセラーに言われるまでも無く、僕の処理速度があきらかに遅いのは自分でも良くわかった。

「桐原さん、もう少し早くできますか?」

できねぇっつうの!これで一生懸命です!
これがうまくできるのなら、こんなとこには来てねぇよ。

僕の脳の機能の一部は完全に衰えてしまっている。



いくつかのテストの一つに、かの有名な「エゴグラム」が含まれていた。
エゴグラムは心理学の勉強をした人なら知らない人はいないというほど有名な性格分析法で、人の心を5つの要素に分解して、その人の性格を表現するものである。

(エゴグラムについてのわかりやすい説明はこちら。体験もできます。http://www.kojima-y.com/ego/ego01.htm)

結論から言うと、僕は「A」が異常に高く、反面「FC」が異常に低かった。他の要素は平均的な水準。ちなみに「A」、「FC」についての解説は以下を参照いただきたい。

A:事実に基づいて物事を判断しようとする合理的な大人の心です。データを集めて理論的に処理していきます。Aが強すぎると打算的で冷たい人間に見られます。

FC:自分の欲求のままに振る舞い自然の感情を表す自由な子供の心です。明るく無邪気で行動的です。FCが強すぎるとわがままで他人への配慮に欠けてきます。

(http://www.kojima-y.com/ego/ego03.htmより。他の要素の解説も載っています。本来は漢方系薬局のサイトの一部だが、なぜかエゴグラムについての詳細な解説がある。意図は不明。)

結果については、まぁ、そうだろうな、と本人も納得。



面談の相手はいつも決まった担当の方である。僕の担当はT橋さんという男性。恐らく30代半ばくらいだろうか。
ものごしの柔らかい方で、いつも丁寧な説明をしてくれる。
しかし、どこかたよりない。

エゴグラムの結果についての説明も、要領を得ず、何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
幸いにも僕は趣味でエゴグラムについて聞きかじっていたので、結果がプリントされたグラフを見て、なるほどねぇ、という感じだったが、何も知らない人が聞いたら多分何も理解できなかったと思われる。
どうやらT橋さんは、「カウンセラー」という肩書きの名刺は持っているが、心理畑出身の人ではないようだ。

じゃぁ、何者だ?
福祉系の人なんだろうなぁ。たぶん。

そのT橋さんとの面談はあと1回で終了する予定だ。
その最後の面談で、僕の社会復帰へ向けた自立支援プログラムが決まる。
具体的に何をさせられるのかまだ聞いていないが、まずは生活リズムを立て直すため、平日の13時~16時、この自立支援施設に通うことになるらしい。


面談の様子や、その内容については、診察の際、主治医にことこまかに説明した。
主治医はだまってそのやりとりをノートパソコンに打ち込んでいく。
ひとしきり、打ち終えたところで主治医は最近の僕の状態について尋ねてきた。

夜眠れないこと、朝起きられないことなどを伝えた。
主治医はまた黙々とノートパソコンの画面を見つめ、キーボードを叩いていく。

「夜中に・・眠れない夜に、たまになんですが・・、世界の誰とも繋がっていないような“孤独感”を感じて、物凄くいたたまれない気分になることがあります・・。」

僕のその言葉を聞いた瞬間、主治医はキーボードを叩くのをやめ、少し厳しい表情になった。
それが気のせいだったかのように、主治医の表情はすぐにいつもの表情にもどり、続けてほんの数秒キーボードを叩くと、ノートパソコンを膝上からソファの上に置き、僕の“孤独感”について精神療法的解説をはじめた。
(僕の通っているクリニックの診療室はどれもソファーセットがL字型に置かれた個室で、医師と患者は、対面して座らないように工夫されている。そこには一般診療科でみられるような医師専用のデスクはない。だから医師もソファーに座って膝の上においたノートPCを使い電子カルテを利用している。)

その時、主治医が僕にどのようなロジックで今の僕の心の状態を解説してくれたのかは忘れてしまったけれど、その説明の中で、主治医は僕の“孤独感”を“不安感”と言い換えていた。

孤独と不安。

孤独と不安は同義か?

否。

孤独であると不安になることがあるが、不安な人が皆、孤独であるわけではない。

孤独、孤立、孤高。

寂しいのはどれだ?

先生、僕は不安を感じているのだけれど、その不安は本体ではなくて、孤独感から派生した感情なんです。

精神科の臨床では、孤独と不安は同義なのかもしれない。
確かに、孤独を癒す薬は処方できなくても、不安を和らげる薬なら抗不安薬がある。
“抗孤独薬”は、ない。

実際問題として、不安感がおさまると、孤独な心も落ち着くかもしれない。
でも不安から解き放たれて、冷静になった心には、自分の孤独さ、寂しさを黙って見つめるもう一人の自分が生まれてしまう。


抗不安薬は、不安感を癒すが、孤独の輪郭をえぐりだしてしまう。

少なくとも僕の場合は。



ブログの更新をサボっている間、そんなことを考えておりました。



その日は院外薬局で、医師からの処方箋を渡し、例によって大量の薬を袋につめてもって帰ってきた。

それからもう5日ほど経過しただろうか。
なんとなく感じていた違和感。
毎回、毎日大量に薬を飲むので、気づかなかった。


僕に処方されているのは、「トフラニール」(赤い錠剤)を一日六錠。
でも、僕が今飲んでいるのは、「アナフラニール」(白い錠剤)。




薬、間違ってるじゃん!!!!!!!




