意思による楽観のための読書日記

 「青山半蔵の憂い」は解決したか

明治維新前後の日本を描いた名作「夜明け前」は島崎藤村が56歳の時、1929-30年に掛けて中央公論に連載した小説でしたが、時まさに昭和初期に日本が世界との戦争に突入してしまう寸前、240年の鎖国を解いて欧米との窓を開いた「第一の開国」での問題について、当時の日本人に問うた小説でした。「夜明け前」が書かれた1929年という年は、金融恐慌につづいて満州某重大(張作霖爆殺)事件がおき、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年、日本が大混乱に突入していった年で、ニューヨーク発の世界大恐慌が始まった年です。「夜明け前」は、世界恐慌のあおりを受けた資源小国日本が、資源確保のための植民地確保に乗り出そうという方向に舵を切ることで、国のあり方と責任のバランスを崩そうとしているのではないか、という警告であったのではないかと感じます。

「夜明け前」でもう一つ描かれているのは、多くの日本人がわれ先に取り入れようとしている西洋から流入してくる新技術に、警戒感を抱く主人公の青山半蔵(島崎藤村の父がモデル)の葛藤でした。半蔵は平田篤胤が唱えた国学を学び、王政復古がかなうという明治維新の時に生きる日本人に今こそ必要なものは、日本古来の価値観を取り戻し、日本の自然に根ざした生活をすることではないかという思いを強く持ちます。江戸時代末期は、徳川幕府が仏教界に与えた檀家制度の特権にあぐらをかく仏教僧に対する反発が強まっていた時代でした。勤王という点で方針が合致した明治政府が、国学者勢力を利用して「神仏分離」の方針を出しました。新政府にとって廃藩と廃仏は、武士と僧侶という二大既得権益勢力の特権を剥奪する意義があったのですが、一部では行きすぎた廃仏毀釈運動が行われ、国宝クラスの仏教の宝物で現存する国宝の2倍は失われたとも言われています。平田派はその先頭に立った勢力でしたが、青山半蔵としては、平田派は新政府に良いように利用され、結局はお役に立てなかった、と感じていたのです。

今の日本人にはぴんと来ない部分もあるかもしれませんが、冠婚葬祭、年中行事のほとんどは宗教的背景をもった行事です。結婚式は神式でお葬式は仏式、等と言いますが、結婚式が現代のような形になったのは、1900年の大正天皇の結婚式からであり、それまで自宅で行う素朴な祝言の儀式、がほとんどだったようです。昨今問題になっている靖国神社は明治維新の際の神仏分離令で戊辰戦争以来の戦没者を祀るために設置された招魂社が、その10年後に靖国神社と改称されたものです(祀るといっても名簿が管理されているだけなのですが、旧幕府軍・反政府軍の戦死者は天皇の逆賊とされました。そのため、坂本竜馬や高杉晋作は祀られていますが、戊辰戦争の白虎隊や西南戦争で明治政府に楯突いた西郷隆盛は祀られていません)。 宗教は日本人の習慣や価値観に大きな影響を与え、そしてある意味では時の権力者に利用されてきました。青山半蔵(島崎藤村)の憂いを理解するためには、宗教の歴史を知ることが必要かもしれません。日本での神仏習合はいつから行われてきたのでしょうか。

「神仏習合」(義江彰夫著)によると、701年の大宝律令では、地方古来の祭を土台として豊年祈願や季節の順調な運行祈願である月次祭、新嘗祭などを執り行う神祇官を制度化、神々への捧げもの(幣帛-みてぐら)を神祇官をとおして地方に配布する儀式を行うことを取り決めています。これは種籾と稲作のノウハウを大陸や南インドから渡来した人々が日本に伝え人々を治めたことに由来する儀式ではないかと解説しています。天皇家の最初の支配構造を祭祀や儀式として残しているのではないかという推理です。農民達が税金である租庸調を納めるのは、こうした基層信仰を国家的に統合する呪術的な神祇官制度を持てたからだというのです。初期の農村では神々への初穂献上が家毎の収穫量に応じて行われ、村の祭祀を取り仕切るのが神主であり村長で、村長は初穂の延長線上に租庸調を捉え、農民からの税金となる収穫物を取りまとめ、律令国家の末端機能を果たしたと言われています。
神仏習合 (岩波新書)

