意思による楽観のための読書日記

昭和のエートス 内田樹 ****

内田樹は1950年生まれ、私より4歳年上、団塊の世代である。現時点ではほぼ同世代と言えるほどの違いであるが、昔の出来事を思い出しながら振り返るときには4年の違いが少し増幅される。昭和39年の東京オリンピックの思い出、現在の金儲け的五輪招致に反対する内田だが、当時内田樹は14歳だからもうすでにその時点で批判的な視点を持ってみていたのかもしれない。私は当時小学4年、聖火リレーの終点である最終ランナーとして走る坂井義則君、聖火台の横でぶらぶら揺れている謎の三っつの物体(多分聖火着火の様子を撮影するカメラ)、入場行進曲のことを、急速に発展する首都東京への憧れと共に思い出す。(以下、本書の内容を土台にした私の個人感である)

内田樹の父と私の父も多分同世代、「戦争に負けた」、という意識を強く持っていた大正世代である。大正生まれの人たちは、戦争への国家的傾斜の途中に教育を受けた。国家のためには個人を犠牲にすることの尊さを幼い頭に埋め込まれたはずである。敗戦時、その世代は20歳代、占領軍による民主化と軍隊に関係するものの根絶が猛烈な勢いで起きていた。大正世代のそのまた親たちは、「負けたんだから仕方がない」というつぶやきもあったのかもしれないが、大正世代は「僕たちは騙されていた」「こっち(民主化と非軍事化)が本当だったんだ」との思いを強く持った。昨日まで「お国のために死ぬまで戦うことが君たちの使命だ」と教えていた大人たちが、戦後は「民主主義の大切さ」を教え、軍隊で威張っていた大人たちが、今は闇のビジネスで金儲けしている様を見て、大いなる失望を感じたはずである。「民主化」を勧めてくれていたはずの占領軍、アメリカ政府の方針も、日本労働界の急激な左翼化に対するブレーキや、中国共産化、朝鮮戦争から日本再軍備に向けて急変する。根源的に、「国の方針は本当に正しいのか」「この人達の言っていることの裏側には何があるのか」をいつも考えるのは当たり前とも言える。

そうした大正世代を親に持つ、そしてその強い影響を受けたのが昭和20年代生まれ、団塊の世代である。昭和30-40年代には貧乏なことは決して恥ずかしいことではなかった。クラスのマジョリティが貧乏で、お金持ちもいたが、家庭教師がいる、塾に通う、なんていう友達には同情したものだ。団塊の世代が成長の過程で見聞きした出来事、昭和35年の安保闘争、37年キューバ危機、そして39年東京オリンピック、41年政界汚職、43年3億円事件、44年大学紛争、45年大阪万博、三島由紀夫割腹、47年あさま山荘事件、横井さん帰還、48年金大中事件。内田樹は大学紛争時に大学入学、私はイエスタデイ・ワンスモアを聞きながら48年に大学に入った。こうした出来事を振り返ると、やはり中学生までは起きている事件の内容を、受動的に受け入れてしまっている。大学以降は出来事に対する自分のスタンスを感じながら振り返ることができる。つまり大学入学以降は大体内田樹と私の年の差は縮まっていく気がする。その後、50年ベトナム戦争終結、51年ロッキード事件などと続く。内田樹は39年の東京オリンピックが「敗戦後の脱力感」の転換期だったという。私にとっては、転換点は大阪万博あたり、しかし敗戦後ではなく、それは貧しさから豊かさへ、裏から表へ、水面下から水面上へ、子供から大人へ、などと重なっている。

人はどのようにしてこうした自分のスタンスを形成していくのか。幼年時代は親の影響が絶大である。小中学生時代は時代背景の影響も強く受けるだろう。そして高校生から大学時代は自分の周りにある環境や情報から何を掴み出せるか、にかかっている。両親がどの程度口出しをするのか、15歳以降の経済状態も大きく影響するだろう。生まれた時代は変えられないのだから、「何を肯定し、なにを否定できるか」という自分のスタンスは経験と知識の上にチョコンと乗っかているヤジロベーみたいなものであろう。大正世代の人たちは国家も自分の経験も知識も一度すっかり否定せざるを得なかった。そこに「断絶」が存在する。一方、その親達の世代では、敗戦後廃墟の中で家族を養うため、生き抜くために、敗戦時に自分のスタンスを書き換えられなかった人もいただろうと想像できる。その場合でも心のなかには捨てきれなかった「断絶」が存在するだろう。

昭和の戦後世代、そして平成世代に自分の全経験と知識を否定した事があるという人はどのくらいいるだろうか。自分の経験を否定する、これは並大抵のことではない。年齢で言えば、20歳であれば、20年間を全否定しても、その後に数十年の人生が残っていると考えることもできるが、40歳ではすでに難しく、60歳を越えるともう困難とも言える。昭和のエートスはそんな、昭和時代を経験してきた40歳以上の大人たちへの問いかけであると共に、20,30歳代の世代にも「肯定と否定」について考えてほしいというメッセージと受け止めたい。

「大義なき解散」という話題が最近あったが、「大義を語る大人」ほど信用できないものはない、というのが昭和のエートス(特性、習慣)。大義がないと批判されて慌てて大義を作り出す、そんなものはもっと信用できない。憲法改正の自民党案に入り込んでいる根源的思想を「個人より組織と国家」という不気味で信用できない大きなものに感じてしまうのは、昭和のエートスであると感じる。私と同世代である現在の総理は、「否定と肯定」についてどう考えているのだろうか。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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