薬局のメガネばばぁ、やってくれるね。


どちらも同じ精神科領域の薬だが、鬱病などの薬は調子が良くなったからと言って勝手に服薬をやめてしまうと、症状の“ぶりかえし”が起き、心の調子が以前にもまして悪くなってしまうことがあるのだ。
そのため、服薬している薬を変更する際も、慎重に従来の薬を減薬しながら、新しい薬を少しずつ足していく、という過程を踏む。

なのに今回の誤薬(ごやく:医療機関ではこう呼ぶ。)事件のせいで、ぶっつりと薬を飲むのをやめてしまったばかりか、違う薬を大量に飲み始めてしまった。

おいおいおいおい。

これで調子悪くなったら、お前のせいだぞ。


まぁ、自分も早く気付けよっ!って話なんですけどね。






今日、薬局に確認のために電話をかけたが、土日のためお休みらしい。
あのババァ・・・許さんっ。






涙の訳は

2007-07-21 01:43:57 | 鬱病日記
7月20日



今日は最初から調子が悪かったのだ。

それでも昼過ぎに起き上がり、ベットから這い出てキッチンに向かった。
ダイニングテーブルの上に何も用意されていないことを確認してから、冷蔵庫をあけ、赤いトマトを1つ手に取る。
ついでに牛乳パックも片手に持って、後ろでに冷蔵庫の扉を閉めると、先ほどとりだしたトマトを流水で簡単に洗い、そのままパクリ。
カップ1杯の牛乳を口にして、僕の朝食兼昼食は終了。

部屋に戻り、朝・昼分の薬をミネラルウォーターで一気に喉に流し込む。
あまりの量の多さに、喉が詰りそうになる。
あぁ、また食前薬を飲むのを忘れていたよ・・・。
これも二袋を一気に・・といきたいところだが、粉薬の漢方で量も多く、味も苦いのでこれは二回に分けて慎重に飲む。

僕は粉薬が苦手だ。

食事も面倒な時があり、サプリメントは手放せない。
カプセル一つで一日に必要な充分な量の栄養素を摂取できるようになる未来を想像したが、時代はまだ僕の想像に追いついてきてはいないようだ。

シャワーを浴び、身支度を整え、いつものリュックを肩から背負って街に行く。

いつものカフェで、いつものカフェラテを飲み、いつものように新聞を読む。


でも、どこかがおかしい。
体の奥、胸のあたり、いや、もっと奥のほう。

なんだか、寂しい。

あぁ・・これは危険な兆候だ。
“孤独発作”の前触れかもしれない。

僕はそのカフェでそれから3時間、道を行き交う人を眺めて過ごした。
通り過ぎる人の数だけ、僕の心の中は空っぽになっていく。

いつしか“寂しさ”は“孤独”に変わり、置き去りにされた僕は、冷え切ったカフェラテを飲み干して、その店をでた。

携帯はいつも握り締めている。
これが僕が世間と繋がっているための唯一の道具だから。
でも、滅多に鳴ることはない。
“電話の形をした時計”。

繁華街を徘徊し、あちこちの店を覗いてみるが、そのたびに僕の心は落し物をしていくようだ。
動くたびに心のなかが空っぽになっていく。

その空っぽになった心を捕まえて、頭の中のヤツが言う。
「お前の好きな、孤独な時間の始まりだ。せいぜい楽しむがいいさ。クククッ。」

落ち着かない。
座っていても、立っていても落ち着かない。
不安で、不安で仕方がないのだ。
誰かと繋がっていたい。
でも、僕の手の先に触れるものは何もない。

孤独が心を支配する。

駅のベンチで1時間、何もせずに座ってみた。

こんなに多くの人が行き交っているのに、僕に気づく人は一人もいない。


もう夜だ。


電車に乗ろう。

心の中に黒い雲が立ち込める。
その黒い雲の下で、小さな僕は、不安定な足場を行き来する。

何か繋がるものを求めて。
誰か手をつないでくれる人を探して。

居候中の母の家に着いたときには、ダムの一部が崩壊していた。
部屋に入るのと同時に眼から“水”が一滴流れ落ちた。

そこからはもう、とまらない。

眼からとめどなく流れ落ちてくるものは涙か?
もしかすると他の何かなのかもしれない。

知っているかい?
ヒトの体から流れ出た血は、ぬるっとしていて温かい。

自分の両手を真っ赤に染めて、膝をついて天を仰げば、誰かが気づいてくれるだろうか。

誰か、僕のこの赤く染まった手を握り返してくれないか。

いいや、だめだね、流れ出る血は滑りやすいから。

握られた手は、するりと抜けて、指先から離れていった。
自分の血で顔を染めたら、誰か気づいてくれますか。


僕は、嵐の中で泣いています。あたりを赤く染めながら。
滴る雫をペロリと舐めたら、錆びた鉄の味がした。


どなたか、涙を止める薬を分けてはもらえませんか?
孤独を埋める、泥人形はどこで手に入りますか?


ダリが描いた絵画のように、僕の胸には大きな穴が開きました。


そこに大きな風が吹く。
ヒュルリ、ヒュルリと泣きながら。

またしばらく、寒さに震えることになりそうだ。



それまでに、流れ出る血を止める何かを探さなければ。


それは、どこにありますか?
どんな形をしていますか?
どんな味がしますか?
どんな匂いを漂わせているのですか?



どなたかご存知ありませんか?



あぁ・・僕の“時計”も赤く染まってしまいました。
ボタンを押すたびに血が滲みます。



これじゃもう、どこにも繋がることはない。




僕は精神障害者。

2007-07-19 01:47:56 | 鬱病日記
7月18日



地上に通じる地下鉄の階段を上ると、果物のいい香りが流れてくる。一種類の何かではなく、たくさんの新鮮な果物の香り。


この階段を上りきると、すぐ右手に果実店があるはずだ。
正面の道路を挟んで右手にはドーナツショップ、左手には銀行、そして少し奥にはファーストフードの店がある・・。


その階段を上りきると、記憶にあるとおりの町並みが目の前に再現されていた。



懐かしい街。


10年前、僕はこの街に住み、この街にある精神科専門病院の閉鎖病棟で白衣を着て働いていた。
この地下鉄の入り口に広がる商店街は、離院(閉鎖病棟の入院患者さんが病棟から“逃げ出す”こと。患者さんなので“脱走”とは言わない。)した患者さんを探して、白衣のまま走り回った思い出のルートだ。

歩道が狭いのも、放置自転車が多いのも昔のまま。
変わったのはしゃれた料理店がいくつかできたくらい。

果実店を右手に見て道なりに進むと程なくして大きな交差点にぶつかる。
ここを左に曲がれば、あの病院につながる道。

でも、今日は曲がらない。
交差点をまっすぐわたり、2~3分歩いたところにあるオフィスビルに入る。
1Fのホールを抜け、エレベーターに乗る。
僕の手に握られたパンフレットには、このビルの5Fに目指す施設はあることになっていた。

エレベーターの扉が開き、すぐ右手にその施設はあった。


「障害者職業センター」


主に精神障害者の方を対象に、社会復帰へのお手伝いをする公的施設だそうである。
独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構なる団体の下部組織にあたるらしい。