しかし8-9世紀になると、五穀豊穣を祈る祭祀による地方支配が思うようにいかなくなり、全国の神社は神社内に神宮寺を建て、地方の神社は延暦寺、東寺、石清水八幡宮、興福寺などの末寺になることで豪族とともに地方支配をなんとか続けようとした、これらが神仏習合の原点であると義江さんは解説しています。そもそも仏教伝来は6世紀欽明天皇の時代、そして権力者として積極的に仏教を取り入れたのは聖徳太子、聖徳太子は出家僧に対して布施を行い供養を勧めて仏教への帰依を示しました。大乗仏教では仏陀の教えの体現者は僧侶だとして、僧侶に供養と布施を施せば贖罪と救済が受けられるとしたため、私的領有を行う地方豪族にも好都合な教えであり、こぞって仏教に帰依しました。王権と地方豪族は支配の論理とこうした信仰を結びつけ、神宮寺を通じて仏教で結ばれたのです。その後の日本は明治維新の神仏分離令まで約1000年の長きにわたって神仏習合が続いてきたのです。そのため、神仏分離令が明治維新の日本人に与えたインパクトは大きかった、と言いたいところですが、それ以上に西洋化、文明開化の波の方が強かった、というのが「夜明け前」での青山半蔵の葛藤だったのです。

明治維新の勤王思想は昭和に入ったときには天皇崇拝に昇華され、昭和の初めは、明治憲法で定義された天皇に直属する「統帥権」が国会での議論を硬直化させ、「統帥権干犯」は軍を国会から独立、国会を封殺してしまう明治憲法の欠陥として意識され始めた頃でした。藤村は、明治時代の国家方針「殖産興業」「富国強兵」に大きな政治的・経済的欠陥があったのではないかと考えたのだと思います。福沢諭吉は「脱亜入欧」を唱え、西欧化による経済発展は国の悲願となりましたが、明治維新の時のかけ声は「王政復古」だったのではないか、というのも藤村の問いかけです。明治から昭和にかけての日本経済発展の裏側で、従来の日本にあった「仁義礼智信」という儒教の教え、「足を知る」の心、親から子に伝えられてきた「勤勉・誠実・正直」など、神仏習合で積み重ねられてきた日本的価値観が、廃仏毀釈運動や合理性・効率・市場競争などという西洋的価値観に覆い被されてしまってはいないかという懸念を持ったのだと思います。表面的には世界の一流国と見なされるようになったはずだった日本が、実は政治、経済、文化すべての面でまだまだ未熟な国なのではないか、という問題提起です。
昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

青山半蔵が木曽馬籠や江戸で、そして宮司として使わされた飛騨の水無神社で国の行く末に憂いをもった幕末から明治維新までに、日本の方向を決めたいくつかの国の「ビジョン」が示されていました。1867年、坂本龍馬は、幕府による改革に限界を感じ、薩摩・長州による討幕を推し進め、天皇を中心にした国内統一を図ろうと画策しました。そして、NHKの大河ドラマでも登場した「船中八策」、長崎より京都への船中で、新しい国の体制について後藤象二郎に意見を述べたものです。

1.天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと。
1.上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
1.有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
1.外国の交際広く公議をとり、新たに至当の規約を立つべき事。
1.古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事。
1.海軍よろしく拡張すべき事。
1.御親兵を置き帝都を守衛せしむべき事。
1.金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。
25通の手紙で読む 龍馬の肉声 (祥伝社新書 193)

ドラマでは、桂小五郎や吉田東洋などの教えをまとめた、と紹介されていましたが、その中の一人横井小楠は松平春嶽のブレーンとして幕政に参加、船中八策と前後しますが、1863年には幕政改革の方針を、「国是七条」として建議していました。