1ヶ月前、2週間に一度通っているメンタルクリニックの主治医にあるパンフレットを見せられた。

「鬱病などで会社を休職された方を対象に、ゆっくり確実に復職までもっていくための専門の支援をしている機関です。利用されてみる気はありませんか?」

手渡されたパンフレットには、「復職支援(リワーク支援)」の文字と、なにやら数人の人物が作業や、ミーティングを行っている写真が掲載されていた。

はじめにこの話を聞かされたときは、「精神障害者向け施設」という看板に、かなりの違和感と若干の不快感を覚えた。
ただ、鬱病患者の休職からの復職プロセスを支援する団体は公・民問わず存在することは知っていたので、その制度自体に特に違和感を感じることはなかった。

僕はもう休職期間を終え退職してしまっているので今は無職だが、主治医が熱心に薦めることもあり、また「利用者の評判も悪くない。(主治医談)」そうなので主治医の顔を立てる意味でも一度この施設を訪れることにしたのだ。

施設へはその日のうちに電話で連絡をいれ、現在鬱病で通院中であることと、主治医からその施設を紹介されたことを伝えた。
電話にでた職員の説明によると、この施設の支援を受けるには一度「ガイダンス」を受ける必要があると言う。
また、リワーク支援を希望しているが、現在は既に退職済みであることを伝えると、「う~ん・・・退職済みの方ですかぁ・・・。」と難渋気味。
なんだか怪しい展開だが、とりあえず「ガイダンス」を受けてみてくれ、という職員の指示に従って一番直近に開催されるガイダンスに予約をいれた。

「ガイダンス」当日、会場に来ていた“障害者”の方は僕を入れて4名。僕以外すべての方が付き添いつきで、外見や付き添いの方とのやりとりから、おそらく統合失調症かあるいはそのほかの精神障害をもたれた方だと推測がついた。
僕は障害者の方を差別しているつもりは全くないのだが、正直なところ、彼らと同じ席につき、これから受けるかもしれない支援サービスについて、同じ説明を受けることに少なからず戸惑いを受けた。

やがて時間となり、無表情で小柄な女性が部屋に入ってきた。
やや小さな声で、これまで何十回と繰り返してきたと思われる決まりきった挨拶と、これから始まるガイダンスの進行方法及び概要について抑揚無く説明をした。

その後、誰からも質問が無いことを確認して、事前にそれぞれの机の前に用意されたカラー刷りのパンフレット数枚が手元に行き渡っているかを確認し、これまた抑揚も表情もない小さな声で説明をはじめた。

僕にはそれがまるで出来損ないの詩の朗読か、前衛演劇の一場面を見せられているような気がして、他の“聴衆達”を含めたこの空間が、現実世界のものではないかのように感じられ、自分が存在しているこの小さな空間に強烈な違和感を覚えた。

一通りの説明が終わったあと、次は個別の面談にうつると説明があった。
会場を出て、それぞれがパーテーションで仕切られた企業の商談スペースのような小さな空間に入るよう促されていく。

その小さな空間には四人がけのテーブルとイスが備えられており、僕の入った個室には既に女性の面接官が座っていた。
テーブルを挟んだ向かいのイスに座るよう促された僕は、素直に指示に従う。

「桐原さんですね?今回の面接を担当させていただく○○です。よろしくお願いします。」

明らかに僕よりも遥かに年下であるように見えるこの女性は、感情のこもった人間味のある常識的な挨拶をした。

どうやらこの人は出来損ないの詩を読んだり、前衛演劇を演じたりする人ではないようだ。

その女性は、見かけの若さをはるかに凌駕する仕事っぷりを見せた。
僕の現在の病状と通院状況、服薬している薬の種類と量やこれまでの病歴、鬱病を発症した経緯やその当時の職場環境や生活環境、及び現在の生活環境や普段の生活の様子まで、およそ必要と思われる内容について一つ一つ端的に、要領よく、適切な質問をした。僕が何かを語ると必ず相槌をうち、僕の説明が不十分であると補足的な答えを促す質問をした。

そんなやりとりが20分ほど経過しただろうか。

結論から言うと、僕は主治医から薦められた「リワーク支援」という援助を受けることはできないのだという。リワーク支援はあくまでも休職者向けのカリキュラムだから、というのがその理由だった。
その代わりに僕の現在の病状や医師の意見書をもとに考えられるサービスとして、「職業支援サービス」なるものがあると言う。
先ほどの能面の女性が朗読していたものと同じパンフレットに記されたそれは、精神障害者と思われる複数の男性がなにかの軽作業をしている写真が掲載されている。どうやらカリキュラムの一部を紹介したものらしい。その他の作業として説明された写真には、「バラバラにされたボールペンの部品の中から適切な部品を適切な数だけとりだして、1本の完成されたボールペンを組み立てる」作業を延々と繰り返すものがあるという。

ここまできて、僕は来るところを間違えたのではないかと言う最初に感じた疑問が確信へと変わった。

「ボールペンの組み立て作業」を例にあげ、どうも今の自分の病状や性質にあっているとは思えない、という感想を率直に正面に座っている担当者に訴えた。

しかしこの作業は、最初に主治医の指示で僕が受けることを希望していた「リワーク支援」でも行われるカリキュラムの1つなのだという。
また、目的は“できるだけ多くのボールペンを短時間に作成できるかを競う”などというものではなく、“どの程度の作業でどの程度自分に疲労がでてくるか”を客観的に確認するために行うのだとの説明も付け加えられた。

全くもって意味不明である。

ボールペンを完成させることに何の意味があるのかわからないし、だいたい普通の日常生活を送る健康な社会人だって、何時間もそんな作業を繰り返していれば誰だって疲れるに決まっている。

そして今の僕に適しているとして紹介された援助サービスの説明の最後にはカッコ書きでこう書かれていた。



(対象:精神障害者)



その日の面談はそこまでで終了し、この施設での援助を受けるかどうかは改めて主治医と相談してから回答する、と伝え施設を後にした。


その数日後、メンタルクリニックの予約診療の際、紹介された施設に行ってきたこと、リワーク支援は受けられないらしいということ、そのほかのサービスとして「職業支援サービス」なるものを紹介されたことを伝えた。

僕は主治医に率直な感想を伝えた。
他の精神障害者の方と一緒にボールペンを組み立てることが、今の僕に役立つとは到底思えない。
また、そのほかのメニュートして紹介されたSST(ソーシャル・スキル・トレーニング=生活技能訓練)やグループミーティングに関しても、かつての精神科病院勤務時代に“参加者”とは別の立場で関わっており、その“質”や“期待される効果”などについては、あまり良い印象をもっていないことも付け加えた。
SSTとは日常の生活能力が欠けた方に対して行う一種のリハビリのようなもので、精神科病院などでよく行われる。精神科ではお馴染みだが、著名な精神科医の中には「SSTほどくだらないものはない。全くの無駄。」と言ってはばからない人もいる。まぁ、この医者の発言は極端なものの一つだが。

僕の話を一通り聞いた主治医は、現在の多くの精神科で漫然と行われているSSTやグループミーティングなどについて問題があることは認めた上で、それでもその施設を利用する価値があると言う。

精神科病院でSSTなどが行われる場合、参加者は入院患者さんの比率に比例するように統合失調症(一昔前までは精神分裂病と言った。)などを患っている方が多い。僕は10年前の精神病院の現場しか知らないから、あまり勝手なことは言えないが、当時のそれは、はっきり言ってあまり意味のある行為には見えなかった。

やらせている側(医療従事者)も、やらされている側(患者さん)も、“やらされている”感たっぷりなのである。Dr.が指示するから仕方なくやっている。そんな感じなのだ。

僕の主治医はもっと辛らつに、精神科病院で行っているそれは、金儲けのためです。だからあんなふうに漫然とした雰囲気になるのです。と言い切った。

だがしかし、ここの施設の支援を受けることは、今の僕にとって悪くないというのだ。

理由は、まだ新しい施設であり、統合失調症などの比較的症状が重い患者さんなどの利用はまだ少ないと考えられること、また、僕の今の病状で優先的に解決されなければならないのが、昼夜逆転の生活を改め、生活リズムをもとに戻すことであること。そのためには、無理のない範囲で一定の場所に通って適切なケアや訓練を受けるのが有効であると考えられること、などをあげた。

まだ釈然としないままであったが、確かにこのまま2週間に一度通院していても生活リズムが元に戻るとも思えず、また、この1年、同居している母以外の人間とはまともに会話を交わしていないので、社会復帰のためにも集団の中でコミュニケーションをはかることは確かに良い影響を与えるかもしれない。

しかし、やはりあのパンフレットに載っていたボールペンを組み立てている精神障害者の方の写真と、十年前に経験した精神科病院でのSSTを行っている患者さん達の無気力さのイメージが先行してしまい、心のどこかでブレーキがかかる。

そんなこんなで結構悩んだが、支援プログラムの援助を受けるのは無料な上、自分に合わないと思ったらいつでもやめられる、ということだったので、ここは主治医の意見を信じてみることにした。

翌日改めてセンターに支援サービスを利用したい旨を電話で伝えた。
すると今度は、個別の支援プログラムを作成するために専門の相談員との面談と、いくつかの検査を受ける必要があるという。



やがて予約の日がおとずれ、冒頭で紹介した思い出の街を抜けた僕は今、個別面談を受けるために、その施設の前までやってきた。


窓口に立ったが誰も僕に気づいた様子はない。
しかたないので声をかけてみる。

「あの・・・すみません。」

何人かの職員が顔をあげ、一番近くにいた男性職員が近づいてきた。

「14:00から面談のお約束をしていた桐原です。」

男性職員は丁寧な応対で僕を、あのガイダンスで使われたパーテーションでしきられた小部屋で待つよう案内した。
程なく別の男性が現れ、僕を「面談室」なる部屋に入るよう促した。

ちょっとした会議室のような程よいスペースのその部屋で、大きなテーブルをはさみ改めてお互いに挨拶を交わした。

渡された名刺には、「障害者職業カウンセラー」の肩書きがあった。

僕はそこで約二時間の間面談を受けた。
正面に座った「障害者職業カウンセラー」からの質問は、前回の面談資料と主治医に書いてもらった「意見書」に基づき、現在の生活や病状の再確認と、今後の支援の方向性を話し合うものだった。彼は、熱心にメモをとりながら僕の話を注意深く聞いた。
いわゆる“カウンセリング”とは違い、彼と僕の話す割合は五分五分といったところだ。

今後、支援を受けていくにあたって質問は無いかと問われたので、僕は前回の診療の際に主治医に問うた事と同じ内容の質問をしてみた。

ボールペンの組み立てについての話はなかったが、このセンターの利用者は意外なことに鬱病の患者さんが大半であるという。
僕が予想していた統合失調症などの患者さんは、かかりつけの精神病院でSSTなどの訓練をうけるので、外部機関であるこの施設にくることはないのだそうだ。

その後、社会復帰したときの希望月収や希望職種などを聞かれ面談は終了した。

今日はこれで終わりかと思ったのだが、

「お時間のほうが大丈夫でしたら、このままいくつかの検査を受けていただきたいのですが、大丈夫ですか?」

とのこと。
だいたい友人のいない僕に約束などあるわけもなく、僕はそのまま2つの検査を受けた。それは心理検査のようなもので、1つは鬱病の病状の程度に関するもの、もう1つは性格判断に使われるようなものだった。

それぞれの検査は数分で終わり、その結果を1つ1つ確認しながら、深く掘り下げた質問がなされた。

そして丸2時間たって、ようやく初日に予定は終了し、また次回の面談の予約を入れ、僕は「精神障害者」という身分から解放された。

次回の面談でもまだいくつかの検査が行われるという。


はじめに感じていた不安は、今回の面談で随分解消された。
ただ、実際のプログラムが始まっていないのでなんともいえないが、一つだけ確実なことは、僕はいつのまにか「鬱病患者」から「精神障害者」に、呼称が変わったようである。


精神障害者というと、多くの方は知的障害があり、言語や動作が不自然な方を想像されるかもしれない。
僕も正直なところ、精神障害者として扱われるのは、あまり気持ちのいいものではない。

しかし、調べてみると、「精神障害者」に対する法的な定義は複数あるようで、いわゆる日常生活に支障をきたす程度の深刻さを持った方を精神障害者と定義する法律もあれば、精神科領域の疾病(鬱病などの感情障害を含む)で在宅で療養中の方までも含めて精神障害者として定義する法律もあるようだ。