1.大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。
1.諸侯の参勤を止めて述職となせ。
1.諸侯の室家を帰せ。
1.外様・譜代にかぎらず賢をえらびて政官となせ。
1.大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。
1.海軍をおこし兵威を強くせよ。
1.相対交易をやめ官交易となせ。
横井小楠―維新の青写真を描いた男 (新潮新書)

龍馬の船中八策はこの延長線上にあることは明白です。幕末から明治維新時代のすごいところは、こうした一藩士や脱藩浪人の意見が本当に幕政や新政府方針に採用されたところでした。船中八策の大政奉還をはじめ、それ以前の国是七条も参勤交代廃止、海軍強化、官貿易などすぐさま幕政に取り入れられ、江戸詰大名の家族や家来達は「夜明け前」の物語でも描かれたように東海道、中仙道を通って各藩に帰ったのでした。

龍馬は、「船中八策」を建議したこの年の11月暗殺されましたが、その直前に新政府の財政担当として、福井藩にいた由利公正を推薦、由利は新政府の方針を広く世間に示すことが重要として、つぎのような新政府ビジョンを作り示しました、これが五箇条のご誓文の原案となります。

1.庶民志を遂げ人心をして倦まさらしむるを欲す。
1.士民心を一つにし盛んに経綸を行ふを要す。
1.知識を世界に求め広く皇基を振起すへし。
1.貢士期限を以って賢才に譲るべし。
1.万機公論に決し私に論ずるなかれ。
経綸のとき―小説・三岡八郎

横井小楠の「国是七条」から龍馬の「船中八策」、そして由利公正の「五箇条の御誓文」草案まで、国家ビジョンの道筋がはっきりと一本見えるようです。現代日本の国家ビジョンは明確に示されているでしょうか。

経済バブル崩壊からの経済停滞、そして米国系企業で採用されている成果主義の導入と失敗、米国で盛んだった金融工学導入による財テクと世間からの批判、エンロン・ワールドコムの反省から生まれたサーベンス・オクスレイ法を日本版として焼き直したJ-SOX、IFRSへの対応、米国リーマンショック後の日本経済不振などの状況は、昭和の初めに島崎藤村が提起したのと同様の多くの問題点を孕んではいないでしょうか。「東洋は道徳、西洋は芸術」と言ったのは1864年に暗殺された佐久間象山、道徳は朱子学, 芸術は科学技術を意味し、「和魂洋才」という近代日本のビジョンの元となりました。そして横井小楠は「堯舜孔子の道を明らかにし, 西洋器械の術を尽くさば、何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」と東洋の思想を身につけ、西洋の技術を修得すれば、それは富国強兵ではなく、日本は世界の平和に貢献していけることを力説しています。1866年、日本では攘夷だ開国だと騒いでいる時点で国際貢献を説いているのであり現代の私たちにとっても重みがある言葉だと思います。また、1900年から2年ロンドンに留学した夏目漱石は1911年に講演で次のように言っています。「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」と日本の開化の特色を分析。また、「現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである」ともいい、「事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」「上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になる」などと評価していました。
幕末の明星 佐久間象山 (講談社文庫)

日本人の価値観は、青山半蔵によれば「神道を根本とし、儒仏を枝葉とすべし」、「神仏習合」の著者義江さんはこれを「神祇信仰は基層信仰、儒教仏教は普遍信仰である」と表現しています。しっかりした道徳がなければ、輸入した技術は皮相的である、と言うことなのだと思います。欧米諸国により間接直接に市場開放を迫られる日本、そして経済発展のために新たな開国を迫られているのが現代です。日本の現状を憂う多くの「青山半蔵」はいると思いますが、横井小楠、坂本龍馬、由利公正、そしてそれらの意見を採り上げ実行した松平春嶽、山内容堂、大久保利通にあたる人物はいるのでしょうか。
夜明け前 第1部(上) (岩波文庫)
夜明け前 第1部(下) (岩波文庫)夜明け前 第二部(上) (岩波文庫)夜明け前 第二部(下) (岩波文庫)

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