最初は抵抗があり、憤ってみたり、精神障害者と呼ばれることの憤りを感じるということは、彼らに対して無意識のうちに差別意識をもっていたということだろうか、などと内省してみたりもしたが、なんだかもう、どうでもよくなってきてしまった。
僕は確実に精神障害者として扱われる流れの上に載ってしまっている。


しかし、誰になんと呼ばれようとも、僕は桐原亮司。


狂った一族の嫡子であり、また、その一族の血を断つ使命を持った者。

傷ついた魂を抱え、ボロを着て、杖を突き、ランプを片手に闇の大地を彷徨う者。

ココロに空いた“穴ぼこ”を埋める“何か”を探して永遠に彷徨い歩く者。

過去の記憶に生きる者。



そう、僕の名前は桐原亮司。


精神障害者、桐原亮司。

狂気の者、桐原亮司。

孤独を憂い、孤独を求める者。




そう、何も変わらない。

何もかわらないのだ。



僕は、精神障害者、桐原亮司です。

ハロー、バイバイ

2007-07-05 23:23:41 | 鬱病日記
7月5日



こういう傷の負い方は、もうだいぶ前に忘れてしまっていたけれど、数年ぶりに突然降って湧いて出た。

こちらはただでさえ手負いなのに、その上ナイフで突き刺すような仕打ちなんてむごいよ。

だから嫌なんだ。

だから避けてきた。

これからもずっと、そのつもりだった。

なのに。

ほら、僕の身体はナイフの傷でボロボロじゃないか。

滴り落ちてくる血を、ぬぐいきれないよ。



だから、嫌だったんだ。

こうなることがわかっていたから。


出口なんて、みつからないよ。


ほらまた、魂が傷ついた。




通院日

2007-06-27 22:31:25 | 鬱病日記
6月27日



2週間に1度の通院日だった。


最近、あまり調子が良くない。
身体も重く、疲れやすくなった。

寝つきも悪い。
0時前にベットに入っても、3時~4時くらいまで眠れない日が続いていた。
睡眠薬や安定剤を何錠も飲んでいるのに。


医師は不眠時の頓服を処方してくれた。
「ミンザイン」という。
ハルシオンのジェネリックだというが、その安易なネーミングからして、効きそうにない。
ハルシオンも以前飲んでいたことがあったけど、結局効かなくなってやめたのだ。


身体がだるい。
今日こそは眠りにつけますように。
「ミンザイン」が隠れた力を発揮してくれることを祈って。




しんどい。

2007-06-22 00:38:02 | 鬱病日記
6月21日



今、すっごく寂しいです。

誰ともつながっていない感じ。

厄介なヤツがやってきました。

「孤独発作」です。


僕って、本当に友達いないんです。
家族の縁も薄く、というか、縁を切った感じですが、唯一今同居している母は、精神を少し病んでいます。

職場のいじめで。

僕は母の話を毎日、2~3時間聞かなければなりません。
そのたびに母は涙をながします。
つらいから、苦しいから、くやしいから。

僕は黙って母の話を聞きます。

それが僕に与えられた使命だから。


先日、母の同伴者として行政の労働相談センターに行ってきました。
ここにくるのはもう2回目です。

母の受けている上司からのいやがらせは、相当悪質なものだとセンターの人は言っていました。

解決策としていくつかの制度を提案されましたが、どれも相手に強制力はありません。

違法行為が認められないギリギリのところでやっているから労働基準監督署を使うこともできない、タチが悪いケースだ、と相談員のおじさんは言っていました。

母は家に帰ってきてもぐったりしています。

そして毎日仕事に行って、帰ってくるなりカバンもおろさず2時間以上愚痴り続けます。

母は、誰にも相談できる相手がいないのです。

僕と同じです。

母は、黒く重たい嫌な塊を、僕のココロの中にどんどん押し込んでいきます。
僕のココロの容量には気が回らないみたいです。

僕は苦しいです。

でも、僕が話を聞かなければ、母はもっと壊れてしまいます。


もうちょっとで、僕が壊れてしまいそうです。


あぁ・・・そうでした。

僕はもう壊れているのです。

もっと壊れて、動かなくなったら、母は気づいてくれるでしょうか。

壊れて動かなくなった僕の身体に、黒い嫌な塊を詰め込み続ける母は、どうしたら救われますか?

僕は、どこに向かえばいいですか?





なんだかな・・・。

2007-06-15 16:57:40 | 鬱病日記
6月15日


昼間からカーテンを閉め切った部屋は、薄暗い。
段ボール箱の上に無造作に置かれた、ノートパソコンの液晶画面だけがやけに明るい光を放っている。

起きたのはほんの数時間ほど前。気分が悪い。

この気分は、先ほどコンビニで買ってきた「カルピス キウィ&レモン ヨーグルト仕立て」なるドリンクが、思いのほかまずかったからではない。

久しぶりにヤツがやってきたからだ。



鬱だ。



あぁ・・嫌な感じ。
今回の鬱は、心の中がフワフワしているようで、上から重い何かで押さえつけられているような感じ。
身体は、だるい。いつものダルさではなく、鬱(正確には抑うつ状態)になったときに現れる独特のダルさ。
何をしていても落ち着かない。
天気もいいので散歩でもしようかとも思ったが、そんな気力がわかない。
こうしてパソコンに向かって、文章をつなげていること事態がすごく大変な作業に思えてくる。
何もしたくない。何もできない。
立っていても、座っていても、ベットに横になっても、どこに行っても居心地が悪い。
幸いなのは、母が出勤中でこの家には僕しかいないことだけ。



前回の記事から進展した状況をいくつかご報告したい。


1.僕の病状とリハビリについて。
1)6月13日が予定の診察日だった。
その場で医師と最近の状態について話し合った。
夜になって睡眠薬を飲んでもなかなか眠れず、起きるのはいつも昼過ぎになってしまう、と告げた。
医師は僕に、当面の課題として「生活リズムの改善と安定」を指示した。
それをサポートする意味で、処方箋の一部が変更になった。

2)「障害者職業センター」での面談について。
以前、医師から紹介があり、ガイダンスへの出席の予約をしていた「障害者職業センター」に、診察があった翌日の6月14日に行った。
僕を含め7名の出席者がいたが、僕以外の6名は風貌ややり取りから「障害者」と「付き添いのスタッフ」のペアが3組集まっているように推定された。
施設の目的や「障害者」への支援制度など全体のあらましについて説明があった。
留意事項として、このセンターでは職業の斡旋や特定の資格取得を支援するものではないとの説明が付け加えられた。

その後、一人(僕以外は一組)ずつ担当の相談員との個別の面談が行われた。
そこでは現在の状態、例えば受診している医療機関の有無やその病名、主治医の名前、治療方法など基本的な情報から、発病に至った経緯から本日までの生活状況の詳細について質問があった。
僕は鬱病で通院中であり、主治医の紹介でここに来たことを告げた。
中でも「リワーク支援」という支援についての紹介だったことを添えた。

相談員は女性で、明らかに僕よりも年下であったが、それでも誠実に一生懸命に職務をこなしているように見えた。

結論を言うと、主治医が薦めてくれた「リワーク支援」というサービスを僕が受けることはできないという。
「リワーク支援」の対象は「現在、会社(事業所)に所属しているが、休職中である人間」であり、彼らがスムーズに会社への復帰を果たせるように職場(事業所)、医療機関、センターの連携を強化し、必要に応じて職場(事業所)への介入を行っていくというものだ「リワーク支援」の趣旨だという説明だった。

その代わりに僕に提案されたのは、「職業準備支援」というサービスだった。
特にその中でも①センター内での作業支援と、②精神障害者自立支援カリキュラムの2つのサービスを薦められた。

①センター内での作業支援とは、“ばらばらの状態で与えられた部品をくみあわせてボールペンを組み立てる”作業を延々と続けるものだという。

また、②精神障害者自立支援カリキュラムとはSSTと呼ばれる対人技能訓練やグループミーティングなどを通じて、社会生活技能等の向上を図るためのものだそうだ。週に1~2回行われるらしい。

それら二つの支援メニューについて書かれたカラー刷りのプリントには、かっこ書きで、「対象:精神障害のある方」と書かれていた。

いつの間にか僕は、鬱病患者という呼称から、精神障害者へと呼ばれるようになっていた。





僕は、精神障害者ですか?




精神になんらかの障害がある方に対して差別するような思いはないが、自分自身がそのように扱われると、強い違和感と不快な思いを感じてしまうのは、やはり僕の心のどこかで彼らに対する差別意識があるからなのだろうか。




ガイダンスと面談は1時間半ほどで終了した。
今回薦められたサービスを受けるかどうかは、主治医と相談してから決める胸を伝え、支援を受けるかどうかの回答は保留とすることにした。


次の診察日は2週間後であったが、なんとなくこの施設とサービスの内容に違和感を覚えた僕は、予約外診療を受け付けてくれる18時になるまで、あてもなく街中をふらつき時間をつぶすことにした。

その日は珍しく朝から起きていたので、身体がつらく、すぐにでも眠ってしまいそうな勢いだったが、衝動的にリフレクソロジーのお店に入ってマッサージを受けたりするなどして、なんとか「18時」が訪れる事を待つことができた。


診察室に主治医が現れ、何かありましたか?と聞いてきた。
前日に受診したばかりの精神病患者が、翌日また受診しにきたというので何か他の事を心配してくれていたらしい。

僕は主治医に紹介された「障害者職業センター」に行ってきたことを伝えた。
主治医に薦められていた「リワーク支援」は受けることができないようであること、そのかわりボールペンを組み立てる作業などの支援サービスを薦められたことを伝えた。

正直なところ、バラバラにされた部品の中から適切なものを選んでボールペンを完成させる、という行為が今の僕に必要なものとは全く思えなかった。
センターの相談員は、「これはボールペンを組み立てることが目的なのではなく、このような軽作業をして自分の疲れやすさなどを確かめる意味があるのです。」と言う。
しかし、障害者ではない普通の人=健常者だって、一日中ボールペンを手作業で組み立てていたら、誰だって疲れてしまうだろう。
そんな作業に、何の意味があるのだろう。

また、SSTやグループミーティングなどは一般の精神科病院でもOT(作業療法)やデイケアなどの場で行われるていることは知っている。
何度かこのブログでも書いているが、僕は過去に1年間だけ、精神科病院の急性期閉鎖病棟で白衣を着て働いてたことがある。
主に医師や看護師さんたちの“治療行為”や看護の補助が僕の仕事だった。

現実の精神科病院で行われていたOTやデイケアは、正直なところ、患者さん達に何らかの良い影響を与えているとは感じられなかったし、参加している患者さんたちも、作業療法士などのスタッフも、「やらされている感」が強く見られ、なんとなく病院が言うから慣習的にやっている、といった感じで良い印象は持たなかった。
そもそも、それらの作業に参加するのは、大概が統合失調症(当時は精神分裂病)の患者さんばかりだった。

今回のガイダンスや相談員からの説明で受けた内容について主治医に報告するとともに、はっきり言ってあちらから推奨されたサービスについては良い印象を持たなかったこと、今の僕の現状にあった治療方とは思えないことなど率直な意見を主治医にぶつけた。


主治医は現状の精神科病院で行われているOTやデイケアの状態については、僕の主張するとおりであると同調してくれながらも、今回の施設のサービスについては強制するわけではないが、参加する方向で前向きに検討して欲しいとのことだった。

その日の診察はそれ以上話を進めず、この「障害者職業センター」のサービスを受けるかどうかについては、2週間後の診察日までに良く考えて、そこで結論をだしましょう、ということで話は終わった。最後に主治医はこの病院からも現在二人の患者がその施設でのサービス(どのサービスからはわからないが)を受けており、二人とも、「感触はいい。」といういう一言を付け加えた。


病院の帰り道、外は小雨交じりのあいにくの天気だったが、僕は地下鉄一駅分の区間を、大きな公園にそって歩いて移動した。
木々の緑を仰ぎ見ながら、色々なことについて考えた。


僕は、ボールペンを組み立てるべきなのだろうか?


あまり気はすすまないが、主治医の姿勢からして、恐らく僕はボールペンを組み立てることになるだろう。
それによって社会復帰が近づくのか、遠のくのかはわからない。


できれば僕は、健常者として社会復帰がしたかった。
でも、もしかすると、次に社会にでた時、僕は「精神障害者」であるかもしれない。


復帰したらやりたいと思っていた仕事の分野や、今勉強している資格試験なんてただの独りよがりに過ぎなかったのかな・・・。





まだ他にもお伝えしたい鬱以外の出来事が少なからずあるのだが、ここまで書いてきてなんだか疲れてしまった。
その話は、また次回以降の記事にしたいと思う。





なんだかな・・・・なんだかね。



危ない眼。

2007-06-09 03:28:20 | 鬱病日記
6月8日


相変わらず昨夜もなかなか眠りにつくことができなかった。
3時まで居間の鳩時計が鳴いていたことを覚えている。
そう、この家の居間には鳩時計があるのだ。
24時間のそれぞれの時刻と30分に1回、鳩は小窓から出てきて時を告げる。


目覚めたのは正午過ぎ。これもいつもどおり。
そのまま寝たり起きたりを繰り替えす。

ここのところ連日外出していたせいか、身体が辛い。
去年の今頃、強壮剤や栄養剤を何本、何錠と飲み続けながら、無理やり会社に通っていた時と同じような疲労感だ。
ちょっと調子にのって活動しすぎたのかもしれない。

今日はゆっくり休んでいようとも思ったが、「自立支援医療費」の更新手続きがまだだったことを思い出して、悩みに悩んだ末に「キューピーコーワゴールド」を2錠飲んで駅に向かった。

事前に電話で確認したところ、区役所の窓口の受付時間は17:00までだという。
電車と地下鉄を乗り換えて、ギリギリ間に合うか間に合わないかといったところだ。
乗り換えの駅についたが、地下鉄の駅までここから10分ほど歩かなければならない。その上、区役所の最寄り駅から区役所までも徒歩で同じくらいの時間がかかる。
このままでは間に合わないと思い、駅前でタクシーをつかまえた。

区役所に着いてから担当の窓口を探すのに少々手間取ったが、窓口に座ってからの手続きは恐ろしく事務的で、これ以上効率化する余地がないと思われるほどの手際の良さであっという間に終了した。時間にして5分程度だったように思う。

僕は手続きを終え、区役所を出た。

そこは懐かしい街だった。
僕が19才から20才にかけての1年間を過ごした街。

その街には精神科の専門病院があった。
そこで僕は白衣を着て、鍵のかかった急性期閉鎖病棟のなかで、毎日、患者さんたちと“格闘”していたのだ。
何も起こらなければ、僕は今頃その病院で看護師として急性期病棟の患者さんや精神科救急で運ばれてくる患者さんの看護にあたっていただろう。

だが、僕はその病院を1年で去らなければならなくなった。
昔の話だ。

色々と思いで深い患者さんたちを思い出しながら、地下鉄の駅まで歩く。
さて、これからどうしよう。

折角ここまで来たのだから、今月中に定期検査が必要な眼科に行こう。
3ヶ月に一度のペースで、僕は眼科の精密検査を受けている。

平日の夕方、駅ビルの中のクリニックの待合室には、二人の先客がいた。
受付を済ませ、待合室のイスに座って名前が呼ばれるのを待つ。
5分ほどで名前を呼ばれた。

最初はおなじみの視力検査だ。
コンタクトレンズをはずして、指定されたイスに座る。
片目を隠した無機質で無骨な検査用メガネをかける。
はじめは右眼から。

「・・・わかりません。」

「・・・見えません。」

「・・・すいません、ちょっとわからないです。」

僕の右目は弱視で斜視で、その上、視野の半分が欠けている。
コンタクトやメガネで矯正しても、視力が0.1を越すことはない。

幼い頃からそうだった。
今まで3度の手術をしたが、その結果がどうだったかについては語るまでもない。

小学校にあがるようになってからは、一年に一度学校で行われる身体測定が辛かった。僕の右眼では、視力検査で用いられる、一部が欠けた円とひらがなが縦に並んだおなじみの表が見えない。いや、見えるのだが、一番上に書かれた大きな文字が読めない。形がわからないのだ。円の欠けた方向もわからない。

「・・・わかりません。」

「・・・わかりません。」

「・・・わかりません。」

僕にはわからない、視力検査表の一番上の大きな字。
「わからない」を連発する僕の様子に、順番を待つクラスメイトがざわめきだつ。
いつものことだが、何度体験してもさらし者になったような気分になった。
“みんな”は僕に対して、なにか違う生きものを見るような、好奇に満ちた視線を投げつける。そして、ヒソヒソ、コソコソ言葉を交わす。


僕の“右眼”は、視力が他人よりも際立って悪いだけではなく、困ったことに僕の言うことを聞いてくれない。

「話を聞くときは、きちんと先生の顔を見なさい。」

「お前、どっち向いてるの?」

僕は真正面を見ている。目の前の彼を見ている。・・つもりでいる。
だけれども、困ったことに、僕の右眼は僕の意思にそむいて、そっぽを向いてしまう。
相棒となるべき左眼と同じ方向を向いてくれない。片目だけがいつも顔の外側を向いてしまう。

だから、昔から写真は嫌いだ。
自分の顔を見るのが嫌だったから。
眼が、片方ずつ、違った方向を向いている、とても奇異な顔。
写真はそんな事実を客観的に自分自身に見せ付ける。

大滝秀治さんの“しゃがれた”声のCMではないが、僕も彼と同じように、「ず~っと、この眼でやってきたんだよねぇ・・。」







「はい。では、次に左眼の視力を測りますね。」

両眼視ができない僕は、“健全に機能する”左眼に頼って生きてきた。
片目でしかものを見ることができないから、遠近感がうまくとれない。
そのため歩いていると身体をあちこちにぶつけたりするが、それでも彼はそっぽを向いた相棒について愚痴をこぼすこともなく、これまで僕の行く道をまっすぐ見据えていてくれた。

そんな彼も、ここにきて少し疲れてきたようだ。30年、相棒なしで頑張ってきたのだから相当無理がかかっていたのかもしれない。
それでも彼は頑張って、裸眼でも普段の生活に困らない程度の視力を発揮してくれる。コンタクトレンズという力も借りて、彼は僕の生活を無言で支えてくれる。

僕の右眼はやんちゃな坊主、僕の左眼はまじめで実直で責任感が強く、献身的な少年だ。


医師は僕に顕微鏡のような装置にあごを乗せるよう指示した。
部屋が暗室になったのと同時に、右目に光が当てられる。

「・・まっすぐ前をむいてくださいね・・まっすぐですよ・・・。」

こんな時でも僕の右眼は僕の意思を聞き入れてくれない。
もちろん、いつもそっぽを向いているわけではない。
気分のいいときは、相棒の左眼と同じ方向を向いてくれる。
しかし、こういう大事な時、つまり検査や、証明写真を撮るなんていう特別な時には例外なく言うことを聞かなくなってしまう。
とても気まぐれで反抗的なヤツなのだ。

このクリニックに定期的に検査に通うようになってから、1年くらいになるだろうか。
右眼が弱視であることは知っていたが、視野の半分が欠けていることについては、このクリニックで視野の検査をするまで気がつかなかった。
当時、“黒いドット”で表されたその検査結果を見せられたときは、少なからず衝撃をうけた。
僕の右眼は僕の意思に反抗する一方で、彼自身のきまぐれで向いた方向の景色の半分を映し出していない。


「う~ん・・・。」

僕の右眼を顕微鏡のような装置で観察している医師は、同情気味にうなり声をあげる。
最近、目の前を黒い点のような、あるいは虫のようなものが飛んでいるように見えることがある。
医師は顕微鏡のような装置の向こうで、こう言った。

「あ~、飛蚊症のような感じですね・・。う~ん、これはちょっとひどいな・・。」

僕のやんちゃな右眼は、自分勝手な方向を眺め続けてきた上に、視野の半分は見えておらず、最近にいたっては見えるはずのない“虫”を見続けてきたようだ。ほとほと困った子である。

でも大丈夫。30年、君の気まぐれにつきあってきたのだ。今更、何を言われても大概のことでは驚きはしないさ。


しかし、今回の主役はやんちゃな右眼ではなく、これまで献身的な働きをしてくれていた左眼のほうだった。

顕微鏡のような装置を左眼に向けた医師は、またうなってしまった。

「あっ・・、う~ん・・これはちょっと・・。今日、眼底やりましょう。あとカメラも。」

指示を受けた看護師さんが僕を検査室に案内した。

眼圧検査、眼底検査、眼カメラ?(眼の中の写真を撮られた。)
一通り検査を終えた後、僕はまた診察室のイスに座らされ、顕微鏡のような装置にあごを乗せるよう再び指示される。

ただ先ほどと違っていたのは、目に麻酔薬を点眼され、ドロっとした無色透明なモノを宝石を鑑定するときに目にはめるレンズのようなモノに塗り、それを直接僕の眼球に押し付けたことだ。

痛みはない。しかし、気持ちのいいものでもない。

特殊なレンズのようなものを僕の眼球に押し当てたまま、顕微鏡のような装置の向こうから僕の眼の中を覗き込んでいる医師は、一定の間隔をあけて僕に視線を向ける方向を指示する。

「・・左を見てください。・・・う~ん・・・あぁ・・・・じゃぁ次、左上・・・・上・・・・次は右上・・・右・・・右下・・・・はい、下・・・・左下・・・。」


両眼とも同じ検査を行い、ドロッとした液体で眼がベタベタになっているところを看護師さんがティッシュで拭いてくれている間、医師はパソコンに僕の両眼の写真を表示するように操作した。


少し間をおいてから、僕の両眼が映し出されたパソコンの画面を指し、医師が言った。


「とても危ない眼だね。特に左眼。」


え・・?左眼?ですか?右じゃなくて?


「そう。かなり変性してる部分もあるんだよね。こことこのあたり。網膜剥離になる可能性が極めて高い状態。」



そもそも、この眼科へ通うことになったのは、コンタクトレンズを作りに“コンタクト屋”に行った際、付属の眼科で医師の診察を受けたことがきっかけだった。

「緑内障の可能性があります。両眼とも。特に左が少し心配です。一度、きちんとした検査を受けてください。」

そうしてたまたま見つけたのが、駅ビルの傍のメディカルモールにあったこのクリニックだった。

前回までの定期検査でも、確かに“緑内障や網膜剥離になりやすい眼”との診断を受けていた。緑内障を疑わせるような状態も確認できるが、眼圧測定の値が高いわけでもない(むしろ低いそうだ)ので、経過観察としてこのまま定期的に検査を続けていきましょう、とのことだった。


今回の医師の言葉を聞く限り、緑内障のそれではなく、今は網膜剥離になる危険性が極めて高い、という。
少なくとも、前回3ヶ月前の検査よりもその兆候は顕著にあらわれ、眼の中の状態は悪くなっているということだ。

そうは言っても、特に今の段階で何らかの処置ができるわけではないので、今後も定期的に注意深く検査を受け続けていきましょう、ということで診察を終えた。


今まで献身的に尽くしてきてくれた僕の左眼は、この30年間でどうやら深い傷を負ってしまったらしい。



会計を済ませ、クリニックを出る。
あのドロッとした液体のせいで、眼がまだ通常の状態に戻っていない。
だからコンタクトはつけていない。


視界がぼやけている。
眼に映る全てのモノの輪郭が曖昧になり、そのモノの輪郭が周囲に溶け込んでいるように見える。
瞳孔を開く薬を使ったせいで、光がとてもまぶしい。


左眼の視力を失う、といことは僕にとって、とても重大な問題である。
右眼がやんちゃで未熟で、充分に機能しないからだ。

無論、網膜剥離になったからと言って失明するわけでもないだろうが、受付で渡された「網膜剥離」についての小冊子には、数通りの手術方法が丁寧に説明されている。


嫌だなぁ。こういう展開。


僕は家に帰る道すがら、わざと左眼を閉じて右眼だけで数メートルほど歩いてみた。このように左眼という優秀な相棒が機能しなくなったときは、普段は反抗的な右眼も、しかたなく僕の意思に従って動いてくれる。

その眼を通してみる世界は、全てが曖昧で、全ての境界が溶け出してしまった、奇妙な世界だった。


次の検査は3ヵ月後。
僕の左眼は、あと何年持ちこたえてくれるだろう。




機能不全の右眼だけで見る世界は、ほんの少しだけ、申し訳ないと感じている右眼の気持ちを表しているかのように、全てのモノが謙虚に映っていた。